港町memory 157
院外処方箋薬局の入り口付近までやって来ていながら、クスリを受け取ることを忘却しているニイちゃんとおばさん。ひとの生き方というのはそんなものかも知れぬ。
シッダルータは坐る。
「なんや、ワカランけどかんがえよう。何かまちごうた。なんや、なんやろ」
おそらく、やがて、シッダルータは自分のマチガイに気づくだろう。
「そうかっ、そやっ、そうやねん。自分が救われたいために修行なんかしてしもうた。ほんまの修行は、ひとを、ひとを救うために何をしたらええのんか、かんがえることやったのに」
悟りをひらいた釈迦牟尼は半眼のまま、瞑想をつづける。何故なら、きょうの悟りは明日はアジャパーになっているというのが悟りだからだ。きょう救えるものが明日救えるとは限らないからだ。仏教の持つ「諸行無常」「諸法無我」はdynamismな運動だからだ。
ニイちゃんは、ニイちゃん自身を救えぬまま、死ぬかも知れぬ。しかし、ひょっとするとシッダールタと同じようなことを、おもいだすかも知れぬ。そんなことはワカラナイ。ましてや、おばさんのことはぜんぜんワカラナイ。
バイデンもトランプもひとなど救えぬ。おそらく殺す数のほうが多いだろう。
野良犬が一匹、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんの前を通りすぎた。こいつらアホかというような目をして。と、左右田一平ふうのnarrationで、幕となる。
次回から、タイトルは変わります。内容は似たようなもんです。
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