無学渡世・第二幕の2
「こういう時代だからこそ出来ることがあるはずだっ」
という声はここ十数年のあいだの天災がとき、なんべんも聞いた。
で、けっきょく、歌をうたったりするのだ。歌手は。
歌手でナイ、たとえば曲芸師なんかは曲芸でもするんだろうか。
中華キョウサントウが、「万歳っっ」と大会やって、いまある中華こそキョウサントウの成果だ、とはしゃいでいる片隅で、さすが中華でも失業あるいは低賃金労働者のおっさんは、こういった。「それほど大騒ぎすることでもないとおもうがね」
身の行く末と、むかしのことをふとおもうような歳になって、ふと、きょうはチガウ、ある小説の最後の一文をおもいだした。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
太宰老師の『ヴィヨンの妻』の最後のせりふだ。こういうのを太宰、戯曲の『冬の花火』『春の枯葉』で書いていれば、太宰戯曲にも脱帽したとおもう。けれども、太宰老師の戯曲は素人の粋を出ない。まだ、私のほうが上手いと私はニンマリする人非人だ。
ところで、不覚も不覚、このヴィヨンというのが誰(何)なのかをずっと知らないでいた。別に興味がなかったからだけなのだが、なぜ興味がなかったのかはワカラナイ。
/フランソワ・ヴィヨン(François Villon], 1431年? - 1463年以降)は、15世紀フランスの詩人である。パリ大学に入学して同学を卒業したものの、在学時より売春婦やならず者といった輩と行動を共にしていた。1455年に乱闘騒ぎで司祭を殺してしまい、パリから逃亡してアンジュー近郊の窃盗団に加わる/。
つまりまったく人非人なのだが、スゴイ詩は書いた。
うん、それでイイや、な。/私たちは、生きていさえすればいい/
これから、そうします。こうい時代もへったくれもナイ。ただ、生きていればイイ。オモシロイことは世間がみなヤってくれるからな。こんな喜劇(comical)な時代はなかったよな。
安吾老師も、死ぬか生きるかで悩んだとき、フランスの作家ジャン・ジュネの代表作『泥棒日記』を読んで、欣喜雀躍したそうな。こんなスゴイやつがいるんだ、と。
スゴイかどうか、安吾の躁病がもたらしたコーフンだろうとおもう。
赤木ファイルがとうとうさらけ出された。慌てた自民党、普段なら芸人のシャブ発覚でかわすところだが、適当な大物がいない。そこで、大慌ての付け焼き刃で大ハッタリの大芝居一幕、「COVID-19ワクチン品切れです」
あるのよワクチン。ありますよ、そんなもの。ファイザーとモデルナが同時に在庫切れスルなどというバカなことが起こる確率をかんがえなさい。昨日の今日で、残量をマチガエルほどいくら自民党でもそんなに阿呆ではナイですよ。しかし赤木ファイルは自民党の首が飛ぶ。それならと庶民大衆の首を横向けた。「ワクチン在庫がありません」さあ、庶民大衆はもう赤木ファイルよりワクチンだ。Olympicなど、勝手にやってくれ。ワクチンワクチン・・・。
いずれにせよ、私は決めた。「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
しかし、このままじゃ、死ぬひとも出るわな。ちと、呑気過ぎたかな。
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