港町memory 75
そんな急に自分のendingが来るとは誰もおもっていやしません。(endingと weddingなんとなく似ている語呂節目)母親もエンデイング・ノートという(主婦の友・出版)をちょっと書き始めたようですが、その後はパッドでのゲームに熱中して、どこも中途半端にしか書き込まれておらず、通夜、告別式への知己、親戚、友人への連絡をとるのに一苦労。
ところで、このノートには「人生で苦労したこと」という、奇妙な欄があって、奇妙というのは、人生なんて苦労以外の何があるのかと、私なんかはおもうワケですから、これはまるで「馬に乗馬したことがあること」と同じじゃないかと・・・まあ、そこんところに「我慢の一生」とだけ記されていました。弟にそれをみせたところ、弟は微苦笑、その後、兄弟で声に出して笑いました。不謹慎ですが、どういうワケか、私にも弟にとってもオモシロかったのです。
もし〈愛情〉というものの発現を、ある種の〈甘え〉として捉えるならば、あいにく私たち兄弟には母親に対してそういった記憶がなく、私は名古屋へ、弟は京都へと、~母を見捨てて波越えていく~(『蒙古放浪の歌』)と、家というもの両親というものから逃走したワケですから、母親に兄弟そろって会うのは一ヶ月に一回、月末にしゃぶしゃぶ食うときだけで、ただ黙々と牛肉を食い、その肉の量が、最初は900グラムだったのが、加齢とともに減り始め、500グラムになってしまったのが年輪というものでしょうか。料理の出来ない母でしたから、翌日は昼食にウナギを食って、ちょうど父親の死んだときからこれが八年ばかりつづきましたか。漬け物だけは上手だったと記しておきますが、糠漬けは出来たという程度のものです。食い残しの饅頭まで糠床に放り込んでかき回すという、おそらく何処にもナイ糠漬け(滋賀ではドボ漬けという)でした。
さて、母親がナニに「我慢」していたのか、私なりにちょいと粘着してかんがえましたが、思いあたるところは、父親のワガママ(もしくは暴力)しかなく、そんなことはどこのどんな家庭でもありがちなことですから、特に書き留めておくほどのことでもなく、母親自身も師範学校を出てから小学校低学年の教諭をしていましたから、ともかく家庭さへ離れれば〈威張れる〉ワケで、中元、お歳暮などは床の間の天井まで届きそうなくらいで、当時ガッコのセンセというのはほんとうに「先生」でしたから、「せんせ、センセ」とヨイショされて、要するに自分によくしてくれるひとは善人、気に入らぬひとは悪人という物差しが母親の計測器で、これはいわゆるワガママというもので、我慢がさて、何処にあったのか、うむうむ、とかんがえますにこれは我慢ではなく「不満」ではなかったのか、そうすると合点がいく。理解が納得する。「不満の人生」、なるほど、そりゃそうです。おもいどおりにいく人生ならシッダールタは悩まず、仏陀にならなかったでしょう。この世が大きな罪業にあふれているのは「神の罪はこれほどに大きい、おまえらヒトの罪など知れたものだ」という、キリスト教paradoxな救いでござんす。かつて芥川龍之介は「全能の神に出来ぬことは自殺だ」と書きましたが(『侏儒の言葉』)、もう一ついうなら「神に出来ぬことは〈悔い改めること〉」でありましょう。こりゃあ、出来ませんです。
私は両親のdomestic violence、弟は幼い頃から祖母の親戚へと預けられて、家庭(家族)の愛(というものがあるのならそうだろう)を知りません。
ですから「我慢の人生」の一筆を笑ったのだとおもいます。
死者に鞭打つようなことを書きましたが、ともかく、この混沌、錯綜の深層心理、潜在に句切りをつけねば疲れがとれませんゆえ、まあ、身内のこと、と、こんどは読者諸氏が笑いたまえ清めたまえ、でござんす。
私が唯一、母に驚嘆するのは、母には信仰がなかったことです。写経千枚も、PCのゲームに移ってからはそれで気分が落ち着くので、それまでの朝の読経もヤメ。どれも同じようなものだったようですし、(だいたい浄土真宗の仏教婦人会・・これはもう近所づきあい・・てなものに入っていながら『般若心経』を写経とは)信仰もへったくれもあったものではなく、ただもう自慢のタネの一つとなってしまいました。
死の一ヶ月前くらいから、「せんせ還り」を認知症の代わりに起こしていたようで、ケアマネさんやらヘルパーさんたちを前に、学校ゴッコをやったりしました。その頃の自分が最も好きな自分だったのでしょう。「あのケアマネは私が育てた」と臆面なく固有の倫理の押しつけを自慢しておりました。
「あんさんなあ、誰の世話になってんのか、よおう、かんがえてから、まわりのひと(ヘルパーさんやケアマネさん)を罵倒するクセをなんとか反省しなはれ」私が晩年の母に対して叱ったのはこいつと「ヒトのハナシは最後まで聞いてから、自分のいいたいことをいうようにせなあきまへんで」です。
母、最なる反面教師ではありました。未だ喪はあけませんが冥途の道すがら、「こんな暗い途、こんな歩きにくい草履、こんな、もう死んだらもうちょっと楽になるとおもてたのに、冥途は我慢と今度は書いたろ」と文句たらたらでありましょう。
« 港町memory 74 | トップページ | 港町memory 76 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- Sisyphus descending from the summit-4(2025.06.07)
- Sisyphus descending from the summit-3(2025.06.04)
- Sisyphus descending from the summit-1(2025.05.29)
- nostalgic narrative 58(2025.02.12)
- nostalgic narrative 57(2025.01.29)