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2021年1月 5日 (火)

無学渡世・六

「一般のひと」「一般人」は、メディアなんかが「専門(家)」の対語として「阿呆」の代わりによく使う名称だが、少なくとも彼らは阿呆ではナイ。私も含めて彼ら「一般のひと・一般人」は、菅や小池よりは、医療のことも経済のこともワカッテいるし、COVID-19を乗り切るideaだって素人の強みとして突拍子もナイことや、わりと常識的な見識は持っている。何故なら彼ら「一般のひと・一般人」はナニやら得体の知れぬ学問の「専門家」ではナイが、自分のことについて、まして他人のことについは「専門家」なのだから。
それがアタリマエだというエビデンスなどすぐに示せる。居酒屋の客は彼らであるし、病院・開業医の患者たちは彼らなのだから。事件は現場で起こっているのだから。その現場にいるのは彼らなのだから。そうして、もし戦争が起きたら銃を手にして平気(かどうかは問題があるが)で、ともかく自分が死にたくなければ迷わず敵兵を撃ち殺すのも彼らだろう。ところで、この「一般のひと・一般人」の弱点は、権威、権力に弱い(というより従順、柔軟な)というところなのだ(ほんとは賢く横向いて舌出しているのだが)。どうしてなのか、すぐに、はいはいとステロイド注射をしてくれる医師は名医になるし(そりゃ痛いところには効くからな)そういうときゃ、角が立たんからな。政府がごっつうキャンペーンでごっつう大盤振る舞いをしてくれると、なんじゃこりゃ、でけるんやったら、もっとやったらええのに、と、自分の脳に自分なりのイメージ・ワクチンを打って、まさか自分がCOVID-19になるワケがナイとイメージして出かけるという得意技まである。食う。遊ぶ。世界がパンデミックだろうが、あれはまあ、あれや。進め一億火ダルマだ、や。という分別が出来る便利な脳髄が彼らにはあるのだ。どうだ阿呆ではナイだろう。(ほんまの阿呆は、その後、COVID-19にやられとるけど)。
私なんざ、大晦日と元旦に世界に名だたる和食料理老舗『だだ万』(ほんとうの名称はワカラナイようにしてある。ワカランよな)で、夜飯と朝飯が食えるというごっつうエエ条件で、ただし、三人(みたり)で、一人(ひとり)は一泊くらいならと外泊をゆるされたホームの賢老、この賢老の介護(一人・ひとり)の介助を条件で、殆どタダ同然でくっついていったのだが、とつぜん「ごっつう」はいったん中止になって、あちゃちゃとは二の足は踏んだが、天下の『だだ万』の大晦日料理と元旦の雑煮やから、もう通常値段でもエエわと、ほいほいでかけた。なんか知らん、テレビのニュースでは、どうも緊急事態宣言が出そうな気配だったが、それより『だだ万』やないけ。そやろ。
で、晩めっしゃ。ところが、や。このときほど心臓に悪かったときはナイ。
「しもたっ、やられた。あかんCOVID-19や。コロナや。味がせえへん」
なんやいろいろ出てきて、最後は年越し蕎麦まで出てきたのに、みんなおんなじ味、というより、味というものの美味い不味いは、味がついているものにいうべきもんで、料理には味がついていない。ようにおもって、こらあれや、味覚異常やとおもうたなあ。そうしたらやで、介護を受けてる賢老が一言「ホームのごはんと味、変わらんナ」。ああ、助かった。病院食(病人食)のような味を感じたのは、私だけではなかった。現役ホームの賢老がそういって、普段ならぺろりと食べるのに、蕎麦を残さはったやないか。そいで、器に板長がつくって書いたらしい札が飾ってあって、書いてあるのはどうも俳句らしい。これはオレは物書きのプロやから、赤ペンで添削しといてあげた。まさに趣味、道楽丸出しの俳句やったなあ。素人のうら悲しさ、要するに、自分だけ悦に入ってる下手。しかし、料理はなあ。
朝飯もおんなじ。賢老は「いや、お酢のものは酢の味はする」とアタリマエのことをいわはった。たしかに味を舌が了解したのはそれだけやったなあ。しかし、いやあ、『だだ万』行って良かった。帰ってからうちで食べた雑煮の美味いこと。やっと正月や。
そうこうしている間に、なんかやっぱり宣言出てるやないか。領域はあるのやけど、いやもう、それから稽古のヤリニクイこと。ともかく出演者、staffで陽性出したらオワリ、苦労は水の泡。もう、まるで実験映画、実験演劇のような演出をかんがえて、いや、このへんが阿呆やないところやな。ええidea浮かんできて、オモロなってきたわ。『だだ万』さんありがとう。

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