港町memory 79
「病気自慢」なんてのがあります。病院内でも、医院内でも待合室て、また、通りすがりの挨拶でも、偶然出会った道端でも、けっこうのお年寄り(私もですが)がよくされております。何のためにそんなことをするのかということが、私くらいのお年寄り(六十七歳、前期高齢者、年金受給者)になりますとワカッテまいります。つまるところ、「私はまだ大丈夫だ」という確認をしてるんですナ。
「あら、お春さん、お元気」
「なにいうてんの、私なんか、高血圧と膝の関節炎で、杖ナシでは歩けへんで、お夏さん」
「それくらいなんやの、私なんか、高血圧なんかもう10年も前からやで。このまえは、脳のなんたらで倒れたし、去年は三回もMRIや。軽いくも膜下シッケツやそうやけど、そこへきて、白内障やろ、あんなもんシリツしても二ヶ月しか見えんそうやしな。いまどき膝みたいなもん誰でもやで・・・子宮ガン切ったことは隠しとこか、ここぞというときに一発・・」
それだけ壊れていても、飯は食えてるというようなことで、入れ歯のハナシになって、どこそこの歯科医がイイとか悪いとか、
「ほな、今度一緒に焼き肉でも行こか」
というふうに病気自慢終了。
ですから、私がどれだけ壊れているか話したり書いたりすると、そんだけ壊れていてよう書けますなあ、といわれて、「どないや、現役や」とドヤ顔して、ほくそ笑んでる次第。
何度も書きますが、日本の自殺者が毎年三万人ちょいというのは、そこまでしか数えられないだけで、日本の鬱疾患自殺者も年間三万人です。というと、みんな鬱疾患で自殺していることになる。
アーネスト・ヘミングウエイの有名なコトバは「人間の価値は絶望的敗北感に陥ったとき、そこからどうするかで決まる」なんですが、これも何度もかきましたが、ヘミングウエイは鬱病で自殺してます。
吉本隆明老師は「老いるということは次第に身体障害者になっていくことだ」とおっしゃいましたが、吉本学派の私といたしましても、それは身に沁みてワカル。私なんざ、右半身不随ですな、と、病気自慢。
カラダというものは、一つ悪くなると、連鎖的にヤラレますね。第七頸椎狭窄で歩き方のバランスが崩れるのを防ぐために無理してると、膝の軟骨が消え失せる、と、その足を守るために座骨神経痛が始まる。同時に食いしばった右の歯までが奇怪しくなって、三本入れ換え。
日本は精神病大国らしいですが、半世紀その精神疾患の代表、鬱病とご一緒したものにしてみれば、神経内科やら心療内科(なんざ、打鍵しても出て来ない名詞です)、おまけに内科や外科までが、向精神薬を(効くならイイだろう)バンバン出してるので、あちこちで依存者が増えます。私にいわせりゃ、オリンピックで騒いでいるのは、みんなどこか奇怪しい。
冬季五輪のカーリングで、綺麗な姉ちゃん観ながら、石の動きをまるで囲碁のように読んでいるのはまだまだ健全。もうすぐ、ご当地でも市民マラソンだか、温麵図マラソンだか、ありますが、ムカシ近隣の高校の運動会で観た「仮装行列」とおんなじじゃねえの。
と、おもう、日日是口実であります。
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