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2020年1月 8日 (水)

港町memory 74

身近なヒトの死というものは、自然にdocumentaryになってしまうのかも知れません。
母親が口腔癌と診断されたのは、一昨年の十一月で、そのときから滋賀医大の口腔外科に月一回の通院が始まったのですが、当初の当初は二年ほど前、町の開業歯科医からの紹介状を持っての受診でした。この初診時はまだ診断がつかず、一年ほどの様子(観察治療)を経ての、決定診断でした。
その時点において、母親の年齢は八十八歳でしたから、抗ガン剤の効果は期待出来ません。鼻腔部分も削り取るという手術は体力的に無理(部位が顔面になりますから予後が厳しいだろうナ、ですナ)、と、私が判断しました。このときは、ネットで口腔癌などのガン治療を調べてみて、/七十五歳以上の高齢者には抗ガン剤は効果がなく、副作用による体力、心身の影響はみられる/、というresearch結果(国立がん研究センター)でしたが、とりあえず一ヶ月は抗ガン剤の投与は試みてみました。たしかに、少量からでしたので副作用は強くはありませんが、あるにはありましたネ。高齢化すると、その方面の感覚も鈍るらしく、「たくさん食べると胃の具合が悪くなるので少しずつ食べる」というふうに申しておりましたが、なるほど、副作用は如実に出ています。そこで、年齢から鑑みて「無治療」という方針で観察通院にしました。doctorのハナシではそういう方も高齢者ではけっこうあるとのことでした(ネットresearchでは六十五歳あたりで18%ですから八十八となると、これはもう天寿完うか、癌死だかワカリマセン。よって、緩和ケアを睨んでのQOLとなります。
で、まず、私がdoctorにした質問は「無治療(この場合、ただ放っておくというのとも少々チガウのですが)にすると、固形物が食べられるのはどれくらいの期間でしょうか」です。doctorの応えは「半年くらいですね」ということで、たしかに、半年はふつうに食事をしておりましたが、次第に流動物、固形といえばトマトやバナナが食べられるといったところでした。月に一度の通院は私と弟の二人か弟だけが付き添ってでしたが、ほぼ一年の通院は、ご当人様は杖ナシで歩いてました。それどころか、診察の待ち時間に、足踏み運動をやってました。これ、一日に千歩(そんなに激しいものでなく、軽くつまさきの踏み卸し程度なんですけど)するといってました。
私は施設入居を検討して、すすめたのですが、「施設に入るくらいなら死んだほうがマシだ」と、この「施設」というimageをいやがりましたネ。ですから「死んだほうがマシって、あんた死ぬんやけどな」と宥めすかして、まあ、一応専門業者のほうにいざ入居となったらすぐにでも出来るように準備はしましたが。この業者さんは懇切丁寧でした。感謝しております。
そこで、在宅医療ということになったワケですが、要支援から要介護にレベルが上がったあたりですか、在宅診療(訪問医療ですナ。むかしでいう往診というアレが月二回)と訪問看護(週三回)と、毎日のヘルパーさん(買い物と掃除)は安否確認のために頼みましたが、私は名古屋、弟は京都、ご当人様は滋賀の大津ですから、時間的には、通勤時間圏内ではあっても(私の場合で約100分)毎日通うワケには行きませんので、そのための最低限の介護方針でござんす。(ケアマネージャーが私のことを長男さん、弟を次男さんと呼称するのは最初戸惑いましたネ。けしてお兄さん、弟さんとはいわないんですナ)。
で、この辺りからがjet coasterとなります。高齢者の癌はこれがスゴイ。口腔癌ですから、口腔内から腫れと出血が始まりました。これも滋賀医大の口腔外科doctorから予め聴いていたとおりで、(出血を止める方法は無いということ、次第に量も増えるということ、痛みは増すということ、と、聴いておりました)。訪問診療のdoctorは優秀な方でした。専門が血管外科でしたので、カテーテルを用いた方法で、出血がなんとかならないかと、医大のdoctorにお訊ねになった矢先のこと、ちょうど私、帰宅していまして(この頃は週に二回ほど新幹線です)、目前で昼の出血とやらを目にしました。(ちょっと馬から落馬みたいな書き方ですけど)。血液の量そのものには驚きませんでしたが(とはいえ、中ジョッキ程度のプラ容器に四分の一)「これが夜中に三回、一時間ちょっとつづくねん。突然やから、肩掛けしてる間がのうて、寒うてな」どころやナイつうねん。これは、もう独りの力ではどうにもならんと、急遽、業者さんに、二十四時間看護師付属の施設を近辺に探してもらったんですが、じゃあ、ここにしようなんて話しているうちに、私、東京に仕事で、ホテル泊まりの朝、訪問看護の看護師さんから「救急搬送します」の電話です。訪問診療の医師の指示で医大病院のほうへQQ搬送されまして、そこで、東京での二日の仕事を終えて、即、病院。貧血による輸血治療ということで、なんとかまだ流動物はストローで食べられてましたが、これは、あくまで救急搬送の貧血による失血性心不全の抑止のための治療だとおもわれます。ガン患者に輸血は基本、いたしません。
で、医大doctorとsocial workerから、別病院の緩和病棟のベッドが空いたら、すぐに緩和ケアをということで、そうなったんですが、要するに母親が次に家に帰ったときは、ご遺体としての安置ということになります。
一週間ほど医大のほうにいましたが、市民病院の緩和ケア病棟ベッドが空いたので、そこに入院。このときもまだストロー飲食はベッドに腰掛けながら出来ていたんです。ただ、むかしのヒトなもんですから、看護師さんに「痛いですか」と訪ねられても「痛い」とはいわない。これは訪問医療のときもそうでした。痛いのは我慢せなナランという躾けをされてますからネエ。で、私が耳もとで「痛いんやろ」と訊ねると、首を縦にコクンと肯定する。看護師さんに、鎮痛剤は何を使ってますかと訊くと、朝夕は〇〇、これはオピオイド(モルヒネのような鎮痛剤)だとわかりましたが、昼はアセトアミノフェンを600㎎、「そんなもん、効きませんよ、1500㎎ぐらいじゃないと。すぐにオピオイドにして下さい」と、お願いしまして、そうしましたら、痛みも治まったのか、すっと眠りました。もうこのあたりからストロー食事も、吸う力なく、水は飲めました。
「ああ、美味しい、ああ、美味しい」と、飲みましたので、ああ、これが末期の水になるなあと、私、覚悟しました。
で、翌週来院したところの容態で、これは今週中かな、で、三日後来院したところで、これは今日明日だな、で、準備に名古屋にとって返しているあいだに、亡くなりました。最期はスマホをスピーカーにしてもらって、弟が看取る中、こちらは声をかけて名前をよんでみたりしましたが、一度は頷いたそうです。
芝居なんかしてますと、親の/死に目/に逢えるのはluckyなようで、私は両親とも死に目とは縁がありませんでした。べつにそれが不幸だとはまったくおもってはいませんが。

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