想想不一・9
己れを含んでこの世 世の中には愛も孤独も正義も無い。情もなければ利他も無い。しかしながらたった一つだけ確実に存在したもの、というものにゆんべ気がついて、なんや、これが「悟り」というものか。と唖然呆然拍子抜けした。悟ったことを口にすると悟りでは無くなるというがこの世には悟りも無い、にすればそれでエエのではないかとおもいつつ書く。
この世に確実に存在したものというのは自身の「人生」だった。それだけだった。確かにそれだけは在ったのだ。(いや、まだ残り少ないが在るのだ)
そこで、ああ、そうか「自燈明 法燈明」という釈尊の遺言(いごん)の意味がヤっとワカッタ。もちろん、「人生」は他々の個々、つまり他人にも確実に在るものだ。成功したひとの「人生」があったとしよう。成功とはいうものの、そのひとにはそのひとなりの悲惨はつきもので、成功などというものはおしなべて「悲惨な成功」なのだ。つまらんだけの「人生」だったひともあったろう。死ぬまでに一度はモテテみたかった。エエ男に一回でエエから抱かれてみたかった。エエ女を一度でエエから抱いてみたかった。と、その程度のことも叶わぬままに、大病で死んだ、事故で死んだ、老いたひと若死にのひと。なんかなんでもエエ、美味いもんが食いたかったナアとおもいつつ、死に際にいるひと。なんか芽が出てきたぞとおもった途端にコロナで自宅療養という監禁や。とおもっているあいだに容態急変で、亡くなったひと。
遊び半分で買った宝くじで三億当たってよお、それまでオレを袖にしていた女が言い寄ってきてよ。ヤラせてくれるヤラせてくれる、と、そういうのがもう十人越えた、もうアホラシクなって、なんつうの虚無つうの、そいつらの目の前で三億円の現金(ゲンナマ)橋の上から河にバラ撒いた。それから飛び込んだ。と、これも人生。
たった一つこの世の自分に確実に存在するもの、それを「人生」という。
そうして、その「人生」けっして自身のままにならぬと決まっている。つまり、突き詰めてかんがえれば、これは在っても無くてもシュレーディンガーの猫でございます。(筆者、注意。量子力学的にはシュレーディンガーの猫の思考実験は決着がついております)
手っとり早く結論。
在っても無くてもどっちでいいのだが、その、在っても無くてもどっちでいいもの、すなわっち、「人生」だけはたった一つだけ誰にも確実に存在するという「燈明」であった。それが明るいのか暗いのか、明るかったか暗かったか、そんなことは「不説かつ不解」。ワカラヘンのである。ただしかし、「法燈明」よりは優先する。如何なる真理よりも、自身の「人生(燈明)」ということだ。
釈迦も悟ったとき、目眩のひとつもおこしたろうなあ。そうしてヒッパラの木々を見上げ、「この木々はのちの世に菩提樹と称されるようになるのか」とため息ついたにチガイナイ。
かなり古い資料には、日照りの夏、枯れた田畑を眺め、天を仰いで釈迦は「どうか、雨を降らせたまえ」と乞うたとある。釈迦のかくじつに在った人生の、一コマやとおもいます。こういうとき、私は釈迦が好きになります。河を歩いて渡ったというキリストよりなんぼもマシ。
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