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2020年11月 2日 (月)

港町memory 150

お釈迦様とて、そう莫迦ではナイ。少年期シッタールダの頃、インド最高の学問は全て学んだからという歴学をいっているのでもナイ。釈迦牟尼の利口さは、真宗親鸞にも受け継がれている。つまり両者とも同様/宗教継続の(或いは信仰存続といってもいい)が、その本質的な矛盾を予期/はしていた。
具体的にいえば仏教独特の概念である「悟り」というものに対する〈矛盾〉だ。この「悟り」というシロモノは、シュレーディンガーの猫と同じで、自らが得た悟りがほんものなのかそうでナイのかという基準が五分五分だという焦燥を孕んでいる。「それ、ほんものだっ」と、誰もいってはくれないし、誰にもいえない仕掛けになっている。(たとえ誰かがそういったところで、その誰かのコトバの真偽を判断する手段方法がナイ。これは永久連鎖だ)。つまりはほんものかどうか、猫が生きているのか死んでいるのかが「確率」というものでしか現れない。ここで、シュレーディンガーは量子力学の行き詰まり、無意味を予知したが、この「確率」こそが、のちのちに重要になる。もっともシュレーディンガーにいわせれば、「数学の最大の失敗は確率の導入」になるだろう。波動方程式にみられるように「虚数」は論理である。しかし「確率」は論理ではナイ。悪くいえば「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と同じで、「後付け」「辻褄合わせ」「適当」「その場しのぎ」に過ぎない。ゲーデルなら自殺しているところだ。南海トラフ地震の起こる確率は、50%だ。五割、起きるか起きないかだけだ。癌に罹患する確率は、これも五割。なんにしたって5割。シュレーディンガーが量子力学に嫌気をもよおしたのも無理はナイ。天気予報と同等といってもイイ。
橋爪の大ちゃん老師のいうとおり、「悟り」は状態Vektorとしては/釈尊と同じもの/でなければならない。僧坊の坊主たちはみな、釈尊の「悟り」と同じものを得ようとして、坐る。「只管打坐(しかんたざ)」、ただ坐る。「悟り」はヤッて来るものではなく、自身の内に在るものだから「固有」のものだ。しかし、それでは釈尊との比較がならない。「自燈明」と、釈尊は阿難陀に遺言(いごん)したが、釈迦の「悟り」を真理=法とするならば、固有の悟りは/おのおのの思い込み/でしかナイ。この矛盾を、当初から釈迦も親鸞も充分に識知していた。それだからこそ、かくなる矛盾などさっさと取り払うために親鸞は「悟り」そのものを棄てた。そんなものは阿弥陀如来にまかせておけばイイという「他力本願」を「悟り」の代わりに導入した。仏教(釈迦の教示)に対しての一種の解体になる。臨済宗一休宗純も同じことを深慮したにチガイナイ。彼も智恵者である。「悟り」がもともとそれ自体に矛盾を抱えていることなどワカッテいた。そこで一休のとった戦略とは何かというと、/万人に共通であり、万人それぞれのべつもの/という矛盾そのものの受け入れということになる。そんなものがいったいあるのか。
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操が出来るほどの広さの公園には、鉄棒がある。砂場の傍らにいわゆる体操競技に用いるのと同じ、ただし、安物の鉄棒が二連立っている。ニイちゃんはこの鉄棒にぶら下がってみた。跳躍しないと鉄、あるいは何かの合金の水平の棒には掴まれない。ぶら下がれない。ここから自分自身を二本の腕力、筋力で持ち上げる。棒の上に顎を出すと1回。ニイちゃんの記録は高校生のときに12回。自分で自分自身を持ち上げる。いわゆる「懸垂」といわれるものだ。一休の「悟り」はこの「懸垂」と同じものだ。持ち上げる者と持ち上げるものが同じ。であるが、それぞれべつもの(固有の自分自身)だということになる。12回出来たとして1回だけだったとして、特にナンニもナイ。しかし、一回でも自分自身を自分自身が持ち上げるという、その過程を修行とするならば、この充足感、快感、愉悦、という「悟り」は、持ち上げた者自身だけのものだ。しかし、結果はみな同じ。これは禅にいては/修行即是悟/になるのだが、ニイちゃんは、なんだかワカラナイけど「これでヨシッ」とおもっている。この日のニイちゃんの記録はたった1回。おばさんはニイちゃんのご満悦な笑顔の理由がワカラズに、合わせて愛想笑いをしながら院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしている。
「キ、やからな。しゃあないわな」
世界のほうが、うんと、「キ」に傾斜していっているある日のいつもの院外処方箋薬局の入り口付近だった。

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