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2020年9月29日 (火)

一寸一休③

さて「みっつ」かぞえる。
三幕目は幕間をはさんではいるが、三幕目のつづきということになるはずなんだが、こいつがうまく論理が整合されていない。(主には私の鬱疾患に因る)なので、箇条書きでフラグメントをおそれずに記す。
書かねばならないこと(かんがえねばならないこと)は、だいたい以下の如し。
1, 東京オリンピックは、COVID-19の状況とは関係なく行われる。(関係アルのだが、関係の仕方が巷とは、断層を異にする。IOC会長 トーマス・バッハはバッハならぬハッパをかけていた。(ハッパとは発破のことで、要するにドカンと山を崩したりするdynamiteみたいなものでしょう)。ところが公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長: 森喜朗氏は、このアトの談話で「みんな一緒に船に乗ったつもりで」とかなんとか、いつものように蜃気楼のような口調。(ところで、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会というのは、公益財団法人日本オリンピック委員会-Japanese Olympic Committee-とはチガウ組織で、なんかややこしいネ。どっちも泥船にならなきゃいいけど、とかくオレはそんな船からは降りたい)。
2, それ(開催事業)はCOVID-19に対して「安全・安心」で、それは人類のCOVID-19に対する凱歌として開かれねばならない。(ここはもう真珠湾からいっきょにインパールにいっちゃうなあ)
3, その二つのことを目的として開催されるそれは、じっさい、どうみても現状では不可能なのだが、(どうしたって、インパール白骨街道は、真珠湾奇襲にならないのだが)、可能であったという結果にしなければならない、し、ヤルからにゃそうするだろう。(せめてミッドウェー)
4, 以上のような「キチガイ沙汰総力戦」を権力がもし、力づくでやり遂げるとすれば、必ず何処かに何かの誰かに「犠牲」が生まれる。
5, その「犠牲」とは、COVID-19の犠牲者と等価であるはずだ。(と、私はかんがえている・・・このあたりの論理の整合化が不十分なんだけどネ)
5に関する論理の整合性、論理化が不十分なものだから、事例を挙げることしか出来ないのだが、その一つの事例は、まさしく虚空旅団の公演休止なんじゃねえのか。
それだけだとなんだから、とはいえ、まだ満州国は砂上なので、そこで、もう一つ、架空(illusion)ではあるが典型的な例をつくってみる。
/母子家庭があって、母親はhelperを生業としている。この母親の子供の通学している学校の一児童に陽性反応が出た。当然、学校はしばしの休校となる。他の児童のどれだけに感染しているかが判明するまでは、それなりに授業の時間は中断されるだろう。これは公共の手順、もはや仕来りであるからしょうがナイ/。
/さて、その母親にも累が及ぶのだ。あたかも、虚空旅団で起こったようなことと相似な累だ。これを「連鎖被害」と称しておく/。
丁度かの大災害ののちの風評被害がimageとしては近いのだが、本質はまるでチガウ。この「連鎖被害」は風の噂でも、人々のデマでもナイ。母親はhelperという職業柄、業務に差し止めをくらう。母親の業務と子供のガッコの児童の陽性反応にはなんの因果もナイのだが、すでに釈迦如来によって否定されている「因果応報」を権力は律として(戒のようだが、ここでは戒でも律でも作用素は同じだ)行使出来る。権力は弱い者の味方ではナイ(どうもすんません、橋爪さん)。神ではナイのだから(と、付け足しておきますね橋爪老師)。
ここで、こんところで、私は、ふいに、子供の頃おおいに盛り上がった日本における世界の祭り、前回の東京オリンピックをおもいだす。といっても、競技場の日本選手団行進の明るい場面ではナイ。私のイメージ、その頃はシートなどなかったから、橋の下を住処としていた大勢の〈コジキ〉と呼ばれていた人々が、忽然と、跡形もなくこの祭りの前に消えてしまったことだ。あっさり、スッキリ、テケレッツのパッ。 
このことは、お粥までご馳走になった子供の私に奇妙な衝撃をもたらした。漠然とした恐怖といってもいい。テケレッツのパッだからなあ。
まとめて書けば、以下の文言になる。
「COVID-19、コロナ禍における東京オリンピック開催にあって、如何なる「連鎖被害」が起こり得るのか。その「安全・安心」のsloganの錦の御旗、黄門さんの印籠の下、どのような「連鎖被害」が待っているのか。経済を損ねることなく、社会的に問題となることなく、あたかも彼の「構造改革」の如くに、弱きもの(別名を不要不急のもの)がこの世界から消去されていくのではなかろうか。そんなことの方針はアトヅケでいくらでも権力には可能なことだ。テケレッツのパッ、だもん。と、これが三幕目のはずだったのだが、いまの私の、鬱疾患で損なわれている力量ではそれを論文化することは出来ない。ただ、子供のあのときと同じような「漠然とした恐怖」だけが、今度は顕在して、胸を抉られるような恐怖感になっていることを小声で告知出来るだけだ。テケレッツのパッ。
と、幕。

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