無学渡世・一
ニイちゃんシリーズ(えっ、シリーズだったのか)も厭きてきたとこで、ときどきは、このてのものも挟んでおく。というのも、もはや、鬱病の真っ只中に頸椎狭窄からくる神経の痛みが重なって、なんかしてないと首吊ってしまうので、ともかく、一日の大半は痛みと鬱疾患特有のしんどさで動くことも出来ず、まったく皿一枚洗えないんだから、アホラシイとしかいいようがナイのだが、それが、人間には業(カルマ)てのがあって、私は〈書く〉ということをヤっているあいだは、世界が別になるらしく、こんなふうに書いているのだけれど、いま、ヤッてるのは、やっぱり仏教の学問(というほどでもナイんだけど)で、このほど、他の教義と比較すればなんかワカルかなと、『老子講義』なるものを買いこんで、老子(つまり『道教』)の思想と比較検討(というほどたいたものでもナイんだけど)してみることにした。
まず、motivationとして、仏教の三法印(さんぼういんは、仏教において三つの根本的な理念を示す仏教用語である)は、諸行無常「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」諸法無我「すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである」
涅槃寂静「ニルヴァーナは、安らぎである」)と、まあ、えらく難しくウイキには書かれてあるのだが、ふつうは、諸行無常は「何事も常であるものはなく、移り変わる」と訳され、
諸法無我は「これが私(自分)だといえるもの(我)は存在しない」と訳され、涅槃寂静は「涅槃、つまり死ぬということは、寂静たるやすらぎである」と、平易に訳されているのだが、この涅槃というのは、ニルヴァーナというインド仏教特有で、いわゆる輪廻(カースト)からの解脱なもんだから、そういうものの無い(無くなったカタチで中国から輸入された)日本仏教においては、訳しようがナイので、先述の如くなったのだろうとおもわれる。
ところで、そもそも、その辺りからかんがえていくと、仏教というものには「死」というものに値する概念が無いのだ。だいたいがカーストには「死」が無いので、当然そうなる。キリスト教になると、カルヴァン派の予定説(カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする)はプロテスタントの特異なものとして、ともかく天国に行こうとすると、とりあえず「死ななくてはならない」。ところが、仏教にはそいつが無い。「死ぬ」という概念がすっ飛んでいて、従って、日蓮などが、浄土系の教義を激しく口撃論戦したのはアタリマエだのクラッカーになる。死んで極楽というのは「大嘘」ということになるからだ。そのへんは、親鸞、蓮如のインテリの仕掛けということで、まあ、構わないのだが、私の発見(かなあ)は、そういうだいそれたことではなく(私は別の観点から〈死〉というものについては疑義を感じているが、それはまた別のところで)、最も有名な「諸行無常」なんだけれど、これ、「諸行常無」と並べ方を変えると、コロっと老子の道教になってしまうのだ。つまり「常なるものは無く、すべては移り変わる」とする仏教のお宝文句を「もろもろのものは常に無い」と読むと、なんらかのモノが在るようにみえるのは、ヒトが在るように決めただけで、ほんとうは、この世には何ンにも無いんだよ、という道教の根本思想になる。ナンニも無いのに苦しいだの愉しいだの、欲をつっぱらかしたり争ったりしても、意味ないんだ。というのが老子の教えらしい。これは、仏教の『般若心経』にかなり近いのだが、案外、仏陀釈尊は、この辺りは学問していて、「悟り」ってのは、「これが悟りだ」といえば「それが悟り」になるのだが、そうした途端、その「悟り」には縛りが付くので、「悟りはこうだとはいえない」と悟ったのかもしれない。そうすると、「悟り」の矛盾も氷解する。(「悟り」の矛盾というのは「悟りというのは、釈尊が悟ったものと同じでなくてはならないが、個々それぞれのものだ」という論理矛盾)。
なるほど、老子の思想、「始まりはすべては無名(タオ)でありますので、世界はとどのつまりみんな無名ですから、有るに縛られているよりも、名も無いものと自由に生きましょう」、と、こりゃもうエピキュロスだなあ。(エピキュロスはデモクリトスの原子論を思想の基底とする、原子論的唯物論や原子論的自然観を展開した御方。かのカール・マルクスはヘレニズムの学派に着目した古代ギリシャ哲学の研究を行っており、『エピクロスの自然哲学とデモクリトスと自然哲学の差異』という博士論文を執筆している。原子論とは、目には見えず、それ以上分割できない「原子(アトム)」が、無限の「空虚(ケノン)」の中に運動しながら、世界が成り立つとする説で、エピキュロスによる簡単な解説によれば、この世には目に見えない自然(名も無き自然)があって、そういうのが、自由に飛び交っているんじゃないかなあ、~まあ、量子のことですな~になる)。つまりアリストテレスなんて木っ端微塵にされているのだ。たとえば、老子のいっていること(無名-タオ)とはこうだ。「ここに布がある、頭に巻けばハチマキ、キンタマ隠してケツにまけば褌(下帯ともいう)。どっちかは勝手にヒトが名付けて決めたことだ」これはもうハイデガーなんぞを待つまでもナイことですナ。
タオを「道」とする道教学派もあるのだが、そうすると、逆にまた道という縛りがついてしまって不自由になるので、これはチガウとおもうな、オレ。
にしても、「死」は仏教において何処にいっちゃうのだろうか。この辺りが学問のしどころ勘どころ、オモシロどころというところかな。
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