無料ブログはココログ
フォト

« 港町memory 104 | トップページ | 港町memory 106 »

2020年5月 7日 (木)

港町memory 105

おばさんはちょっと苛立っているようでした。院外処方箋薬局の時計は長針短針ともに右にあります。
「もちっと、マシなハナシはナイのかいな」
「これはあくまで例え話ですが」
とことわったうえで、私はこんなふうにいった。
「どうせ死ぬのなら、生きていてもしょうがナイ。ヒトという生き物はそう、おもうでしょうか。誰だって何れは死ぬんですからねえ。けれどもですね、生まれてきたのはこれはもうどうしようもナイ、諦めるしかナイとお釈迦様もそうおっしゃってます。ですからイヤでも生きてみようとするでしょう。この先夢や希望がある、がそうおもえるときは、まだ生きられる時間がおそらく、ある程度は残っているからです。私もおばさんも同じくらいの年齢ですが、女性は余命寿命も長いので、おばさんは私より十年近くは長く生きるでしょう。とはいえ、そんなに残存しているワケではナイ。所詮、人生は「カチカチ山」で出てきたたぬきの泥船と同じナンデス。泥船はどうみたって沈むのはワカッテいるんです。どうせ沈むものだとしたら、ヒトはそんな舟に乗るでしょうか。けれども乗らなければ仕方がナイ。舟がそれしかナイのならです。生きることが泥船に乗ることだったら。あるいは、ひょっとしてその舟が浮かぶものであったとする。けれども舟が何処に流されていくのか、乗ったものにはワカラナイ、決められない。櫂も竿も無い。舵だって無い。Compassも海路図も。もちろんradarも。何れ人生とはそういうものなんですよ。
「えらい、酷いとこなんやな。なんでそんなとこに生まれてこなアカンのや」
「たぶん、地獄というものはナイんでしょう。これはキリスト教も仏教においても正統にその考え方を聞き、教えの読み方をすればそうなります。何故ならば、この人生、この世こそがその、地獄、だからです。他に地獄はありません」
「まあ、そやな。そうおもうと、それはそれで、ほんならしゃあないとおもうわな。なんでも地獄やとおもたら、かえって気が楽や」
「そうして、死ぬ間際、ヒトはいろいろな未解決の人生を背負ったままこの世から去ってしまわなくてはならない。人生をつづめていえばこうなりますね」
「しかしあんた、それが、ちょっとはマシなハナシなんかいな。無茶苦茶に死にとうなるハナシやないか」
「しかしね、私がいったのは、泥船が沈むところまでです」
「沈んだら終いやがな」
「そうですかね。ヒトの比重は水に浮くようになっているんです。と、いうことは沈んだら次は浮かんでくるということです」
「浮かぶ瀬も在りとかいう、あれか」
「そうです、いろいろな説はありますが、たぶん一休さんがいうたのが、なんとのう、そやなあとおもいますね」
「ほんで浮かんだらどうすんねん」
「好き好きですけど、私は泳ぎます。泳ぐのが好きですから。ですから、泥船に乗るときはパンツいっちょがイイんです。ヒトはいろいろと持ちたがりますが。いわんや、/人生とはパンツいっちょで泥船に乗ることだ/。一休の教えです。(ほんとは出まかせでいっただけだけど)
「パンツいっちょで道路歩いたら、捕まるで。あんた変態ちがうか」
 と、おばさんの番号がannounceされて、おばさんは窓口へ。
外は地獄の真っ只中。

« 港町memory 104 | トップページ | 港町memory 106 »

暮らし」カテゴリの記事