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2020年11月

2020年11月30日 (月)

珍論愚談 1

タイトルが変わったというより、付いただけ。

「いやあ、困るよなあ、店を早くに閉めろって、江戸時代じゃあるめえし、こちとら-でえく-は朝が早いといっても、宵っ張りで一杯ヤってんだから。神も仏もあるもんけい、でやすねえ」
クマゴロさんが愚痴をいっている相手はもちろんご隠居だ。
「神や仏なんか信じてもいないくせによくいうね、クマゴロ」
「あっしらにだって信心はありますよ。鳥居だって造りますもん。ご隠居は、宗派は何です」
「烏合の宗だな」
「また、冗談ばっかりいうんだから。まさか、信心がねえってワケじゃねえんでしょ」
「それがナイのさ。クマゴロさんよ、年寄りはみな信心深いなんておもってんのかい」
「ナイの、いや、こりゃ、驚いた。そんな年寄りもあるんだ」
「クマゴロさんよ、まあ聞きな。おまいさん、いまここに神様が現れて/わしは神さまだ。だから10000圓貸してくれ/っていったら、どうするね」
「どうするもこうするも、そんな神さまなんかいるワケありゃしませんや」
「じゃあ、どんな神さまならいるんだい。10000圓くれたら神さまかい」
「くれるっていうなら頂きますが、そんなこと神さまがしますかね」
「じゃあ、どうしたら、神さまだと信じるね」
「えええっ、そいつぁっ、こりゃ参ったね。難しいでやすね。こっちが決めなきゃなんねえのか。困るねそういうのは」
ニイちゃんもケツを拭きながらかんがえる。
「わしは神様が出てきなさるより、女がええの。尻の柔らかそうなのがええ。そいで、お爺ちゃん遊っぼ、なんていわれたら、そっちいっちゃう」
「ちょっと、ご隠居、もう九十でしょ」
「九十が百でも、神様より女がええのは男の身上じゃわい。弁天様に人気があるのは、だからなんだな。チガウかい」
「いや、その通りでやすが」
クマゴロのほうがたじたじになっている。こりゃ、エロになる前に話題を変えたほうがイイな。と、クマゴロおもって、
「なんかこう、生きていくの楽になるハナシってのはねえですかい。ご隠居、いろいろと知ってらっしゃるんじゃネエんですかね」
「ああ、あるな」
「ありますか」
「むかし、ある村に六人の兄弟姉妹がおってな、この末っ子が、流行り病でカラダに力が入らん病気になってな。とはいえ兄弟姉妹が多かったからな、特に働くこともなく、野良仕事なんぞせんでも、まんまは食えた。まあ、出来ることは鶏に餌をやることくらいだったな。その当時は、嫁に行くのはいわゆる子供を産んでもらっての労働力増産だけだったからな。そこの男兄弟は嫁はとらんかった。女姉妹も嫁には行かんかったな。いわゆる労働力は間に合っていたということだナ。アッチのナニのほうは、その村では月に二、三度、若衆宿の慣習があったからな、困ることはなかった。いうてみたら、みな兄弟だな。そこで出来たややは、邪魔になったら川に流してしもうたからな。桃太郎のハナシもこういうところに原典があるんじゃな。ところが、ある日、大地震が来てな、六人とも家の下敷きと崖崩れでいっぺんにみな死んでしもうた。末っ子も死んだ。まあ、そんだけのハナシじゃが、楽なハナシじゃろ」
「楽ですかねえ」
「おまいさんたちみたいに-でえく-なんかすることもなかったからな。立派な家に住むこともなかったし、まあ、掘っ建て小屋で良かったからな。陸稲と岩魚と、畑の野菜を食っておりゃ良かったからな。銭なんざ要らん暮らしじゃったらしい。そこへきて、地震で一息に死ねたのじゃから、こりゃ、楽じゃな。博打で苦労することもなかったし、酒はどぶを造っておけば良かったし、もういうことなしじゃな」
クマゴロさんは、だんまりとしばらくかんがえていたが、
「なるほど、楽でやすねえ」
と、ため息をついた。
ニイちゃんも、たしかにそうだとおもった。庄屋や群代とかがいなかったのなら、ではあるけれど。つまり、行政に該るものは要らんほうが楽と。

2020年11月28日 (土)

Lockdown knockout

「/国民の命と暮らしを守るため/、なんて莫迦の一つ覚えみたいにいってやすが、新総理のダンナ。どうやって守ってんでげすかね。さっぱりワカンネエんでげすけど」
クマゴロがご隠居に問う。ご隠居、うーんとしばらく腕組みをしていたが、
「国民のみなさんの努力と我慢てなことを、担当大臣がいってましたな」
「なんだ、すると、じゃあ、日本政府お得意の伝家の宝刀、これからは自己責任てヤツですかい」
「医者や看護師は職を辞めたがってるおひとが多いらしくてね。慰留に必死らしいしね」
それはそうだろう、とニイちゃんはトイレでしゃがみながらおもう。医療従事者、看護師、医師から保健所勤めというだけで、てめえのところの子供がガッコや保育所でイジメにあう。いま、ブリ出した糞より臭いなこの国は。
「ちょいと前までは、政治的にヤバクなると、他の事件ネタをメディアが盛んに報道してcamouflageしていましたが、いまは、桜をみるほうなのかコロナのほうなのか、どっちがどっちをcoverしているのかワカリマセンな」
「しかし、ご隠居、岩手なんか良かったでやんすな。あそこ、ずっと感染者ゼロだったのは、自主的rockdownして、余所者を入れなかったかららしいですからねえ。もう、県内じゃどこがイチバンか、戦々恐々だったらしいでやすね。なんしろ、住めなくなるんだってえから。まだ村八分ってのが残ってんですねえ。地震で絆がどうのもへったくれもあったもんじゃねえでげすな。あきれたもんだ」
そうだなあ、あながち、大阪人のさんまが、自分の番組で田舎者イジメをして問題になっているが、さんまはさんまなりにそういうことに腹が立っていたのかも知れない。この秋はさんまも一度食ったきりだなあ。ニイちゃん、ため息だ。
「go to 飲み食い」も、あれって、クーポンやなんか、まとめて所轄に送ると銭にしてもどしてくれるっていうけど、どこの店もまだ一文ももどってきてねえっていってやすよ」
「まあ、政府の食い逃げですかな」
「アメ公のほうは、やっとホワイトハウス明け渡しだっていってますけど、新政府の見通しでも、来年の六月までにコロナが収束するのは無理だっていってやしたね」
「そう簡単にはいかないねえ」
「しかし、観る目がありやすねこの作者。ちょっと前に中華はもう宇宙覇権に目を向けているとか書いてましたけど、アメリカより先に、月面の鉱物資源を採掘し始めたりしてネ。そうなると、/月は中華の領土とする/なんて言い出したりして。って、こういうの冗談にならねえところが中華だからなあ」
クマゴロさんは昼の月を眺めてそういう。
「月のほうから落っこちてきたりして、へへへ」
ニイちゃんは頷く。そういや、『幻魔大戦』はようやくケリがついたな。古いハナシだ。ニイちゃんがまだ高校生の頃だったから。ブリッ。

2020年11月26日 (木)

Pear & rock

若いpearが(むかしはavecといった)コンビニに入って来て、自動コーヒー抽出装置の前で、コーヒーの出るのを待っている。だけなら問題はナイのだが、お喋りしている笑っている。要するにイチャついている。だけなら問題はナイのだが、二人ともマスクをしていない。要するに彼らの飛沫は自動コーヒー抽出装置にぶっかけられている。のを観ていたクマゴロさん、ああ、オレ、先に使って良かった。ではすまされない(ほんとは)。そりゃ問題だぞ。とおもった中年の紳士が「きみたち、マスクせにゃあかんよ」と注意。したら、若いpear、紳士を嘲笑って、「コロナなら僕たち大丈夫ですよ」。という、なにを根拠にか。「えっ、どうしてだ」と紳士。「僕たち検査受けましたから」つまりPCRで二人とも陰性だったといいたいのだろう。ところで、紳士「それは、いつだ」。「先月かな」とpear。「それから一ヶ月経っているなら、」と紳士。「大丈夫ですよ、内緒ですけど、ワクチンも打っているんです」と、pear。「ええっ」と驚く紳士とクマゴロさん。一般人にワクチンが接種された事例は未だこの国にはナイ。社会主義国はいざ知らず、この周辺の国も合衆国もまだだ。
ということを、クマゴロさん、ご隠居に話してみると。
「そりゃ、おまいさん、そのpear、詐欺にあったんだよ」
「えっ、詐欺っ」
「PCRのほうも詐欺だろうな。そうかい、もうワクチン詐欺まで出てるのかい。スジもんはヤルことが早いね。秘かに入荷とかなんとかいって、大安値一回2万円二回で3万円とかで闇でやってんだろネ。中身は生理食塩水だろうけど」
PCR検査の詐欺は東京で出回っていることはクマゴロさんも知っていたが、ワクチンまでとは知らなかった。
ご隠居はつづける。
「コンビニ探索ってのはけっこう時間つぶしになってね。入り口に近い換気のいいイートインでコーヒー飲みながら、ごみ箱や消毒液を観ているんだな。考えてもごらんよ、ウイルスがいそうなところは、やっぱりごみ箱だろ。いろんなひとがいろんゴミを棄てに来るからねえ、飲み残しのものだって突っ込む。棄て口からはみ出しているところもある。いやあ、ありゃウイルスの巣だナ。中には親切というか、常識のあるひとがいて、そのはみ出したゴミを中に押し込んでたりして、おお、いるねえまだ、そういうひとが、とおもっていると、そのひとは、消毒液に手をかざしもしないで、店内に入っていく。常識、どうしたっ、ウヘーッだろ。ご老人などで、気がつくひとは、そういうごみ箱には触れずに、自分の食ったものはそのまま持ち帰りになる。それがイチバン安全だな」
なるほど、その通りだなとクマゴロさん、頷く。
「そういや」とクマゴロ。
「アレだろ」とご隠居。
「そうそう、ソレ。飲食店が早仕舞いスルようにまた自粛勧告になりましたね。しかし、こんどの感染拡大は、根本的に飲食店は関係ナイんじゃないですかね」
「根本も末端も関係ナイよ。しかしね、政府だってナンかヤッて誤魔化さないと無策だっていわれるからね。まあ、簡単なところへ手をつけるね。あれで感染拡大が止まればわしゃ、政府に五圓くらい寄附してやるよ」
さっそくニイちゃん、このハナシを聞くと、イートイン探索に出かけた。なるほど、ご隠居のおっしゃる通りだ。ソーシャルデスタンスも洋ダンスも和箪笥もあったもんじゃナイ。あのpear、ベロチューなんかしてるんだろうな。と、マスクをしないで大接近濃厚接触している若いpearもみつけた。
冗談じゃないよ。あんなのに観客で来られて、観客から陽性出ましたなんて、保健所からいわれてみろ。良かった。うちの観客は年寄りが多いから。こんなことにホっとしなければならないご時世に、ニイちゃん、きょうも死ぬのがイヤになった。
こんなアホな世界で死んでたまるか。なのであった。

2020年11月23日 (月)

go to trouble

「ご隠居、人生ってのはナンデショウネ」
と、クマゴロさんが、いつものように上がり口に腰を降ろして訊ねた。
「そりゃあ、おまいさん、人生てのは/消え去っていくこと/だよ。
「はあ、なるほどねえ。そういや、みんな消えていっちゃうなあ」
「付け加えていうならばぁ、ポッと出てくることかな」
「どっから出てくるんでがしょ」
「ポット(pot)出て来るんだから、魔法瓶だな」
「うまく出来ておりますねえ。/ポット出て消え去ってゆく我が身かな そのココロはと問えば魔法瓶/、なんか一首出来ちゃいますねえ」
「ところで、最近何かオモシロイmysteryはあったか」
この世界では、クマゴロとご隠居は落語のような会話などしないのだ。残念ながら高尚な話題を持ち込むのだ。
「最近じゃあ、ありませんが、『屍荘の殺人』てのは、映画はつまんねえんですが、これがcomicじゃけっこうイケルんですね。原作に近いですから。trickや動機はありきたりですが、極めて着眼点の優れているのは、探偵の造形ですね。まずこの探偵、こりゃ詳細にいうとネタバレになりやすが、二人出てくるんですが、このtopology(位相幾何学)的配置が、おそらくいままでのミステリにはなかったもんでやんすね。ありゃ、作者の発明ですね。密室の作り方なんかはとくに驚くもんじゃネエんですが、女探偵が、なんで探偵をヤっているのかが、こりゃ、あっしは、アガサ・クリスティーのなんでしたっけ『海から来た男』でしたっけ、なんかそういうタイトルに登場する探偵の奇抜な造形に匹敵するんじゃねえかと、そこんとこだけは褒めますね。ありゃあ、たしか、いまは亡き都筑 道夫老師のエッセーに出てきたのを、アガサ女史の短編集で読んだんですが、その探偵というのが、事件現場にいつもたまたま居合わせるだけでしてね、素性がわからねえんで。『屍荘の殺人』も似た感じですかねえ。もちっと業が深いんですが」 
「ほほう、なるほど、そういうのはいいねえ。まるで『宇宙船ヴィーグル号の冒険』で、ベムが独白するような驚きがあるねえ。いまならエイリアンというのかな、ベムは」
「でしょうねえ」
「ところで、今回のこのgo to troubleというタイトルはtravelに引っ掛けてんのかな」
「でしょうねえ。なんか、go to campaignてのは、あれ自体ミステリですね。犯人はワカッテんのに、やたらと周囲は声高に犯人探しをしてるっていう、アレですね」
「犯人は妖怪か、何かだろうねえ」
「でしょうねえ」
ニイちゃんは、出演するところがナイので、黙って聞いていたのだった。たまたまtoiletを借りにきていたんだろう。

2020年11月20日 (金)

Go to Hell

COVID-19感染者急上昇、第二波かっ。最高ご用心レベルにランクアップ。
ラジオでもテレビでも、その日発表の感染者大人数で一般人を脅して、あんまり莫迦にすんじゃねえよ。と、クマゴロさんは電信柱を蹴飛ばしたところを、ニイちゃんにみられて、照れ笑いをしたのだった。
クマゴロさんはよく耳や目にする「一般人」というcategoryで、その代表ということもなく(そうすると一般人ではなくなるので)、ただの一般人なのだった。
「いやいや、ニイちゃん、電柱に罪はナイのよ。電柱でござるっ電柱でござるってのは、忠臣蔵の松の廊下だけどね。ご隠居にね、なんで、COVID-19増えてんの。第二波とかいうアレかい。そう訊いたらね。
/そんなもな、クマ、そんなふうになるようにしたからそんなふうになるんだ。これを何処でもナイ言語では、Que Será, Será.これを擬似外国語という。意味はな、「起こるべくことは起こるべくして起こる」、だ/
なんておいいになられてね、第二波とか、そんなものではなく、こういうこと、事態っていうのかな、状況っていうのかな、宮澤賢治も童話で書いているらしいんだ。なんだっけ、そうそう、『蜘蛛となめくじと狸』だ。ニイちゃん、知ってるかい」
「ああ、知ってます。一応、宮澤賢治さんの作品は仕事の都合で全部読んでますから、その作品は、ラストの一行がこうでしたね。/なるほどそうしてみると三人とも地獄行きのマラソン競争をしていたのです/。これ、最初は三匹が何の競争をしているのかワカラナイふうに始まるんですよね」
「そうそう、さすがにご隠居だね。ヤッちゃいかんぞ、ヤッたらCOVID-19になるぞっ、というてることをみんなしてヤッたのだから、COVID-19感染が増えるのはアタリマエ。と、こうなんだ。そうだよなあ。狂言の『附子(ぶす)』じゃあるまいし、ありゃあ、トリカブトだって騙すんだけど、COVID-19は、ほんものだからなあ、そうなるよなあ。/附子(ぶす)、トリカブトだから舐めてはいかんぞ/といわれてるのに、舐めるんじゃナイもんなあ。/附子(ぶす)、トリカブトだから舐めてはいかんのだけど、みんなで舐めれば恐くはナイ/って、いわれたから、やれっやれっやれっ、だったから、みんなで舐めてCOVID-19に感染して、んで、ニュースで増えた増えた増えましたあって、一般人を莫迦にすんなつうの」
「そうですよねえ。そこんところをニュースはいいませんよね」
「ニュースでいってるのはよ、マスクをしたままの会食の仕方だって。食べるときにマスクを上げて箸のものを口に入れたら、口を開かずにもぐもぐと、片方の手で、口許を覆いながら食べる。これ作法だとよ。ふざけてるよなあ」
「美味いんですかね」
「やんなくてイイんじゃねえの、そんな会食。それによ、さすがにadult video業界はチガウねえ、いまみなさんがやりたいことを率先してヤってるねえ」
「えっ、なんですかっ」
「増えてんのよ、接吻もの、口づけもの、ベロチュウもの。ただ本番するんじゃなくて、とにかく舐めるのよ。いやもう命懸けだねえ。ああいうのもプロ根性っていうのかねえ」
たしかに、アクリルの衝立を立てて、部分的にくり抜いてkissだけするという作品もあるのだ。しかし、これを笑うのと、Go to campaignに励むのと、まるで『蜘蛛となめくじと狸』ではないか。ニイちゃんは、「ヘン」な世の中だなあと、ため息つくだけだった。 

2020年11月19日 (木)

Have to die

ニイちゃんは(と、また登場なんですけど)コンビニのイートインで朝飯を食べる。といっても、パンと百円のcoffeeなのだが。パンはジャムパンが好みだ。Sandwichは、挟まれている具材がはみ出しそうに見せかけられているが、食パンを開くと半分しか入っていないのものが多い。それなら菓子パンのほうがイイ。
ニイちゃんはその日も、自転車でえっちらおっちら、いつものコンビニに出かけた。自転車を立てかけていると、その自転車置き場にもっさい格好をしたおっさんがいて、ガラケイに怒鳴っているのがすぐ傍で聞こえた。ニイちゃんは無視しようとしたけど、ちょっとひっかかるコトバをおっさんが口にした。
「とにかくこっちの要望は、そのヴェトナム人は解雇。これは譲れんな」
どこかの工事現場のその手の係のひと、つまり人足集めのモノかとおもったが、どうも、チガウ。ちょっと気になったので、ニイちゃん、耳を済ました。
「おまえの店はそんなに人手不足なんか。悪人を雇うくらいなんか。中国人もおるやないか。どっちも悪人ばっかりの国やないか。ヴェトナムなんかみな悪人やぞ。テレビ、いうとっただわ」
ニイちゃんの馴染みの、そのイートインのあるコンビニにも、中国人の女のこが二人とヴェトナムの女のこがひとりバイトしている。おっさんは、「ヴェトナムの男性」とたしかそうもいったから、その店の従業員のことではナイだろう。と、ニイちゃんはおもうのだが。
「俺はなあ、たしかに釣り銭から一枚抜かれた。そういうことをするのはヴェトナム人か中国人か、韓国か沖縄しかおらんやろ」
だんだんと他国の数が増えてきた。韓国に沖縄まで出てきた。
「あそこは悪人しかおらん国なんや。知らんのか。知ってて雇ってるのか。ともかく、なんぼ謝られてても、クビや、俺の要望はそれだけや」
いつから沖縄が外国になったのかニイちゃんは首をひねったが、
「あいつら、日本で儲けとんのよ、国に仕送りしとるんで」
このおっさんのくに(郷土)はどこなんだろう。いろいろと訛りが交じっていてニイちゃんには、このおっさんの国がどこかのほうがよくワカラナイ。
「決断じゃわ、決断っ。ワカランのか。なにっ、俺の決断の権利ぃ、そんなもん泥棒捕まえるのにどこに権利がいるんと」
ちょっと、脈絡というか理屈すら怪しい。
「悪い人間しかおらんのよ、あの国は。特にヴェトナムはむかし、アメリカと戦争して負けて、日本とおんなじや。悪人ばっかりや」
ますます文脈がケッタイだ。それにヴェトナムは合衆国に勝利した国だ。
「カネなんか返さんでエエ。金を返せと、みみちいこというとるんやないんよ。そんな小銭に拘っているんやないのやけよ、解雇やっ。これは命令やっ」
命令になった。それに何に拘っているのかもワカラナイ。
ニイちゃんの贔屓のコンビニのアジアンは、昼間か夜、日本語の学校に行って、その合間に学資のために働いている。釣り銭をマチガエタのかも知れない。おそらくそれだけのことだ。
ついでにいうとヴェトナムは、此度のCOVID-19騒動でも、最も被害の少ない国だ。
だいたい、このもっさいオッサンはナニモノなのだろう。コンビニの上司に命令出来るひとなんだろうか。オッサンはガラケイをたたむと、ママチャリに跨がって、レクサスの多い駐車場を縫うように去っていった。ひとに命令など出来る立場のひとではナイようだ。それに、ニイちゃんは命令されるのはきらいだ。
馴染みの店員がいたので、ひょっとして何か知っているかもとニイちゃんは訊ねてみたが、
「あのひと、クレーマーですわ。なんか、他のチェーン店のヴェトナムから来ているバイトの子が、一万円の釣り銭を九千円返すところを八千円しかなかったと、その場でいうなら問題ナイんですが、三十分ほどして戻ってきて、もんくツケたらしいんです。そんなこと、ワカリマセンよ。千円間引いたとかイチャモンですけど、その場では受け取っているんですから。日本人でも、ヴェトナム人でも中国人でも、金の計算は同じですよ。算数は全世界共通ですよ。いまは直渡しと違って、トレイの上に置くようになってますから、コロナの予防とかで。それに、いまは現金払いの客なんか三割くらいですよ」
と、そういうことらしい。今朝のニュースをラジオでニイちゃんは聞いて、合衆国も変わらん国だなあと、今度の大統領選挙のことをそうおもったが、日本も相変わらずなのだ。戦後なんて何処も終わってナイのだ。
ニイちゃんは独り言を口にする。「have to die!」
邦訳すれば「死んで貰います」になる。

2020年11月18日 (水)

港町memory 157

院外処方箋薬局の入り口付近までやって来ていながら、クスリを受け取ることを忘却しているニイちゃんとおばさん。ひとの生き方というのはそんなものかも知れぬ。
シッダルータは坐る。
「なんや、ワカランけどかんがえよう。何かまちごうた。なんや、なんやろ」
おそらく、やがて、シッダルータは自分のマチガイに気づくだろう。
「そうかっ、そやっ、そうやねん。自分が救われたいために修行なんかしてしもうた。ほんまの修行は、ひとを、ひとを救うために何をしたらええのんか、かんがえることやったのに」
悟りをひらいた釈迦牟尼は半眼のまま、瞑想をつづける。何故なら、きょうの悟りは明日はアジャパーになっているというのが悟りだからだ。きょう救えるものが明日救えるとは限らないからだ。仏教の持つ「諸行無常」「諸法無我」はdynamismな運動だからだ。
ニイちゃんは、ニイちゃん自身を救えぬまま、死ぬかも知れぬ。しかし、ひょっとするとシッダールタと同じようなことを、おもいだすかも知れぬ。そんなことはワカラナイ。ましてや、おばさんのことはぜんぜんワカラナイ。
バイデンもトランプもひとなど救えぬ。おそらく殺す数のほうが多いだろう。
野良犬が一匹、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんの前を通りすぎた。こいつらアホかというような目をして。と、左右田一平ふうのnarrationで、幕となる。

次回から、タイトルは変わります。内容は似たようなもんです。

2020年11月16日 (月)

港町memory 156

ひつこいのだが、釈迦牟尼(シッダルータ、シッダールタともいう)は、出家する以前に、バラモン教から次第に変遷を遂げるヒンズー教の教義の当時解り得るすべてを学んで識知していたとかんがえてマチガイナイ。で、なければ、「悟り」という〈もの〉が存在するということがシッダルータにとって既知であったワケがナイ。(バラモン教というのは、民族宗教を外部のものが命名したもので、ヒンズー教との判然たる区別といったものは存在しない)。
「悟り」とは、バラモン(ヒンズー)において、ある奥義、頂点の秘儀、あるいはそれを超越するものだということも、それが噂(rumored)やレジェンド(legend・いい伝え・伝説)の類であったとしても、無論、承知(あるいは理解、了解)していたはずである。よってシッダルータにとって、「悟り」の修行とはバラモン(ヒンズー)の奥義を究めるというより、それを超えるということに他ならなかったが、その根本的な目的の「状態Vektor(作用素)」が〈謬見〉ではないかと気付いたのは、六年間の修行の失敗に対しての疑問からであった。
/ひょっとしたら、なんかチガウことをしてたんと、ちゃうんやろか/とシッダルータは、修行で瀕死の状態に在って、それこそ、べつの意味では覚ったのだ。〈作用素〉というのは、functionされたナニかのことだ。〈状態Vektor〉も同じようなもので、数学でいえばVektorの合成、量子力学でいえば、波の重ね合わせが近いだろうか。イメージでいえば〈微分幾何学〉になる。つまり、linear(リニア・直線)ではナイ、曲線を含む三次元微分のことだ。
これだけワケのワカラン難しいコトバを並べられると、ニイちゃんが鬱病になるのも仕方がナイと諦めがつくだろう。
簡単にいえばシッダルータは/この修行はアカン/と、そう結論したといっていい。
では、どうすればいいのか。/あかん、とりかえしつかへん/の心境だったろう。
と、ニイちゃんは瞑想、いや妄想した。そうして、
「まあ、一息いれようとおもって、坐ったんじゃナイでしょうかねえ」
と、おばさんに対してだか独り言だか、いうでもなくいわぬでもなく、その半々で口にした。
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしていたおばさんは、
「いまな、院外処方箋薬局に行ったらな、」
えっ、行ったのかぁっっ。
「この処方箋ではクスリは出せませんていわれたワ」
30秒ほどで玄関払いされたようだ。
「何故です」
「年齢をちょっと誤魔化しただけやねんけどな」
「幾つにしたんです」
「二十八歳」
「それ、ちょっとですか。半世紀以上の誤魔化しじゃナイですか」
「ニイちゃん、何を渋い顔してたんや」
「ボクは、釈迦の悟りについてかんがえてたんです」
「ひつっこい、やっちゃなあ」
「この世に「悟り」というものがあると、なんでシッダルータは識ってたんでしょうか」
「誰どに、おせ~てもろたん、ちゃうんか」
「誰にですか」
「そんなん、あれやがな、阿弥陀如来にとちゃうか。なんかお経にはそう書いたるで」
「浄土系の親分ですか。釈迦の師匠ですか。そうすると、その阿弥陀如来には誰が教えたんですか」
「そこが、仏教のスゴイとこや。仏教はな、バテレンとちごうて、/光あれっ/とかが無いねん。つまり、この世の始まりが無いねん。そんで終りも無い」
「そうしたら、何があるんです」
「途中だけちゃうか」
「途中だけっっ」
「ナンニも始まらへんし、終わらへんのが仏教や。これを永遠ではなく永円ちゅうねん。遠くやナイねん。親指と人指し指ででける円やな。つまり環(わ)っか、やナ。そやからわしが二十八歳でもエエねんで」
このepisodeというか、storyも終りそうにないな、とニイちゃんはため息するのだった。
しかし、この世間(うきよ)である。こういう浮世離れしたハナシを書いているときは、キの字が引っ込むような気がする作者であった。
/コロナというのは自動車の名称でもある。コロナ(CORONA)は、トヨタ自動車が1957年から2001年まで生産・販売していた、セダンを中核とするCDセグメント(欧州仕様の車種のこと)相当の乗用車である。トヨタ車として初めて日本国外でも生産された車種である/。もちろん、売り上げはダダ漏れ状態らしい。連鎖で世間(うきよ)もタイヘンですわ。

2020年11月15日 (日)

港町memory 155

この世の中には「とりかえしがつかない」というコト、モノ、がある。
釈迦族から出家して六年、「悟り」を求めて、もう一日遅かったらたぶん骸になっていたにチガイナイ。それを近隣のスジャータという娘に救けられた。死んだら元も子もない。乳粥も美味かった。スジャータの乳もうまいかな。などと不甲斐なく六年、いったい、なんの修行だったのだろうか。シッダルータは呆然とするしか他なかった。
「とりかえしがつかない」六年だった。精根尽き果てて木陰に力無く座り込んだ。「悟り」などほんとうに存在するのだろうか。「悟ろう」という気になったということは、自分より前に「悟り」というものがはあったことになるなあ。そうすると「悟り」は仏教、仏陀の専売特許ではなくなるナア。もうさっぱりワカラナカッタ。(これについて書かれてある経文もあるんですが)。
「とりかえしがつかない」といえば、生まれてきたこともそうだなあ。今更、生まれてきたのはイヤだともいえやしない。六年も頑張ったのに「思いどおりにいきやしないなあ」とため息をついた。
たぶん、ひょっとするとこのとき、シッダルータは「悟り」というものに一歩踏み込んでいたのではなかったろうか。と、ドラマっぽくニイちゃんはおもう。
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんは、そんなニイちゃんの様子をみるでもなく、みないでもなく、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしている。道路をゆっくりと走る宗教宣伝カーのラウドスピーカーからは「世おなかに、罪のないいとはひましぇん」というすり切れたテープの声が聞こえてきては去っていき、また近づいてきて去っていった。
ニイちゃんはさきほど、晩飯にうどん屋に入った。「バイデン勝って良かったなあ」という客に「アホかおまえ、得票数みてみい、負けてもトランプ半分持っていっとるやないか。ほんまに勝ったんはトランプや。民主党には負けたけど選挙には勝ったんや、あの、能無しの不動産屋が、大統領になって、ええ夢みたんや。ええ夢みたのは、トランプだけやないのんや。そういうもんやで、アメちゃんは」と、テレビニュースを観ていた客が言い争いをはじめて、殴り合いの喧嘩になり、片方が包丁で刺された。ニイちゃんは「けつねうろん」を半分で食べるのをヤメ、院外処方箋薬局の入り口付近にある公演の木の下までもどってきて、
「オレも坐ってみようかな。ただ、坐れ、只管打坐(しかんたざ)だと、この作者も、アホの一つ覚えか、一つ遠吠えみたいにいってるしな」
と、すかさず、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんは、
「なんや、曹洞宗の仲間入りか。道元に宗旨がえか」
と、笑われて、ヤメタ。
「あんな、ニイちゃん、わしの疾病も、あんたの宿痾も/とりかえしのつかんこっちゃ/ねんで、人生いうのは、なんでもかんでも/とりかえしのつかん/ことばっかりやねんで」
ほんま、このおばさん、悟ってるなあと、ニイちゃんはおもった。シッダルータもきっと坐ったアトでそうおもったのだ。「ああ、もう、とりかえし、つかんわ」と。きっとそれが釈迦の悟りというものだったのだ。そのとき、梵天が現れて「シッダルータくん、それ、悟りなんか」と訊いた。
「いや、べつに。もうどうでもエエんです。悟ろう悟ろうとしていた私がアホでした」
と、シッダルータは応えたが、梵天は「それでエエんちゃうか。つまり、きみは、悟ろうとする執着(しゅうじゃく)を捨てたんや、「悟り」「捨てる」、どや、字がよう似とるやろ。字が似てたらそれで充分やで。コロナ禍、コロナ鍋、なっ、似とるやろ。冬は鍋やで。そやけど、他のもんには、そんなこというたらアカン。あのな、誰かに訊かれたらな、/悟りはコトバには出来ないのだ/とか、いうといたら箔(ハク)がつく~より高い値打ちや評価がついた状態になる、貫禄が増す、などの意味の表現~ウイキより~さかいにな。黙っときや。云うたらアカンで」
このとき、けたたましく笑ったのは、もちろん院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんだった。
「くどいなあ、この作者。まだごたごた書いてんのかいな」
ニイちゃんは白昼夢から覚めて、
「ひつこいすね、ほんとに」
と、けつねうろん、全部食うたら良かったと反省した。今度はCOVID-19コロナウイルスがクスッとわらった。

2020年11月11日 (水)

港町memory 154

ポンペイオ国務長官が会見で、政権移行に協力するか聞かれ「トランプ政権の2期目への移行が滞りなく行われる」と述べた。つまり選挙に勝ったのはトランプ大統領だという主張だ。
日本でも、ついこのあいだ(そう、ほんとについこのあいだなのだ)勤皇倒幕とやらで、勤皇側と幕府側がおのれの主権を争ってチャンバラをしていた。で、勝った勤皇のほうは、その後、天皇をまつり上げて大東亜戦争をやって、負けた。
ほんでもって、これは総力戦になったので、犠牲になったのは庶民大衆ということになる。
その総力戦の戦争形態もオワリ、次が「国家総力戦」となり、その延長に「冷戦」「代理戦争」さらには「兵器戦」「情報戦」となる。
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんは、
「もう南北戦争でもヤルしかあれへんで」
と、ゲラゲラ笑っていた。
南北という分け方がちょっと出来にくいのだが、それはどうでもイイことで、大統領就任、つまり政権の移行が遅れると、苦しむのはやっぱり、毎日10万人以上のコロナ罹患者を出している大衆だろう。トランプはゴルフの合間にツイッターしてるだけで、まだ現職なんだから、せめて、コロナ対策だけでもすればいいのだが、そんな知恵も銭もナイ。大統領から降ろされたら、待っているのは借金地獄と監獄行きだけだ。裁判闘争なんて本気でヤル気があるのか、裁判のために集めている寄付金は借金を返すのに使われているらしい。
中華やロシア、北朝鮮が黙ってみているだけなのかというと、このblankにおいて、アメリカの情報局はバイデンに接触することが出来ないので、「情報戦」でかなり有利になるだろうなあ。
と、ニイちゃんは心配顔だが、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんは、
「ほっとき、ほっとき、なんべんもいうけど、どっちでもおんなじっ」
「しかし、COVID-19被害は、2000万人くらいになりますよ」
「疫病で滅んだ文明は腐るほどあるらしいで。最近の『宇宙考古学』が、これはあれやでトンデモ本のアレやのうて、宇宙から地球の太古の文明を調べるヤツやけど、それが調べたもんやさかいに、もう四大文明みたいナコトバは死語や」
おばさんは学もあるのだ。
「アメリカ合衆国は疫病で滅びますか」
「まあ、東京オリンピックもなくなったことやし、」
「えっ、中止になったんですか」
「ニイちゃん、あんた、ほんまに常識がナイなあ。欧米がCOVID-19情況でてんてこ舞いやのに、日本がオリンピックみたいな呑気なこと出来るかいな。参加するのは、中華とロシアだけやで。建設された施設は塩漬けでぺんぺん草生えとるらしいわ。どんな〈おもてなし〉ができんねん」
「そういえば、近頃、周囲で建設工事が多いですけど、あれは、みんな東京に出稼ぎに行ってた工事屋の連中が帰ってきてるんですね。しかし、オリンピック施設の工賃はもらえるんでしょうね」
「スポンサーは軒並み降りたからな。30年くらいの分割払いになるんとちゃうか」
「なんかボク、具合悪くなってきましたワ」
「六十八にもなってなにいうてんねん、子供みたいに。わしなんか来年まで持つかどうかワカランさかいに、どうでもエエねんけどな、南北戦争になったらオモロイやろさけ、それ観てから死にたいワ」
「なんかもう、悟ってますね」
「ニイちゃん、あんた学もナイな。悟りというのは、六道輪廻から解脱するこっちゃで。そらヒンズー教の教義や。インドの階級と日本とはなんの関係もあれへん。そやさけ、日本の坊主に悟りみたいなもんあらへんねんで。それ、知っとったのは、親鸞と一休と道元だけやろな」
まあ、悟るためにヤッてる演劇でもなし。ニイちゃんは、アホラシなってきたのであった。
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんは、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているのであった。虚無やなあ。~虚無も暮れゆく故国の丘で~

2020年11月 9日 (月)

港町memory 153

「バイデン、勝ったみたいですよ」
 院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんに、ニイちゃんは小声でいう。
「ニイちゃん、あのな、選挙に勝つくらい屁みたいなもんや」
「トランプは/法廷闘争/、ああ、懐かしいなあこのコトバ。とかをする、いうてますよ。やれんことはナイとおもいますが、法規社会ですから、でも、勝ち目はナイというか、万が一勝ったとしても、アメリカ中に混乱どころか、暴動、いや内乱が起こるだけですよ。負けは負け、四年後におばさんのいうとおり、また出てきたらイイんじゃナイですかね」
「包茎痘瘡、まあ、銭があるぶんヤレばエエねんけどな、しかしまあなんやな、ビックリしたのは、ニイちゃん、アメちゃんの7000万人以上の選挙民がトランプに投票しとんねん。つまりや、ほぼ半分はトランプでエエ、トランプがエエ、いうとんねん。四年後に出てきたら、また勝つかも知れへんで。アメリカ合衆国はそんなとこ、そんもんや。わしらはな、そのまた奴隷やねんけどな。要するに、わしらはバイデンにでも、トランプにでも、投票権がナイ連中とおんなじ、ちゅうこっちゃ。そやのに、勝ったほうにへいこらや。まあ、しゃあないわ敗戦国民やからなあ。戦争はヤッたらあかん。ヤッても何一つエエことあらへん。しかし、どないしてもヤラナアカンねんなら、負けたらオワリや。戦争は負けたら負けや。選挙とはだいぶんにちゃうわ。ニイちゃん、わしらはなあどっちが勝っても負けても、シミジミと敗戦国民やいうことを骨の髄までしゃぶっとったらエエねん。ガッコの教育でも、まずセンセが生徒にいうことは、ほんまはこうや。/みなさん、ボクらは敗戦国民です。これはけして忘れてはいけないことです。大日本帝国政府が公式にポツダム宣言受諾による降伏文書に調印した1945年9月2日を通常敗戦の日としています。つまり、もはや戦後半世紀以上、百年近くたちましたが、ボクらが敗戦国民だということに変わりはナイのです/
「おばさん、いつから右翼になったんですかね。雰囲気、そうですよ。遺恨が露出していますよ」
「離婚はしたことあるけどな。遺恨は知らんわ。まあ、帝国が勝ってもたいしてチガイはなかったかも知れへんけどな。いまさらにツルコウの唄が身に沁みるは~何から何まで真っ暗闇よ~スジの通らぬことばかり~右を向いても左をみても~バカとアホウの絡み合い~や。~ど~こに男の夢がある~ついでに女の夢もナイ~や」
ちょっと、自棄になっているのかなと、ニイちゃんはこのときおもったが、次の一撃がキツかった。
「ニイちゃん、あんた、シバイとか、しとんにゃろ。シバイは夢売る商売か。ほんまにニイちゃん、あんた、夢、売ってんのかっ。夢て、売れるもんなんけ」
ニイちゃんは黙した。
「もし、売ってんにゃったら、なにか、あんた、夢を銭に変えてんのか。そら、魔法やな」
ニイちゃんは歯ぎしりをしながら、涙堪えて、その場にうっ付した。
しかし、ニイちゃんっ、泣くなニイちゃん。この世は地獄だ。地獄だからこそ、夢も銭と交換出来るのだっ。天国や極楽では夢は売れんっ。夢みたいな惚けたところで夢が売れるワケがナイ。
「夢を売るお伽話」というのがあるのではナイ。夢を売ることこそがお伽話なのだ。地獄の鬼にも家族があるかも知れん。鬼にも女房子供がおってな、と、亡者にそうおもいこます、賽の河原の迷子をたらしこむ、それがこの世という地獄のお伽話、夢というものなのだぞっ。
~虎が屁こいて トランプゥ あほれ 梅毒もんのデングリガエリが、バイデンやほれ~
ついにおばさんは、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしながら歌いだした。院外処方箋薬局には、そういう病人に使う薬はナイ。
おう、それでイイではナイか。瓦礫と灰塵の地平に咲いた一輪の真っ赤な曼珠沙華、それがニホンだボクラのクニだ。では、その花言葉を何といおう。
/握られて屍の手に咲く花の願いかなえん我が手おどりは/
まるで時代劇の予告編の口上のようになってきて、今回は幕。

2020年11月 7日 (土)

港町memory 152

「先住民を殺戮し、その土地と住処を奪い尽くし、飢えた狼のような侵略と蹂躙とを、いうに事欠いてフロンティア精神と吠えたのがアメリカ合衆国やで。フロンティアやて、あんた、あれが、アメリカの開拓やで。いまもむかしも、いうてみたら、ペルーが黒船で来よった世界から、アメリカ合衆国はおんなじやねん。そやさけ、トランプでええねん。民主主義みたいなありもせんもんは死んだ。けんども、アメリカン・ドリームはオバマの時代からまだ続いとんねん」
と、突然語りだしたおばさんは光輝く菩薩にみえた。
もちろん、ニイちゃんの垣間見た幻だ語りだしたなのだが。
「原爆という血も涙もない兵器で、日本人を虐殺し、焼夷弾という日本の家屋を研究し尽くした火炎地獄攻撃で町もひとも焼きはらわれ、死屍累々の黒こげの死体の上にわしらは生きとんねんで。それがアメリカやし、それがいま生きているわしらや。そやから、アメリカはトランプでちょうどや」
「でも、バイデンになりそうな気配ですよ」
「そやさかいにな、ニイちゃん、どっちもどっち、目くそと鼻くその叩き合いやいうてんねん。バッタもんとパチもんの争いや。トランプは政治の素人や、そやさけ、ウソもハッタリもすぐばれる。いうてみたら、アホは恐いもん知らずや。バイデンは政治のプロや、ばれへんようにヤッっとるだけや。まだ民主主義みたいなもんがあるとおもてる半ボケの爺や。まあ、ヤッとることはどっちもおんなじやというこっちゃ。不正のナイ政治みたいなもんは、日本なら卑弥呼の時代(中華ではもっと古く)からの伝統みたいなもんや。と、リチャード・ウーはいうてるな。彼氏が書いとるcomic原作はみなおんなじThemaやな」
「『卑弥呼』も『ダイマジン』もそういえばそうですね」
「バイデンが勝ったら、まあ、選挙には勝つやろけど、さあ、後がたいへんやで。バイデンは年齢からみて、大統領は一期だけやろ。そうすると、副大統領がどんだけやるかやな。四年後はおそらく、副大統領のカマラ・ハリスとオバマ寄りのマサチューセッツ州選出上院議員エリザベス・ウォーレンの候補者争いになるはずや。共和党か、もっぺんトランプ出しゃええねん。リターンマッチや。そんなんはエエ。あんな、これはこの四年のあいだに、米国が中華をとるか台湾をとるかというごっつい問題がからんでるんやで。これは日本にとって最重要課題や」
急に政治評論家になったおばさんに、ニイちゃんどう対処していいものか。
ともかく、選挙結果が出てからのおばさん菩薩の動向がオモシロソウではある。
~オレは台湾がええなあ~と、ニイちゃんの独り言は、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんには聞こえなかった。

2020年11月 4日 (水)

港町memory 151

ニイちゃんの劇団の稽古が始まったらしい。おばさんが、
「稽古て、どんなことすんねん」と訊ねた。
「せりふ、ですけどね。せりふって〈書いてある〉んです」
「ほら、アタリマエやがな」
「これを役者はまず目で読みます。声に出して読む役者もいますけど。これをね、ちょっと難しくいうと、これは哲学者(ジャーナリスト)のサルトルという方が造っただか、よく使っただか知りませんが〔即自的〕といいます。自分が自分に読んで聞かせるんですから、まあ、その役者さんのイメージのとおりに読んでいればいいんです。それから次に/読み合わせ/というのがあって、そのせりふを音声、声に出して読みます。これは、自分にも聞こえますし、これを〔対自的〕というんですが、他の役者さんにも聞こえるワケですから、それに演劇には観客もいますし、観客にも聞こえますから〔対他的〕といいます。この三つをいっぺんにやらなければいけないので面倒なんです。これはさらに難しくいうと数学的には/微分幾何学されたコトバ/というふうに説明されます。ワカルひとにはワカルでしょうけど、微分を幾何学的にするんですが、簡単にいえば、微分を曲面(曲線)を含む立体にするということです」
「どこが簡単やねん。邯鄲の枕の夢みたいなハナシやな」(おばさんは能の『邯鄲』の知識をそれでも知っているようだ)
「自分の語ったコトバ(のnuance)が正しいかどうか、これってなかなか自分ではワカラナイもんなんです。自分では正しいとおもっていてもチガウときもありますし、正しくナイとはおもうんだけど、どうも正しいのがワカランという場合があります。そこで演出者の出番になります。しかし、その演出者のいうことが正しいかどうかを誰が決めるのかというと、これはもう「永遠回帰」になります。
そこで、インテリや、頭のエエ演出家は、難しい演劇理論とかで説得するんですが、うちの演出はアホではナイのですが、『ホノアノコ』(ある童話の主人公)みたいなもんで、めちゃアタリマエなことしかいいません。まず、
〇そのせりふは、誰に向けて発せられているのか。
〇その相手はどんな役の、或いははどんなヒトなのか。
〇そのヒト、その相手役に対して、せりふは語られるように語られているか。
〇そうして、そのせりふは観客という相手役でナイものにもワカルようにしなければならないので、常に頭の片隅に観客は置いておく。
〇とはいえ、観客といっても数多種類があるので、誰にというワケではなく、観客席に自分を観客としてひとり坐らせておいて、その観客(自分)に向ければイイ。
〇およそ、これがせりふのすべてだ。どんなせりふでも、これだけかんがえておけばイイ。
ですね」
「なるほど、そういわれたら、そやな」
「せりふは、どれが/正しい/のか、というより、語ってみて、なんか違和感がある。不自然だ。相手の役者が受けるのに困っている。観客席の自分が気持ちよく聞いていない。という、/正しくない/というほうを感じたら、それをなおしていくのがイイのです。単純に「おはよう」というのにも、マチガイも正しいも、何通りもあるということです」
「しゃあけど、正しくないのを探すのも、それはそれで難しそうやんけ」
「まあ、そうですけど、それはカラダが教えてくれるんです」
「要するにあれか、よういわれる/カラダでおぼええ/いうヤツか」
「そうです。語ってる自分のカラダが緊張せずにリラックスしてたらそれはそんでもう正しいんです。ここでよくマチガエルのは、リラックスして緊張せずにせりふを語るのではなく、せりふを語るときにリラックス出来なかったらそれは正しくナイということです。ですから、楽に語れるようなせりふの語り方を探すんです」
「なるほどなあ、緊張すると、コトバにならんわな」
「誰(どの役者)に向かって、緊張のナイ語り方でせりふをいう、稽古って、それが出来るように、そういうことをするんですよおばさん」
「演出家とかに聞かせるんやないのけ」
「そんなん、演出家みたい、別に、隣の魚屋さんでもカマワナイんです。/なんや、おかしいで/とか/上手やなあ/というてくれたら、演出家はそれだけの仕事です。まあ、うちの演出は、アホやナイですから、それくらいのことはいいます。役の心理がどうたらとか、気持ちがこもってないとか、そういう手の上に乗らないようなこと、絵に描いた餅みたいなことはいいません。どうせ、なんぼ稽古しても、本番になっていよいよ出番になったら/よし、もうおもいきっていこっ/としかかんがえませんよ役者なんて」
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんは、ふーん、とかいながら、ラジオ体操を続けるのだった。

2020年11月 2日 (月)

港町memory 150

お釈迦様とて、そう莫迦ではナイ。少年期シッタールダの頃、インド最高の学問は全て学んだからという歴学をいっているのでもナイ。釈迦牟尼の利口さは、真宗親鸞にも受け継がれている。つまり両者とも同様/宗教継続の(或いは信仰存続といってもいい)が、その本質的な矛盾を予期/はしていた。
具体的にいえば仏教独特の概念である「悟り」というものに対する〈矛盾〉だ。この「悟り」というシロモノは、シュレーディンガーの猫と同じで、自らが得た悟りがほんものなのかそうでナイのかという基準が五分五分だという焦燥を孕んでいる。「それ、ほんものだっ」と、誰もいってはくれないし、誰にもいえない仕掛けになっている。(たとえ誰かがそういったところで、その誰かのコトバの真偽を判断する手段方法がナイ。これは永久連鎖だ)。つまりはほんものかどうか、猫が生きているのか死んでいるのかが「確率」というものでしか現れない。ここで、シュレーディンガーは量子力学の行き詰まり、無意味を予知したが、この「確率」こそが、のちのちに重要になる。もっともシュレーディンガーにいわせれば、「数学の最大の失敗は確率の導入」になるだろう。波動方程式にみられるように「虚数」は論理である。しかし「確率」は論理ではナイ。悪くいえば「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と同じで、「後付け」「辻褄合わせ」「適当」「その場しのぎ」に過ぎない。ゲーデルなら自殺しているところだ。南海トラフ地震の起こる確率は、50%だ。五割、起きるか起きないかだけだ。癌に罹患する確率は、これも五割。なんにしたって5割。シュレーディンガーが量子力学に嫌気をもよおしたのも無理はナイ。天気予報と同等といってもイイ。
橋爪の大ちゃん老師のいうとおり、「悟り」は状態Vektorとしては/釈尊と同じもの/でなければならない。僧坊の坊主たちはみな、釈尊の「悟り」と同じものを得ようとして、坐る。「只管打坐(しかんたざ)」、ただ坐る。「悟り」はヤッて来るものではなく、自身の内に在るものだから「固有」のものだ。しかし、それでは釈尊との比較がならない。「自燈明」と、釈尊は阿難陀に遺言(いごん)したが、釈迦の「悟り」を真理=法とするならば、固有の悟りは/おのおのの思い込み/でしかナイ。この矛盾を、当初から釈迦も親鸞も充分に識知していた。それだからこそ、かくなる矛盾などさっさと取り払うために親鸞は「悟り」そのものを棄てた。そんなものは阿弥陀如来にまかせておけばイイという「他力本願」を「悟り」の代わりに導入した。仏教(釈迦の教示)に対しての一種の解体になる。臨済宗一休宗純も同じことを深慮したにチガイナイ。彼も智恵者である。「悟り」がもともとそれ自体に矛盾を抱えていることなどワカッテいた。そこで一休のとった戦略とは何かというと、/万人に共通であり、万人それぞれのべつもの/という矛盾そのものの受け入れということになる。そんなものがいったいあるのか。
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操が出来るほどの広さの公園には、鉄棒がある。砂場の傍らにいわゆる体操競技に用いるのと同じ、ただし、安物の鉄棒が二連立っている。ニイちゃんはこの鉄棒にぶら下がってみた。跳躍しないと鉄、あるいは何かの合金の水平の棒には掴まれない。ぶら下がれない。ここから自分自身を二本の腕力、筋力で持ち上げる。棒の上に顎を出すと1回。ニイちゃんの記録は高校生のときに12回。自分で自分自身を持ち上げる。いわゆる「懸垂」といわれるものだ。一休の「悟り」はこの「懸垂」と同じものだ。持ち上げる者と持ち上げるものが同じ。であるが、それぞれべつもの(固有の自分自身)だということになる。12回出来たとして1回だけだったとして、特にナンニもナイ。しかし、一回でも自分自身を自分自身が持ち上げるという、その過程を修行とするならば、この充足感、快感、愉悦、という「悟り」は、持ち上げた者自身だけのものだ。しかし、結果はみな同じ。これは禅にいては/修行即是悟/になるのだが、ニイちゃんは、なんだかワカラナイけど「これでヨシッ」とおもっている。この日のニイちゃんの記録はたった1回。おばさんはニイちゃんのご満悦な笑顔の理由がワカラズに、合わせて愛想笑いをしながら院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしている。
「キ、やからな。しゃあないわな」
世界のほうが、うんと、「キ」に傾斜していっているある日のいつもの院外処方箋薬局の入り口付近だった。

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