無学渡世・第二幕の11
/私たちは鬱疾患者は常にどこかで「私」と干渉(関係)する場合、何か「ズレた」感覚で干渉(関係)している/と、これが作用素を通過したoutput(出力)だとすると、そうして、これが「固有状態」だとすると、input(入力)したときも、/私は何か「ズレた」感覚で干渉(関係)していた/ということになる。しかし、入力したときの私は私でしかナイ。この矛盾は、/私→「私」と作用素で変容したことになる/、という「固有状態」の在り方の掟破りからきている。波束の収縮は入力のときにすでに「ズレた」感覚で起きていて、作用素(この場合ダブル・スリット)を通過したことになる。つまり、結果が原因を変えたということができるということになる。これは時間軸的には、ニュートン力学系では扱えない。
この/結果が原因を変える/というかんがえは、「因果」のまったくの可逆現象なのだが、いわゆる「遅延洗濯実験」として現在の出来事(事象)によって過去を変えることが可能になる、と大真面目に議論されたこともあった。それは、量子が波なのか粒子なのか未だ解決していなかったむかしのことで、実験そのものも、量子が波か粒かを検討すべき実験だった。これは実験そのものの中にほんのちょっとニュートン系力学が交じっていることの立証によって否定されているが、タイムマシンめいたmiracleもそのオマケだったといわざるを得ない。
ところで、あまり詳しくは解説出来ないが、「固有状態」で波束の収縮現象が観測されるのはシュレディンガーの波動関数においても、作用素の状態が「純粋状態」と称される場合のみで、「混合状態」ではそれは生じない。それには「密度行列」を必要とするのだが、また、量子を粒子として現象させているものは/電磁場の量子的な励起状態/という、私の手には終えないところ以上に量子力学は進んでいるのだが、あまりに鬱疾患から離れるとmemo程度が混乱してしまうので、その辺りの学習はここまで。
私のかんがえも、もちろん、そういうタイムマシンのような現象を肯定しない。けれどもこの入力と出力の関係を解消するのには、ここにおける一切のニュートン力学系を排斥しなくてはならない。たとえばそれは、電子が一個の粒子で飛んでダブル・スリットに入るときに波になり、スクリーンに到達するときに粒子となる、という運動そのものを否定してしまう(このボーアが提唱した相補性も実験で否定されている)。電子は発射されたときから波であり、粒である(これが現在は電磁場の量子的励起状態とかんがえられているソイツね。しかし、まあ、粒々のほうがかんがえやすいので、粒子ということにすると、作用素を通過するとき(ダブル・スリット通過の場合はハッキリと波というとイメージしやすいのだが)、そうすると、スクリーンに到達したときの痕跡は波束の収束なのだろうか。そもそも「スクリーン」とは何なのだろう。今一度問う。スクリーンの痕跡は波束の収束なのか。それとも電子と「スクリーン」との融合という現象でしかナイのではないか。鬱疾患という波は、どこで「ズレないで」重ね合わさっているのだろうか。鬱疾患の波の正確な重ね合わせは可能なのだろうか。これは/正確に波が重ね合ったとき、鬱疾患は終息する/という命題の解になるはずなのだが。たぶんスクリーンへの到達は鬱疾患の終息を意味しない。
さあ、いうだけいって、書くだけ書いて、ますます道のりは困難になってきた。聳え立つ断崖を眺めて私はそんな場所に立っている
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