無料ブログはココログ
フォト

« 2021年6月 | トップページ | 2021年8月 »

2021年7月

2021年7月30日 (金)

無学渡世・第二幕の9

やっと雷が終わった。
で、PCの電源を入れる。それまでEuropeのいつものように凝った暗いミステリを観ていた。観ていたけどかんがえていた。
直近の悩み。このような鬱疾患に対するブログを書いていることや、他に鬱疾患に対して抵抗しているつもりで日々営為していることが、それ自体が鬱疾患の病理独特の〈躁転〉ではないのか。鬱疾患への抵抗か、鬱疾患それ自体の変貌か。その判断はどうすればイイ。どこで線を引けばイイ。これは〈本質的〉な鬱疾患からの攻撃のようにも感じた。
そこで、思考停止。ビデオを観ていてふと思いついた答。こういうものは、けっきょくinspirationから飛び出す。
Answer=「半々にしておこう」だ。抵抗営為半分、病理反応半分。/前者でもあれば後者でもある/で、充分だろう。でないと進めない。進んだほうがよかろう。丁度、量子が「波でもあり粒でもある、ワカラナイもの」(これ、現在の量子に対する定義)なのだから、現状の脳裏脳髄の思考試行状態を、ともかくもフッサール現象学的にエポケー(判断停止)いわゆる「カッコに入れる」ことにして、で、現象学的還元に進むかというと、さほど面倒なことは避けたほうが望ましいともおもうので(フッサールおよび現象学においては、エポケーとは現状の命題(ここでは判断しかねる問題に該るが)を文字通り「カッコに入れる」ことを意味する。すなわち世界(ここでは主に脳内の思考)内的現実と環境世界についての関係における信念(或いは疑義・迷妄・思い込み)をカッコに入れる。ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではない。現象は起こるにまかせ、そこで現れているものの非・実については判断しないということである)要するに前述したように、「AでもありBでもあり、半々であってよい」ということだ。

さて、鬱疾患の喩として、あるいは客観的な近似として方法的に用いている量子力学(ただし、半可通だから自己流学識だからネ)から、状態ベクトルを鬱疾患の考察に使うことにする。状態ベクトルというのは「波の重ね合わせ」のことだ。数学的にはベクトルの合成と同じとおもってもらってもイイ(と私はおもっている)。そうすると鬱疾患という状態が逆にベクトル化出来る。簡単にXとYの関数グラフにしてしまうことも可能だ(波動関数は一次関数、線型代数です)。そこでは鬱疾患が精神病理学問診のように、心的要因、外的要因、内的要因の何れかに当てはめて論理を進めるということはおそらく意味のナイこととなる。波動関数は複素数なので、虚数(二乗したものが(-)になる数)を含む。そこでは要因が心的であれ、内的であれ、外的であれ、その乗数が(-)になる要因の存在はかんがえられない。 
漠然としたイメージをいってしまえば、鬱疾患は波の重ね合わせが〈ズレ〉ている状態のようにおもえる。「固有状態」が作用素を通過して同じ状態で出てくるはずが、微妙に或いは、かなり〈ズレ〉ているのだ。これはもちろん作用素に問題がある。そこで、作用素に「行列」を用いることにする。量子力学でいう「密度行列」なのだが、数学で用いる行列と同じように行列をつくる。この作用素を常態が通り抜ける。この入力に対して鬱疾患が出力されるとすれば、作用素の状態が「混合状態」であれ「純粋状態」であれ(つまり「密度行列」だとすれば)、波動関数にすらこだわらずに、入力→作用素→出力をもちいることが出来る。まあ、ともかくは、現状はさまざまにhintを並べているのだ。

2021年7月27日 (火)

幕間のだんまり

目覚めると、恐怖心と自殺念慮がヤってくる。もちろん鬱疾患者によくみられる症状なのだが、鬱疾患自体は個々それぞれなので、そういう寝起きでナイも在る。この承服し難い症状はいま生存している世界の体感が希薄になっていることからきている。半覚半睡の続編とでもいえばいいのか、簡単に寝惚けているとでもいってしまえばいいのか、或いはそうではないナニかなのか判断もつかない。『不思議の国のアリス』や、『ムーミン谷の冬』で冬眠に失敗してただ独り起床してしまったムーミンの心境はこんなものだったのではないかと、ほかに比較するものナイので、その二作品と自身の心身の在り方を重ねる。
タイトルの「だんまり」は/歌舞伎で、登場人物がせりふ無しで、暗中にさぐりあう動作を誇張して表現する演出法/(ウイキ)のことだが、そんなふうなのかも知れない。或いは/どうかんがえたって変じゃないか/という〈対他〉を拡張した〈対環境的〉心情、感覚かなあ。
/世界はこんなに変だったか/と、悪夢を観ているのと同じようなその気持ちの悪さを懸命に払拭して、/ひょっとして土産にもらった玉手箱を開けたときの浦島太郎もこんなだったかな/と、一般相対性理論でいう、/いきなり自身の乗船していたロケットの時間(時計)がロケットの反転エンジン噴射によって急回転(針がクルクルまわりだす)したような目眩憾/に襲われながらも起床。
気が狂う兆しかな、とっとっと、こちらはすでに精神医学的には精神病に扱われているうつ病者だ。そうか、オレが変なのか。一つ目人間の国で自身が両眼であることが変なのに気付く、あの、paradoxか。いやいや、なんとかしなくっちゃ。と、一日が始まる。
mentalの疲れが強いとphysicalの疲れもひどくなって、寝入り数時間で尿を漏らすことがある。これも、高齢者鬱疾患にみられる症状だ。mentalの疲れなら単数では日常たいていの者にはあるから、尿漏れなどがあるときは、これが幾重にも襲ってきたときということになる。
〇劇団を解散してからレンタルの演劇スタジオになっていたナビ・ロフトが、建築法関係の違法ということで立ち退きになった。建ててはアカンところに在るらしいのだ。私たちが(劇団時代)そこを稽古場兼舞台として、二百万円をかけて材料を揃え、手弁当で改装したときは、そこは山野の類で梅林が多く、送電線で繋がれた電波塔が並んで立っていた。やがて地下鉄が近隣まで通ると近辺にマンションや新築の家、突然山の土地が売れた成金の屋敷などが立ち始め、いわゆる居住地区ということがハッキリした。そういうところには、ヌード・スタジオ、遊技場、映画館、劇場の建築は違法になる。とはいえ、周囲は暗闇のたまり場のようで、痴漢出没要注意地区といわれた。
梅林のときは綺麗だったなあ。
〇東京の公演の劇団にclusterがあったことについての一部始終を、座組の出演者が興行主(producer兼演出家)にたいする抗議の長文としてSNSに投稿した。観客も巻き込んだけっこうな規模のclusterなのだが、いまじゃ、ちょっと話題になったが問題にもならない。内容、事象といえば、昨今の小劇場演劇業界では起こるべくして起こるイヤな〈事件〉の類だ。コロナ騒ぎと保健所をうまく手玉にとった(もちろん、いちばん手玉にとられたのは役者たちなのだが)狡猾な主催者(興行主・演出家)の、違法な公演で、結果、その座組の上演を今後は禁止という科料で決着したらしい。そんなものは、座組の名前を変えてしまえば、いくらでも公演は出来るのだから何の罰にもならない。まだしも座員に慰謝料やコロナ感染の医療費を支払うとか、せめて見舞金、あるいは役者個人チケット販売からのピンハネの変換とかの過料のほうにしなければ主催者には何の痛手もナイ。また、主催者本人についての刑罰がなければ、これは詐欺に近いまったくの完全犯罪になる。だからの痛恨の投稿なのだろうけれど、しかし、messenger ワクチンは遺伝子を使うから将来遺伝子系の疾病になるとか、不妊になるとか、まったくの出鱈目を信じてワクチン接種を拒絶しているような無知(無垢ではナイ)な若者を騙すことくらいワケないことと、これがあまりに簡単な手口でやれちゃうと露呈した一部始終。そっちのほうが小劇場演劇業界にとっては衝撃だろうな。味の悪過ぎる手口だ。
あのね、/東京では小劇場系演劇でもけっこうな銭儲けが出来るのよ/。ニタリと笑って置く烏鷺の石の音。
〇そうして、三発目。伊丹市のアイ・ホールが廃館になる。公共ホールだからな、お上が「や~めたっ」といえば、すぐに幕。お上、つまり為政者(伊丹市)にとっては年間九千万円の管理委託料を予算から削れるし、新しく貸し出すボルタリング遊戯の経営会社からは賃貸料が入る。「演劇都市宣言」のシンボルとして建築された劇場の三十余年に及ぶ、いま流行りのレガシーなど、現在の為政者にとっては完璧に無価値なものだから、ナ。三十余年に渡って、屋根の下で雨も降ってナイのに雨宿りしてきた輩もどうかとおもうけど、しかし、管理者つまり汗水たらして、ジャンクフードで食いつないできたstaffに明日は無いことだけは確かだ。確かというより麻疹(はしか)だ。
呆れたもんだぜ政治なんて。
東京オリ・パラが終わってから、COVID-19感染者が一日5000~10000人になったとき、この国の文化の終焉、経済の崩壊、つまりは亡国が始まる。

2021年7月23日 (金)

無学渡世・第二幕の8

/手とココロがリンゴに届かない/という状態が数時間つづくことがある。特に苦痛を伴うということはナイ。むしろ、「半睡半覚」で気持ちはゆるんでいる。「半睡半覚」はよく「金縛り」などといわれて、けっこうしんどいものの類らしいが、以前、いわゆるカラダから魂が抜けて行く心身離脱状態を経験したときは、なかなかthrillingなものだった。布団の中に私は眠っているのだが、目覚まし時計に伸ばしている手が在るのだ。もちろん、身体的に手は布団の中だ。次第に眠っている私の顔がみえてくるようになる。抜け出た魂のほうは、キョロキョロ辺りを観ている。上半身まで抜け出たあたりで、これは、空中浮遊も可能かなとオモシロクなってきたが、そこで、ハッと覚醒してしまった。
鬱疾患は、心身がこいつの/苦しい/ほうの状態になる(のと似ている)。完璧な純粋自己疎外の状態だ。
自身がそのような内部的外部的状態におかれる、つまり鬱疾患状態であるときでナイと、自己分析が出来ない。しかしながら、鬱疾患における思考は不正解であるという精神医学の定義があるので、こいつは矛盾だ。従って、私たちはまず、鬱疾患を精神医学領域から逸脱させるところから始めた。とりあえず、強い鬱疾患症状が収まっているときに、記憶と経験を縫い合わせて論理化していく。何かhintになりそうなものは手あたり次第に取り上げるので、このブログ文案にはマチガイも多かろうと予想している。とはいえ、何をマチガイとするかは自己自身の実験分析からしか得られないので、アトアト、どうもこれは胡散臭いという部分はcutしていくという作業になる。しかし、それだけでは客観性が乏しくなるので、量子力学との相似を探っていると、まあ、そういうことをヤっているとおもってもらってイイ。注目に値するのは、たとえば、
/電子(量子)は波のような「波動性」を持っています。ただし「何かの波」ではなくて「波だけ」です。 そこで、その波の形を調べよう、ということになります/。
というような定義だ。これは、量子を鬱疾患に入れ換えて
/鬱疾患は波のような「波動性」を持っています。ただし「何かの波」ではなくて「波だけ」です。 そこで、その波の形を調べよう、ということになります/。
とすると、ここではもう確実に精神医学から離脱している。これをさらに
/鬱疾患は重力波のような「波動性」を持っています/とすると、心身の鬱疾患の状態からして、この疾病(状態)が重力と関係しているのではナイかとおもいたくなる。たとえば鬱疾患の場合、自分の心身が自分にのめり込んで動きがとれないという感覚がある。
それから、鬱疾患には/良いときと悪いとき/が在る。つまり、波状のようなものだ。
たとえ入出力が同じの「固有状態」でも、「初期値」というものがある。「疾患者」に対する「健常者」といってもイイ。ここから波動関数に置換したとして、そのアトは「固有状態」がつづく。従って、「初期値」から「固有状態」へとベクトル(波の状態)を変容させる作用素こそが、前述した、調べるべく「波のカタチ」だということになる。/重力波の超過、過剰な重力波/がなんらかの相転位でもたらされたとき、鬱疾患が生じる。もちろん、重力波だから、MRIにも引っ掛からない。ココロがMRIに捉えられないのと同じ原理だ。

2021年7月22日 (木)

無学渡世・第二幕の7

「ボクは今年、高校を卒業したばかりで、理系ではなく、数学も数Aでしたから、オカシナな質問になるかとおもいますが、シュデンガーの猫も高校三年のときに理系の数Ⅲの友達から聞いたことはあるんです。そのとき、その友人に質問したら良かったんですが、数Ⅲからみたら、なんかアホな質問になるんやないかとおもうて、しなかったんですが、塾長ならうまいこと応えてくれはるかとおもうて、訊くんですけ・・・」
「ほな、オレはアホか」
「いえいえ、そんな、でも、ちょっとはそういうとこ、あるから」
「まあ、ええわ、いうてみ」
と、その未熟なのか不躾なのか、塾生は語り始めた。私は塾生との質疑応答はしないことにしているのだが、どういうワケか、その場はそんな雰囲気になってしまった。
「シュデンガーの猫がどないやて」
「はい。数Ⅲの友人のハナシでは、猫の生死は五分五分で、つまり半分生きて半分死んでる猫が蓋を開けたら出てくるとかいうとったんですが、ボクはその五分五分はオカシイんやないかとおもうたんです。それやったら、たとえば、四分六なら、どうなんねん、三七ならどうなんねん、丁半博打の壷の中のサイコロも、開けてみんことにはワカランけど、博打やから丁半五分五分に出てきます。しかし、出てくる賽の目が半分丁で半分が半みたいなことには絶対ならんワケやから、猫の生死が五分五分ということは、生きて出てくるときが半分、死んでるときが半分というのが正しいのやないかと。半分生きて半分死んでるというのは文系のポエムなら通用するけど、理系では通用せんやろ、そら、シュデンガーさんが、量子力学はアテにならんと身を引いたのも道理やとおもたんです。塾長、どないなんでしょか」

お復習いのつもりで書いておくと、シュレディンガーの猫とは、フタ付きの箱の中に
① 「猫一匹」と
① 「1時間以内に50%の確率で崩壊する放射性原子」と
② 「その原子の崩壊が検出されると青酸ガスが出てくる装置」
を入れた場合、1時間後には「生きている状態と死んでいる状態が確率が50%なのだから1:1の/生死の重なり合った状態の猫/」という不可思議な存在が出てくるのではないか、という思考実験だ。

ほんらいは、量子力学の「波の重なり合った状態(波束の収縮)」はいつ起こるのか、に対するシュレディンガーからの批判なのだが、昨今では確率50%では確率にならないとか、「何事もやってみなきゃワカンナイ」みたいに誤解されている。
この塾生の疑問はもっともだ。/生死が重なり合った状態/とはなんぞや、そんな面倒なことをいわないでも、生きてるのが出てくるのと死んでるのが出てくるのだったら、それも確率50%ではないかと、この塾生は疑義を申し立てているのだ。
「あのな、シュデンガー、正確にはシュレディンガーだけども、このひとのいわゆる「猫」の思考実権は、量子力学の確率論(重なり合った状態)の完全な「解」ではなくて、いうてみたら未だ途上なんや」
「途中なんですか」
「そうやねん。きみのいうように、/生死が重なり合った状態の猫/はオカシイというのは、どこがオカシイのやろ」
「数Aではワカリマセン」
「私、塾長は数ⅡBや。それでも、こういう疑義はいえる。/生死が重なり合った状態の猫/がよしんば存在するとして(ほんらいの思考実験では蓋を開けたときにしかワカラナイ)そんな猫が箱の中で「いつ」造られるのか」
「そうですね、そうですワ。数Aでもワカリマス」
「シュレディンガーの量子力学に対する反問もそこにあったんや」(「密度行列」という作用素を用いなければ、波束の収縮は完全に答えられない)
で、これは鬱疾患についての思考の思案の試行だから、塾生の疑義から、入力→作用素→出力だけでは、鬱疾患の固有状態についての「解」は得られないとだけ賢くなっておこう。もちろん、問題は鬱疾患(入力)が鬱疾患(出力)としかならない作用素の在り方だ。
(ちなみに波動方程式はニュートン力学における方程式なので、「確率」という概念は含んでいない)。


2021年7月20日 (火)

無学渡世・第二幕の6

結論を手にして行っている作業ではナイので、前述した部分もいくぶんかの書き直しを含んでいることを断っておく(面倒でも読み直してくなはい)。けれど、
/ココロの状態が精神病疾患で包括し得る脳内物質の変調ではない/
このあたりまでは打率三割で進んではいるようにおもえる。
この命題は「因果関係」についていっていることになる。いい方を換えると
/鬱疾患(ココロの状態)⇒結果は、精神病疾患で包括し得る脳内物質の変調が⇒原因ではナイ/ということだ。このように「固有状態」という状態は、因果律を否定してしまう。
物理学に限らず、医学や経済学や心理学でも、「原因に法則が作用して結果を生じる」と考えるのがニュートン力学の常識的な論理だ。この「原因→法則→結果」の形式は、「入力→作用素→出力」と一致している。ところが、固有状態というのは、原因(入力)と結果(出力)が一致する状態だから、これは、「因果関係」という枠組からみると(ニュートン力学的な論理からみると)系外の事態が生じていることになる。私たちの自然感覚、自然観察、環境実感からみるに矛盾としかいいようはナイ。けれどもこの/系外の特殊な状態/である「固有状態」は、量子(力学系)世界では「普通の状態」の常識な世界、自然なのだ。
鬱疾患という「固有状態」は、ニュートン力学世界の因果律では捉えられない「普通の状態」であるというparadoxな状態だ。
/「矛盾」が「普通の状態」/、それは、どんな「状態」なのかと問うとなにやら奇妙な感じだが、実際の鬱疾患においては、これは「いい得て妙」「当を得ている」「的を射ている」こんなふうに鬱疾患は苦悩する。しょうがナイ。ニュートン力学系の世界に生きて、量子力学系の世界感覚に放り込まれているのだから。
私たちは、従来の物理学(精神医学)⇒が発展して⇒量子力学(鬱疾患)に辿り着くのではなく、それまでの常識を捨象して、精神医学(科学)によって鬱疾患を探求、学究、研究するのではなく、鬱疾患によって精神医学を解くという、まるで上段の構えから下段八双脇構えに姿勢を転じる覚悟を強いられる。あたかもミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で論じてみせたごとく、これはいってみれば、paradigmの転換だ。夢野久作が『ドグラ・マグラ』で「脳はものを考えるところに非ず」という命題を提示したのとおんなじやんけ、の世界だ。うん、オモシロイじゃないか。私たち鬱疾患は、いったいどんな「状態」に在るというのだろう。
コネコネとちっちゃいことをいっていても埒があかない気配がするので、ここはこういっておくのが妥当だろう。
/ナニカワカランものが、相転位された「状態」を鬱疾患という/
たしかに、識り得る限りではプラズマのような「状態」に転位しているようにおもえるか゛プラズマは物体、物質でもある。けして「状態」だけの存在ではナイ。鬱疾患ガプラズマ現象だと断定、定義、命題化しているワケではナイ。
たとえば、「明日」という日がどんな日になるのかワカッテ私たちは今日を生きているのではナイ。ある程度の経験と想定のもとに「明日」におもいを馳せているだけだ。この先どうなるかワカラナイ位相に私たちは常に存在している。これは不条理だが、だれも毎日の暮らしが不条理だと了解しているワケではナイ。「さほど、たいして変わらんだろう」という、根拠はナイがワカランのだから心配しても仕方がナイ、が日常として定着しているだけだ。ニュートン力学系においては、「原因→法則→結果」の定義は変わらない。この日常もそういう世界だから、私たちは結果も知らずに単に原因だけを生きていることになる。ところが鬱疾患はそれを赦さない。
目の前にあるリンゴが食べたいのに腕を動かす意思が極めて薄弱な場合があるとする。そういう場合、私たちはその原因をかんがえる。痺れでもきれて手が動かないのか、否、動かないのは手を伸ばそうとする「こころ」のほうだ、と、気付いたとき、私たちは少なくとも身体の異変を感覚的に捉えるだろう。リンゴは食べたい。そうしてすぐ手の届くところにリンゴは在る。であるのに、そこまで手を伸ばそうとする意思がどういうワケか想起しない。そのままだとリンゴを食することは不可能だ。手を伸ばせばいいのに。伸びるのに。なぜ、「こころ」は〈手を〉動かしてくれないのか。まさに鬱疾患の症状(「状態」)はこれだ。
ここで相転位されているものはなんだろう。いわずと知れた「自己」だとしかおもいあたるものはナイ。自己が自己ではナイものに転位してしまっている。「原因→法則→結果」「入力→作用素→出力」が固有状態に転じている。リンゴを手にすると何か良くないことがあるのか、リンゴを手にしないほうがイイ理由があるのか、逡巡でも躊躇でもナイ。「ワカラナイが、そうなっている」だけが鬱疾患だ。
ところで、戯曲塾をヤっているとき、シュレディンガーの猫についての「固有状態」の「盲点」を述べた塾生が在った。

2021年7月18日 (日)

特番・文春電痴版

ここ数週間、文春電子版で中日落合監督時の記事があったので、講読を申し込んだ。
そしたら、同じ記事が送られてくるので、/先だって、「毎度同じものが来る」とクレームしましたところ、6月30日電子版も二通も来ましたけど。何か、プロトコルに問題ありませんかね/。
と質したところ、
/カスタマーサポート担当です。
週刊文春 電子版をご利用いただき、ありがとうございます。
お問い合わせの件、お調べさせていただきますが、
メールが二通到着するということでよろしいでしょうか。
また二通到着するメールの件名を教えていただけますでしょうか。
何卒よろしくお願い申し上げます。/

という返信があったので、返信した。

/週刊文春 電子版 ニュースレター
お知らせ ・・・・
2021年6月30日
というものと、/
週刊文春 電子版 ニュースレター
ニュースレター・・・・
2021年6月30日
今週の新着記事
と、いうものです。
私は「個人」です。「お知らせ」では、cookieの全て受け入れを要請(mission)しておりました。いままでそういうことはナシにログイン出来て読めておりましたから、慌てまして、変更切り換え更新の要請かと勘違いして、cookieの取り外しをやんなきゃなんないなら、面倒だから、講読をヤメようかとおもいました。しかし、どうも、前者は広告宣伝のようですね。こういう場合は「お知らせ」とせずに「広告・宣伝」と明記するのが、仁義かとおもいますが、文春さんの場合は「広告」も「お知らせ」も、同義にお扱いなのでしょう。私、個人としましては、かくなる用い方には賛成出来ません。だいたい、同じメール版で「同タイトル」の受信ですから、こういうものに慣れないこっちは、やや動揺いたしました/。
そうしたら、

/お客様がご利用中のブラウザの設定により、
ログインができなくなっております。
お使いのブラウザの設定を変更し、
cookieをすべて受け入れるよう変更してください。/

と返信がきた。
そこで、
/いままでふつうに読めていたのに、突然のことで、困っています。一応cookieのメリット、デメリット、リスクをresearchしましたが、cookieをすべて受け入れると、他のブラウザなどにログイン出来なくなる支障があると注意がありました。そちらのプロトコルをお教え願います/。
と、返信した。こっちはwindows7。「ブラウザの設定を変更」なんていわれても、「7」でそんなこと、いまどきスイスイ出来るんだろうか。さらに返信が来た。

/カスタマーサポート担当です。
週刊文春 電子版をご利用いただき、ありがとうございます。

ブラウザのCookieの設定を有効にしていない場合、機能が限定されたり、サービスを利用できない場合がございます。
ご不便をおかけしますが、Cookieのブロック設定を解除いただいた上で、ご利用いただけますと幸いです。

> 一応researchしましたが、Cookieをすべて受け入れると、他のブラウザなどにログイン出来なくなる支障があると注意があります。

こちらの注意事項はどちらでご案内されていたかご教示いただけますでしょうか?
またプロトコルというのはどのようなものを指しておられ、どのような用途でお知りになりたいのかをお知らせいただけますと幸いです。

お手数おかけしますが何卒よろしくお願い申し上げます。
カスタマーサポート担当 (文藝春秋)

2021/07/07 11:28 JST /
と返信がきた。落合記事が読めるプロトコルじゃねえか。難しいことはなんもいってねえ。
と憤慨していると、さらに、返信が来た。

/カスタマーサポート担当です。
ご丁寧にご返信いただき、ありがとうございます。

以前にはご購読いただけていたが、現在はCookieを受け入れるよう求められたとのことですが
当方で何かの変更は加えておらず、お使いのブラウザがアップデートの際に変更がなされて、その影響であることが考えられます。

Cookieを受け入れることについての懸念については、以下に記事をご参考にしていただけたら幸いです。
https://time-space.kddi.com/ict-keywords/20180726/2392
https://support.google.com/accounts/answer/61416?hl=ja&co=GENIE.Platform=Desktop

通信プロトコルについてですが、HTTPSとなります。
引き続きよろしくお願い申し上げます。/

と、いうものだ。実は私がresearchしたのも
https://time-space.kddi.com/ict-keywords/20180726/2392
https://support.google.com/accounts/answer/61416?hl=ja&co=GENIE.Platform=Desktop
なのだ。ここに、cookieのメリットとデメリットが書かれてあった。もちろん「Cookieをすべて受け入れると、他のブラウザなどにログイン出来なくなる支障があると注意」ということも書いてあった。アップデートって、「7」だぞ。出来るワケないだろ、現在。
HTTPSについてもどういうプロトコル(通信手段)なのかをネットで読んだが、
/HTTPSは、HTTPによる通信をより安全に行うためのプロトコルおよびURIスキームである。厳密に言えば、HTTPS自体はプロトコルではなく、SSL/TLSプロトコルによって提供されるセキュアな接続の上でHTTP通信を行うことをHTTPSと呼んでいる
WebサーバとWebブラウザの間の通信が暗号化されていることを意味し、通信経路上での盗聴や改竄、第三者によるなりすましを防止する。/
だそうです。(スキームは領域、範囲とでも訳しておけばイイとおもう)

結論:文春電痴版は、講読するのをやめた。私は、落合の記事が読みたかっただけなのだ。それを、途中から「ああしろこうしろ」というliteracyの作業過程をmissionされたら、私のような高齢者は頭がクルクルしてしまう。毎日電子版と日経電子版は、こんな面倒はないぞ、文春くん。昨今話題の文春砲というのも射程精度がワカッタような気がしたよ。

2021年7月16日 (金)

joke・3

菅義偉首相、14日、首相官邸で国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長と会談。
「安全・安心な大会にしたい。世界が新型コロナウイルスの困難に直面する今だからこそ、難局を乗り越える大会を日本から世界に発信したい」
バッハ会長応えて曰く「菅さん、では、ぜひ、感染が収まったら有観客にしてください」

無学渡世・第二幕の5

作用素というコトバ(あるいは概念)に頭がこんがらがる読者もありそうなので、ここは、もう少し慎重にというか解りやすく書き直す。作用素は量子力学では頻繁に登場するが、数学のコトバにしてみると、〈function〉になる。functionというコトバは、演劇(戯曲)の構造を解説するのに、かつて存在した「想流私塾」では戯曲に於ける「関数の構造」として扱っていた。簡単にいえばy=f(x)という関数においてのyを導き出す作用素、それがf 、functionだ。(x)を入力してfunctionすると、yが出力される。戯曲の場合のfunctionは、入力(x)がsamplingならば、yはremix、mixingとしてfunctionされた出力の意味になる。作用素とは、なんか入れた(どうにかした)ら、こんなん出ました、の、作用を持つ(行う)システム(からくり)という、箱、内出の小槌だ。
しかし、鬱病(うつ病)、・・・今後は「鬱疾患」(うつ病を疾病とする患者)という意味もふくめて語彙を「鬱疾患」と統一する。・・・鬱疾患のfunction(作用素・・この場合は倫理的負債)として出力されるのが精神疾患だとして、では、ナニかを入力して出力されるものが鬱疾患であるもの、とは、なんだろうか。ナニを作用素(function)に入力すれば鬱疾患というふうに出力されるのか。たとえば、鬱疾患を作用素に入力しても鬱疾患としか出力しない。(何か治療法を作用素に試みて入力するときを例えていっているのだが、ほぼ現状の医療は同義反復、自同律にしかならない)。
こういうことは、量子力学では、次のように述べられている。
/入力に対して規則的な変換をして出力するもの(作用素)の結果が作用する前と同じものであるとき、この入出力のことを固有状態といいます/
有名なものでは、シュレディンガーの波動方程式(波動関数)は、この固有状態を持つ。
鬱疾患はその論理でいってみれば、「固有状態」といえる。ここにこの症状、疾病の特異性がある。しかし、また、固有状態であるからには、それは「状態」として捉え直すことが出来るという思考の可能性がある。鬱疾患というのは、可能性から踏み入れば、「状態」なのだ。とすれば、この「状態」を探っていけば鬱疾患に近づくこともまた、可能におもえる。
「状態」には、固体、液体、気体などがある。そうしてなんといっても、昨今登場してきた「プラズマ」がある。「プラズマ」の「状態」とはどんな状態をいうのだろう。たとえば「雷」のとき姿を現す「稲妻」は、フランクリンが電気といっちゃったから、たしかに電気なのだが、電気としての状態は「プラズマ」だ。あの一瞬のピカッは、固体でも液体でも気体でもなく、電気を帯びたプラズマだ。
そこで、大胆にも/鬱疾患というココロの状態は「プラズマ」だ/といいきってみる。ココロの状態が精神病疾患で包括し得る脳内物質の変調ではなく、あたかも「砂」のような状態、プラズマ状態なのだ。
そうすると、私たちは鬱疾患を精神病疾患の脳内物質変調から鮮明に分断することが出来る。
では、鬱疾患はどのような「状態」で存在するのだろう。もちろん「砂」もプラズマ状態ではあるが、脳に砂が詰まっているという副詞的な表現は認められるとしても、まさかほんとに砂ではあるまい。
これを説明するのにも、量子力学は便利なので、そこいらあたりからトレジャーに迫ってみる。

2021年7月15日 (木)

joke・2

どっかの国の銭儲けの相談から日本へ飛行機で岐路のアッソウ副総理、シャンペングラス片手のところ、秘書から耳打ちされて
「アホか、ニシムラ。アイツ、最近ちょっとオカシイのとちがうか。そんなふうにヤレて教えたかオレ。チガウでしょ。いまはチョット脅すふりして、アトからどんと倍返しに融資してくれたら、そら、東京のおばはんのとこの宣言終わったとき飲めや歌えでどんどん世間に酒も出ます、と、こういえ、いうたんやけどなあ。忙し過ぎて聞き違えとるな。まあ、ええわ、放っといて、泥かぶせとけ。それより、シャンペンもっとええのもってこい」
数時間後、また耳打ち。アッソウ酩酊。
「アホかっ、そんなもん、ただ謝るだけなら、こっちに一銭も銭がまわってこないでちょっ。ニシムラ、融資の意味、ワカッテないなあ。一旦中止、全面再開やないか。ワカッテないなあ。門前総理の菅にでもやらしたほうがマシやないか。酒、醒めるわ。シャンペン持ってこい。あっ、居眠りしてるあいだにお漏らしした。雑巾持ってこい。ほんまに、この国の閣僚にオレのションベでも呑ませたいワ」

尾籠であいすみません。

joke

☆世界の阿呆の中心で対ゲノム・ヒト科に1,3%異種(不足)の二人が惚気る~
菅義偉首相、14日、首相官邸で国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長と会談。
「安全・安心な大会にしたい。世界が新型コロナウイルスの困難に直面する今だからこそ、難局を乗り越える大会を日本から世界に発信したい」
バッハ氏応えて曰く「困難な道のり、旅路ではあったが、歴史的な大会になる。一致協力して成功に導いていきたい」

2021年7月10日 (土)

無学渡世・第二幕の4

鬱病(うつ病ともいうが)の治療法はある。治療して治る鬱病は無い。治療できるうつ病もあれば出来ない鬱病もある。鬱病(うつ病)とはそんなヤヤコシイ病気、疾病、疾患だというふうな捉えられ方をしている。なんでやのん。
此度、また鬱病について書こうなんて気になった一因は、「コロナうつ」というコトバを目にしたからだが、これはCOVID-19のウイルスでうつ病にあるというものではナイ。てっとりばやく結論を先にいってしまえば「不要不急」の時間というものが、このニュートン力学世界においてはたいへん「必要」なものだったということに人類が気付いた(そんなこととっくに知っているヒトもいたけれど)ということで、この詳細はミヒャエル・エンデの『モモ』に書かれてある。
ちょうど、いまの「緊急事態」というのは『モモ』における「不要な時間」を消去させていって、必要なことだけをスル世界にしましょう、という、あの「時間どろぼう団」の暗躍する事態なんだなあ。そこでうつ病が増えた。この答えは半分しかいい得ていない。
うつ病という病気(疾患・疾病)は〈こころの病気〉だ。けれども、けして精神疾患ではナイ。私なんかはふだんはうつ病に対して、常識的に精神疾患というコトバを使うけれど、ほんとうはそうではナイ。精神科医の中にも同じような情況に身を置いている者も在るとおもわれる。
では、「精神疾患」と〈こころの病気〉とでは何がチガウんだろう。
簡単に雰囲気だけでいってしまえば、「精神疾患」には倫理的な負い目、/疵/のにおいがする。何か倫理的な疵が視覚化される。でも〈こころの病気〉であるうつ病はそうではナイ。よく「傷ついた心」とかいうけれど、それはまったく視覚化されず、倫理的な負債のために気分を害しているだけなんじゃないかナと、私は「私、傷ついてしまったワ」、どうしてくれるのよと、責めてくるヒトにはいつも「それは怒っている、気分を害しているの、と、どうチガウのですか」と訊ねる。そうすると「そんな責められると、よけい傷ついちゃう」といわれるだけだけどね。そのヒトは腹が立っているだけで、それは視覚化されてよくワカルのだけど、けして〈こころ〉が疵ついているのじゃナイ。そんなものは視覚化不能だ。疵ついたというひとは矛先に向けて「あなたは倫理的に私に対して負債を持ったのよ」といっているのだ。この「倫理的負債」と「精神疾患」は因果関係の何処かでヒモ付きだとおもう。〈こころの病気〉に倫理的なナニかが侵入した場合、それは「精神疾患」になる。
では〈こころの病気〉とは、ナニか。これは、/ワカッテイナイ/といってしまったほうがスッキリする。〈こころの病気〉とは、ナニか。いま私に在る〈こころ〉は自分のものではナイところの〈ココロ〉だ、ということしか自分にはワカラナイ。
うつ病には、倫理のヒモは付いていない。うつ病(鬱疾患)と「倫理的負債」は何の関係もナイ。〈うつ〉な〈こころ〉は「倫理」なんて、これっぽっちも感じていやしない。
だから、またまた簡単にいってしまえば、「倫理的負債」さへ消去させることが出来ればうつ病が精神疾患になることはナイ。
COVID-19、コロナで陽性といわれて、「すいません」と泣いて謝ったりするひとは、〈こころ〉に負債を持ち込んだりひるひとだから、うつ病自殺なんてことになって、と、先がみえている。「コロナうつ」というのはそういう類の疾患なのだ。しかし、それはうつ病ではなく精神疾患だ。そこで向精神薬治療が始まる。けして本質のうつ病が治療されているのではナイ。
養生訓・「こころに倫理的負債を持ち込んではいけません」
倫理的負債を持ち込むと、うつ病治療は精神疾患治療に移行する。つまり、ということは、うつ病(鬱病)は「精神疾患」以前のfunction(作用素)ということになる。

2021年7月 9日 (金)

無学渡世・第二幕の3

統合失調症が、精神分裂症といわれていた時空世界(時代)では、疾患者の比率は100人に一人ということだったが、昨今もこの数は変わっていないようだ。(2018/06/25現在)。最近の世界は五大精神疾患に加えられたうつ病のほうに話題、news、weight、社会情況は移っているようで、うつ病のほうの疾患者比率は4人に一人(2019/02/04 現在)だ。つまり4人ヒトが集まっていると、そのうちの一人はうつ病というワケで、私たちのよう小劇場演劇屋は、かつては一回のステージで相手にする四十人ばかりの観客のうち十人はマルキなんだなあ、とおもったりしていたこともあったが、のべ観客400人程度になると、全公演(演目)で100人のマルキを相手したことになる。
「え~~っ」
だろうけど、この数は「へ~え」と驚くほど正確ではナイ(それより、日本のJKの5~6人に一人が性病だというほうに驚いているほうがよほどマトモだ)。驚くに値しない主なる理由は、「うつ病」というのがどんな病気であるのか、「情況証拠」はあっても「物的証拠」のナイ捜査と同じで、「うつ病だろう」「うつ病だとおもわれます」という医師の、エビデンスの少ない/面倒だから、そうしちゃえ/がこの疾患者の中にかなりの数含まれているからだ。この病、本質のハッキリしない疾病で、医師(精神科医も含む)の中でも意見、見解はさまざまに分かれたままなものだから、医師にとっても面倒で、そこで、さまざまな病名だけが発案されてレッテル貼りされる。ある程度の普遍性は持っているのだが、固有性が強く、〇〇さん型うつ病とか、鬱病〇〇氏タイプといってもマチガイではナイ。近頃ヤッと一昔前のように憂鬱になるのが鬱病だ、という社会的誤謬、世間的勘違いからは脱したようだ。それでもまだ「気持ちの持ち方の問題じゃないの」などという立派な弁護士を私は知人の中に数えている。
逸話だが、うつ病の世界的権威といわれる医師でさへ、世界うつ病学会の国際会議で「未だに私はいったい何を治療しているのかワカラナイでいる」と自省、自嘲、自戒のコトバをblack humorのように語り残したことは有名だ。また、同じく第一人者のうつ病学者の「私はカトリック信者なので神は〈完全〉だとおもっている。さらに、医学者なので神は完全なうつ病だとおもわざるを得ない」と、憤りともつかぬjokeも一部流布されて知られている。
もう一つ、この比率指数(この場合の指数は、統計などで同種のものの時間的変動を示す数値。基準となる時点の値を100とし、百分比によって表したもの)がえらく多いのは、医師自体がうつ病についての知識が浅薄であったり、学習が底浅であったりしているのをエポケーしたまま患者を/つくっている/ということにも原因がある。これは逆に皮肉ると、日本の医療業界では儲かるとなると何処もかしこも診療科目看板を一枚増やすことが出来ることの弊害だ。要するになんだかワカラナイ痛みを「神経性疼痛」と名付けたり、この先どうなるかワカラナイ高血圧を「本態勢高血圧」と論述するのと同じように、うつ病が双極性障害と呼称されるようになったと思い込んでいる医師や、精神神経関連の疾病、たとえば(神経性胃炎とか、ね)も扱うphysical医療従事者(心療内科という怪しげな看板を掲げる医師)、さらに皮膚科における原因不明の蕁麻疹に遭遇した医師の逃げ口上として「うつ病の身体性具現」を唱える医師もこの身内なので、比率指数は、指数関数に倣って(患者を関数とした場合のうつ病指数)どんどん足し算出来るほどに増加していく。
というところで、次回からは、私の四十余年の鬱病との対策と、鬱病の本質について触れていくつもりだが、こういう企画・記事は以前にもヤったことがあることくらいは記憶にあるので、認知障害と一緒にされても困る。認知障害というのは、現東京五輪関係者の連中のことをいう。いや、こやつらは、もはやタダの阿呆といったほうがイイ。これはこれで、また想想不一するから、お楽しみに。

2021年7月 5日 (月)

想想不一(しゃんしゃんぶーいー)10

都議選が終わって、あんまり予想通りだったので驚いたが、敗者は予め「敗者の弁」は準備しておくので(もちろん表向きにではあるが)、これも予想通りの部類だったが、しかし実際聞いてみると、あまりにも/ぬけぬけ/としているのには都民ではナイが腹は立った。
かつて、南郷継正(いまのことは知りません。なんや門下がオカシクなってる噂は聞きますが)は『勝負論』で文章はこのコトバどおりではナイが、「勝負とは生(きる)か死(ぬ)かのことだ」と述べてらしたが、南郷老師の弁証法の程度がどのようなものかは別にして、(師である三浦老師の弁証法にしても、それ自体は頷けるが、他の思想批判に対しては首を傾げるところ、多かったからナア。とはいえ、私も『弁証法とはどういう科学か』から始めた手合いですし、三浦老師にはやっぱりいろんな意味で勉強させてもらいましたので)、負けても死なない政治の世界なんてのは、謀議謀略の世界であって、勝負の世界じゃナイよねえ。
都議選が予想どおり、というのは誤解されるとアカンからいうておきますが、もし、あれが茶番劇なら、立派な茶番劇で、storyもplotも従来どおりだということです。やつがれなんぞは演劇もんなので、あんなふうな結果は予想、というより芝居に書けたというているのであります。どなたに遠慮してか、メディアは適当順当なことしかいうてませんが、頭のいいひとというより、ふつうのひとは、「予想どおりだねえ」なんて、なれない東京弁で速報観ていたんじゃナイですかね。

民主主義のイチバンのマチガイは、選挙で「一人一票」のところです。私は選挙法は改正して、せめて「一人100BET」のギャンブル投票制にすればどうかとおもっている。
BETの意味は〔金・命などを〕賭けることだが、立候補者に対して、ルーレットの枡目にチップを置くように、100BETを分けて賭けるのだ。
たとえば、自民は阿呆が揃っているので、アメリカ合衆国の小判鮫していたら安心だろうから、これはもう安全パイのつもりでチップ10枚。穴狙いなら、キョーサンとリッケンに30枚ずつ。コーメイは小判鮫のフジ壷やからまあ、お情で5枚。残りはなんかオモロイことヤラヘンかなでヤマモト新セン組。
もちろん、選挙の勝ち負けはチップの多さで決まる。これだと無党派連中にもオモロイのやないやろか。
もちろん、勝負の世界ですから、ケツから何人かは「死ぬ」ことになる。

2021年7月 2日 (金)

無学渡世・第二幕の2

「こういう時代だからこそ出来ることがあるはずだっ」
という声はここ十数年のあいだの天災がとき、なんべんも聞いた。
で、けっきょく、歌をうたったりするのだ。歌手は。
歌手でナイ、たとえば曲芸師なんかは曲芸でもするんだろうか。

中華キョウサントウが、「万歳っっ」と大会やって、いまある中華こそキョウサントウの成果だ、とはしゃいでいる片隅で、さすが中華でも失業あるいは低賃金労働者のおっさんは、こういった。「それほど大騒ぎすることでもないとおもうがね」

身の行く末と、むかしのことをふとおもうような歳になって、ふと、きょうはチガウ、ある小説の最後の一文をおもいだした。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
太宰老師の『ヴィヨンの妻』の最後のせりふだ。こういうのを太宰、戯曲の『冬の花火』『春の枯葉』で書いていれば、太宰戯曲にも脱帽したとおもう。けれども、太宰老師の戯曲は素人の粋を出ない。まだ、私のほうが上手いと私はニンマリする人非人だ。
ところで、不覚も不覚、このヴィヨンというのが誰(何)なのかをずっと知らないでいた。別に興味がなかったからだけなのだが、なぜ興味がなかったのかはワカラナイ。
/フランソワ・ヴィヨン(François Villon], 1431年? - 1463年以降)は、15世紀フランスの詩人である。パリ大学に入学して同学を卒業したものの、在学時より売春婦やならず者といった輩と行動を共にしていた。1455年に乱闘騒ぎで司祭を殺してしまい、パリから逃亡してアンジュー近郊の窃盗団に加わる/。
つまりまったく人非人なのだが、スゴイ詩は書いた。
うん、それでイイや、な。/私たちは、生きていさえすればいい/
これから、そうします。こうい時代もへったくれもナイ。ただ、生きていればイイ。オモシロイことは世間がみなヤってくれるからな。こんな喜劇(comical)な時代はなかったよな。

安吾老師も、死ぬか生きるかで悩んだとき、フランスの作家ジャン・ジュネの代表作『泥棒日記』を読んで、欣喜雀躍したそうな。こんなスゴイやつがいるんだ、と。
スゴイかどうか、安吾の躁病がもたらしたコーフンだろうとおもう。

赤木ファイルがとうとうさらけ出された。慌てた自民党、普段なら芸人のシャブ発覚でかわすところだが、適当な大物がいない。そこで、大慌ての付け焼き刃で大ハッタリの大芝居一幕、「COVID-19ワクチン品切れです」
あるのよワクチン。ありますよ、そんなもの。ファイザーとモデルナが同時に在庫切れスルなどというバカなことが起こる確率をかんがえなさい。昨日の今日で、残量をマチガエルほどいくら自民党でもそんなに阿呆ではナイですよ。しかし赤木ファイルは自民党の首が飛ぶ。それならと庶民大衆の首を横向けた。「ワクチン在庫がありません」さあ、庶民大衆はもう赤木ファイルよりワクチンだ。Olympicなど、勝手にやってくれ。ワクチンワクチン・・・。

いずれにせよ、私は決めた。「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
しかし、このままじゃ、死ぬひとも出るわな。ちと、呑気過ぎたかな。

« 2021年6月 | トップページ | 2021年8月 »