年貢の納め時
40年のあいだ年金を納付してきて、現在は給付されているいわゆる年金生活者なのだが、未だに納付している銭がある。納付は終わっていないどころか始まっているワケだ。衆院選挙戦竹縄で(つまり竹で縄をつくるような公約ばかり)、メディアでは「バラマキ選挙」と称されているが、あのバラマキの銭は別にその政党の金庫の中に在るワケではナイ。じゃあ、何処に在るのか。それは国民、市井の大衆が納めた税金の中にしかナイ。
COVID-19の臨時給付や援助やなんかでこれまた政府はバラマキしたが、この銭もナンダカこっそりとあちらこちらから銭を引っ張ってきているだけのことで、私の場合、年金のほうから天引きされる「介護保険料」が5100円から22800円といっぺんに多くなった。これはそれだけ支給される額が減ったということだ。だいたい介護保険というのは、今後、たとえば私の場合などはおよそ十年後に必要になってくる銭で、いまのところはこの22800円納付を家賃支払い以外の生活費に充てていた(年金基金を足した)13万円相当の銭から差し引かねばならない。光熱費、上下水道費、医療費を差っ引くと、兵站がほぼ無くなる。餓死だな。
そういう殺され方は断固拒絶しているので、テキ屋仕事をせっせとやらなければならない。劇作家や作家などの物書き、文売(ブンバイ)稼業を真っ当な(まさか芸術とかの)仕事だなどとおもったことは一度もナイが(この理由についてはあらためて書くが)、テキ屋仕事だろうが銭にさへ換えられれば乏国の飢えと病に弄ばれる幼童の貧者の一灯にもなる。幸い(だとおもうしかしょうがナイのだが)現在のところ、扶養すべき責任を負うものもナイので、書けなくなったら一巻の終りでヨロシイ。殺されるよりはマシだからな。自燈明とは、自分がどんな燈明であるにせよ、燈明である限り自らの足下を照らし、他者にとって仄か微かな目先の明かりくらいにはなるだろうという、釈尊のエエ加減な悟りに倣った生き方で、捉え方を換えれば他人の迷惑省みずというエピクロス主義の闊達さともいえる。
本日より、二人芝居の開幕。舞台で死ねたら本望などという気はさらさら無いので、エエ加減にしかやらないだろうけど。
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