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2020年1月

2020年1月 9日 (木)

港町memory 75

そんな急に自分のendingが来るとは誰もおもっていやしません。(endingと weddingなんとなく似ている語呂節目)母親もエンデイング・ノートという(主婦の友・出版)をちょっと書き始めたようですが、その後はパッドでのゲームに熱中して、どこも中途半端にしか書き込まれておらず、通夜、告別式への知己、親戚、友人への連絡をとるのに一苦労。
ところで、このノートには「人生で苦労したこと」という、奇妙な欄があって、奇妙というのは、人生なんて苦労以外の何があるのかと、私なんかはおもうワケですから、これはまるで「馬に乗馬したことがあること」と同じじゃないかと・・・まあ、そこんところに「我慢の一生」とだけ記されていました。弟にそれをみせたところ、弟は微苦笑、その後、兄弟で声に出して笑いました。不謹慎ですが、どういうワケか、私にも弟にとってもオモシロかったのです。
もし〈愛情〉というものの発現を、ある種の〈甘え〉として捉えるならば、あいにく私たち兄弟には母親に対してそういった記憶がなく、私は名古屋へ、弟は京都へと、~母を見捨てて波越えていく~(『蒙古放浪の歌』)と、家というもの両親というものから逃走したワケですから、母親に兄弟そろって会うのは一ヶ月に一回、月末にしゃぶしゃぶ食うときだけで、ただ黙々と牛肉を食い、その肉の量が、最初は900グラムだったのが、加齢とともに減り始め、500グラムになってしまったのが年輪というものでしょうか。料理の出来ない母でしたから、翌日は昼食にウナギを食って、ちょうど父親の死んだときからこれが八年ばかりつづきましたか。漬け物だけは上手だったと記しておきますが、糠漬けは出来たという程度のものです。食い残しの饅頭まで糠床に放り込んでかき回すという、おそらく何処にもナイ糠漬け(滋賀ではドボ漬けという)でした。
さて、母親がナニに「我慢」していたのか、私なりにちょいと粘着してかんがえましたが、思いあたるところは、父親のワガママ(もしくは暴力)しかなく、そんなことはどこのどんな家庭でもありがちなことですから、特に書き留めておくほどのことでもなく、母親自身も師範学校を出てから小学校低学年の教諭をしていましたから、ともかく家庭さへ離れれば〈威張れる〉ワケで、中元、お歳暮などは床の間の天井まで届きそうなくらいで、当時ガッコのセンセというのはほんとうに「先生」でしたから、「せんせ、センセ」とヨイショされて、要するに自分によくしてくれるひとは善人、気に入らぬひとは悪人という物差しが母親の計測器で、これはいわゆるワガママというもので、我慢がさて、何処にあったのか、うむうむ、とかんがえますにこれは我慢ではなく「不満」ではなかったのか、そうすると合点がいく。理解が納得する。「不満の人生」、なるほど、そりゃそうです。おもいどおりにいく人生ならシッダールタは悩まず、仏陀にならなかったでしょう。この世が大きな罪業にあふれているのは「神の罪はこれほどに大きい、おまえらヒトの罪など知れたものだ」という、キリスト教paradoxな救いでござんす。かつて芥川龍之介は「全能の神に出来ぬことは自殺だ」と書きましたが(『侏儒の言葉』)、もう一ついうなら「神に出来ぬことは〈悔い改めること〉」でありましょう。こりゃあ、出来ませんです。
私は両親のdomestic violence、弟は幼い頃から祖母の親戚へと預けられて、家庭(家族)の愛(というものがあるのならそうだろう)を知りません。
ですから「我慢の人生」の一筆を笑ったのだとおもいます。
死者に鞭打つようなことを書きましたが、ともかく、この混沌、錯綜の深層心理、潜在に句切りをつけねば疲れがとれませんゆえ、まあ、身内のこと、と、こんどは読者諸氏が笑いたまえ清めたまえ、でござんす。
私が唯一、母に驚嘆するのは、母には信仰がなかったことです。写経千枚も、PCのゲームに移ってからはそれで気分が落ち着くので、それまでの朝の読経もヤメ。どれも同じようなものだったようですし、(だいたい浄土真宗の仏教婦人会・・これはもう近所づきあい・・てなものに入っていながら『般若心経』を写経とは)信仰もへったくれもあったものではなく、ただもう自慢のタネの一つとなってしまいました。
死の一ヶ月前くらいから、「せんせ還り」を認知症の代わりに起こしていたようで、ケアマネさんやらヘルパーさんたちを前に、学校ゴッコをやったりしました。その頃の自分が最も好きな自分だったのでしょう。「あのケアマネは私が育てた」と臆面なく固有の倫理の押しつけを自慢しておりました。
「あんさんなあ、誰の世話になってんのか、よおう、かんがえてから、まわりのひと(ヘルパーさんやケアマネさん)を罵倒するクセをなんとか反省しなはれ」私が晩年の母に対して叱ったのはこいつと「ヒトのハナシは最後まで聞いてから、自分のいいたいことをいうようにせなあきまへんで」です。
母、最なる反面教師ではありました。未だ喪はあけませんが冥途の道すがら、「こんな暗い途、こんな歩きにくい草履、こんな、もう死んだらもうちょっと楽になるとおもてたのに、冥途は我慢と今度は書いたろ」と文句たらたらでありましょう。

2020年1月 8日 (水)

港町memory 74

身近なヒトの死というものは、自然にdocumentaryになってしまうのかも知れません。
母親が口腔癌と診断されたのは、一昨年の十一月で、そのときから滋賀医大の口腔外科に月一回の通院が始まったのですが、当初の当初は二年ほど前、町の開業歯科医からの紹介状を持っての受診でした。この初診時はまだ診断がつかず、一年ほどの様子(観察治療)を経ての、決定診断でした。
その時点において、母親の年齢は八十八歳でしたから、抗ガン剤の効果は期待出来ません。鼻腔部分も削り取るという手術は体力的に無理(部位が顔面になりますから予後が厳しいだろうナ、ですナ)、と、私が判断しました。このときは、ネットで口腔癌などのガン治療を調べてみて、/七十五歳以上の高齢者には抗ガン剤は効果がなく、副作用による体力、心身の影響はみられる/、というresearch結果(国立がん研究センター)でしたが、とりあえず一ヶ月は抗ガン剤の投与は試みてみました。たしかに、少量からでしたので副作用は強くはありませんが、あるにはありましたネ。高齢化すると、その方面の感覚も鈍るらしく、「たくさん食べると胃の具合が悪くなるので少しずつ食べる」というふうに申しておりましたが、なるほど、副作用は如実に出ています。そこで、年齢から鑑みて「無治療」という方針で観察通院にしました。doctorのハナシではそういう方も高齢者ではけっこうあるとのことでした(ネットresearchでは六十五歳あたりで18%ですから八十八となると、これはもう天寿完うか、癌死だかワカリマセン。よって、緩和ケアを睨んでのQOLとなります。
で、まず、私がdoctorにした質問は「無治療(この場合、ただ放っておくというのとも少々チガウのですが)にすると、固形物が食べられるのはどれくらいの期間でしょうか」です。doctorの応えは「半年くらいですね」ということで、たしかに、半年はふつうに食事をしておりましたが、次第に流動物、固形といえばトマトやバナナが食べられるといったところでした。月に一度の通院は私と弟の二人か弟だけが付き添ってでしたが、ほぼ一年の通院は、ご当人様は杖ナシで歩いてました。それどころか、診察の待ち時間に、足踏み運動をやってました。これ、一日に千歩(そんなに激しいものでなく、軽くつまさきの踏み卸し程度なんですけど)するといってました。
私は施設入居を検討して、すすめたのですが、「施設に入るくらいなら死んだほうがマシだ」と、この「施設」というimageをいやがりましたネ。ですから「死んだほうがマシって、あんた死ぬんやけどな」と宥めすかして、まあ、一応専門業者のほうにいざ入居となったらすぐにでも出来るように準備はしましたが。この業者さんは懇切丁寧でした。感謝しております。
そこで、在宅医療ということになったワケですが、要支援から要介護にレベルが上がったあたりですか、在宅診療(訪問医療ですナ。むかしでいう往診というアレが月二回)と訪問看護(週三回)と、毎日のヘルパーさん(買い物と掃除)は安否確認のために頼みましたが、私は名古屋、弟は京都、ご当人様は滋賀の大津ですから、時間的には、通勤時間圏内ではあっても(私の場合で約100分)毎日通うワケには行きませんので、そのための最低限の介護方針でござんす。(ケアマネージャーが私のことを長男さん、弟を次男さんと呼称するのは最初戸惑いましたネ。けしてお兄さん、弟さんとはいわないんですナ)。
で、この辺りからがjet coasterとなります。高齢者の癌はこれがスゴイ。口腔癌ですから、口腔内から腫れと出血が始まりました。これも滋賀医大の口腔外科doctorから予め聴いていたとおりで、(出血を止める方法は無いということ、次第に量も増えるということ、痛みは増すということ、と、聴いておりました)。訪問診療のdoctorは優秀な方でした。専門が血管外科でしたので、カテーテルを用いた方法で、出血がなんとかならないかと、医大のdoctorにお訊ねになった矢先のこと、ちょうど私、帰宅していまして(この頃は週に二回ほど新幹線です)、目前で昼の出血とやらを目にしました。(ちょっと馬から落馬みたいな書き方ですけど)。血液の量そのものには驚きませんでしたが(とはいえ、中ジョッキ程度のプラ容器に四分の一)「これが夜中に三回、一時間ちょっとつづくねん。突然やから、肩掛けしてる間がのうて、寒うてな」どころやナイつうねん。これは、もう独りの力ではどうにもならんと、急遽、業者さんに、二十四時間看護師付属の施設を近辺に探してもらったんですが、じゃあ、ここにしようなんて話しているうちに、私、東京に仕事で、ホテル泊まりの朝、訪問看護の看護師さんから「救急搬送します」の電話です。訪問診療の医師の指示で医大病院のほうへQQ搬送されまして、そこで、東京での二日の仕事を終えて、即、病院。貧血による輸血治療ということで、なんとかまだ流動物はストローで食べられてましたが、これは、あくまで救急搬送の貧血による失血性心不全の抑止のための治療だとおもわれます。ガン患者に輸血は基本、いたしません。
で、医大doctorとsocial workerから、別病院の緩和病棟のベッドが空いたら、すぐに緩和ケアをということで、そうなったんですが、要するに母親が次に家に帰ったときは、ご遺体としての安置ということになります。
一週間ほど医大のほうにいましたが、市民病院の緩和ケア病棟ベッドが空いたので、そこに入院。このときもまだストロー飲食はベッドに腰掛けながら出来ていたんです。ただ、むかしのヒトなもんですから、看護師さんに「痛いですか」と訪ねられても「痛い」とはいわない。これは訪問医療のときもそうでした。痛いのは我慢せなナランという躾けをされてますからネエ。で、私が耳もとで「痛いんやろ」と訊ねると、首を縦にコクンと肯定する。看護師さんに、鎮痛剤は何を使ってますかと訊くと、朝夕は〇〇、これはオピオイド(モルヒネのような鎮痛剤)だとわかりましたが、昼はアセトアミノフェンを600㎎、「そんなもん、効きませんよ、1500㎎ぐらいじゃないと。すぐにオピオイドにして下さい」と、お願いしまして、そうしましたら、痛みも治まったのか、すっと眠りました。もうこのあたりからストロー食事も、吸う力なく、水は飲めました。
「ああ、美味しい、ああ、美味しい」と、飲みましたので、ああ、これが末期の水になるなあと、私、覚悟しました。
で、翌週来院したところの容態で、これは今週中かな、で、三日後来院したところで、これは今日明日だな、で、準備に名古屋にとって返しているあいだに、亡くなりました。最期はスマホをスピーカーにしてもらって、弟が看取る中、こちらは声をかけて名前をよんでみたりしましたが、一度は頷いたそうです。
芝居なんかしてますと、親の/死に目/に逢えるのはluckyなようで、私は両親とも死に目とは縁がありませんでした。べつにそれが不幸だとはまったくおもってはいませんが。

2020年1月 6日 (月)

港町memory 73

親鸞の教え、「念仏一声、往生極楽」は(親鸞本人の)予想をはるかに上回って下層階級(ここでは公家や武家以外の農民、百姓)に浸透したばかりか、これが、一種の階級闘争となっていくという観方が、マルクス主義歴史論者の理屈でありましょう。
たしかに、/死んだら往生/は、ある種の/怖いもんナシ/の心情となったことにマチガイはアリマセン。つまり、いうところの「一向一揆」は、一度ならず何度も起こっていて、応仁の乱を挟んでもかなりの盛り上がりをみせております。浄土真宗は蓮如の頃は通称一向宗と称され、向かうところが一つなら、武士も坊主も百姓もおんなじやナイケ、と相成ります。しかし、歴史とは皮肉なもので、このあたりから下克上というアレ、社会科で習いましたなあ、アレが、戦国時代を形勢し、戦国大名の台頭も始まるワケでござんして、呉越同舟が如き寄り合い所帯のニワカ連合は、それぞれのおもうところがケッキョクはバラバラだったためにまとまりがつかなくなってきます。坊主は武家を武家は坊主を互いに利用せんとしていたのですが、さらにここに商人という銭儲けの衆がからんで参りますに、次第に烏合の衆と様変わりして参ります。そうなりますと、明日の敵は今日の友、階級闘争は権力闘争へと変貌を余儀なくされます。
この混迷と錯乱を最も敏に畏れ、天下統一の障壁となると見抜いたのが織田信長だったようです。(ようです、と曖昧にいいますのは、他にもそりゃあ、いたでしょうけど、防御制圧したのが信長だからです)。信長は延暦寺に火を放ちます。僧兵なんてのがいましたからねえ。延暦寺から敵視されて蹴っ飛ばされていた本願寺派の蓮如などは、ここぞ幸いとばかりに布教活動に専念して、みごと浄土真宗中興の祖となるんですな。
階級闘争も権力闘争の前には力不足の感、否めず、信長も歴史の運命には逆らえず(本能寺の変)要するに、なんでんな、今日の浄土真宗が顕在するのは血で血を洗う争闘の結果ともいえるワケです。(それが悪いというワケではなく、宗教というものは必ずそういった一面を持つということです。蓮如上人は彼なりに、戦には反対していましたから)。
私の無知なる意見を付け加えさせて頂くと、一向一揆を含むいわゆる戦国時代の戦争は、ふつうかんがえられているクラウゼヴィッツの「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(『戦争論』)の兵力戦というよりも、「総力戦」(軍事以外もあらゆる分野を総動員して行う戦争)であり、勝利者が国家であるとは限らない(坊主の宗派の檀家拡大とかネ)、に、近いのではないかと、そんな雰囲気ですナ。
一向一揆のresearchを終わります。

2020年1月 5日 (日)

港町memory 72

冥途の旅はあったほうがイイとおもっております。極楽浄土なんてのはキリスト教のパライソ(ポルトガル語のParaíso、 パラダイスparadise、天国・楽園を意味するキリシタン用語)と同じですから、あるのかないのかどうでもヨロシイ(教派によっては、行けない御仁もあるようでして)、そこへいくと浄土系は阿弥陀如来の浄土へと行くワケですが、これはもう南無阿弥陀仏の一発(一声)で誰でも行けるというふうに親鸞上人が法然浄土仏教をさらに解体してしまったワケです。仏教の始祖釈迦牟尼は、そういうものは「霊魂不説」と退けられております。私のように名古屋駅前で、名も知らぬ教派の少女から一応、洗礼のようなものを授けられ、その後、釈迦の思想に共感、共鳴しているものにしてみれば、ニーチェのいうように、キリスト教徒はイエス・キリストただ独りのというのが納得がいきます。要するに『自燈明』。キリスト教もアトは要するにアトからの物語で、聖書(Bible)もまた、初代法王(十二人の弟子の中のペテロ)が適宜つぎはぎしたものですので、矛盾だらけなのはアタリマエ。(だからダメだといっているのではアリマセン。いいコトバもたくさんあります)。
浄土系は修行がありませんから、菩薩という存在を認めないので(どうも地蔵菩薩は別扱いらしいんですが)『般若心経』も読経しません。私はこのブログで何度も書いておりますように、仏教経典は『般若心経』と『妙法蓮華経』『維摩経』の三つが在ればそれてヨロシイとかんがえている衆生でござんすから、母親の祭壇の前では、朝、夕『般若心経』の前半あたりまでをあげておりました。(後半部分は宣伝文句ですから必要ありません)最後にギャーテエーうんちゃらなんていってそんで終り。
『法華経』は仏典の中でも革命(社会改革)の思想書ですから、北一輝や石原莞爾、さらには宮澤賢治などが傾倒したのはアタリマエです。
ところで、一向一揆は浄土系の革命闘争なんですが、何故、浄土系にそんなことが起こったのか、これは今年、調べてみます。
それはともかく冥途の旅はあったほうがイイ。四十九日の歩き旅なんてのは、なかなか現世では出来ません。ガイドブックすらございません。これこそが死んでからの(現世を離れてからの)唯一の愉しみでござんしょう。もちろんお釈迦様はそんな旅なんざ、露ほども口にはされておりませんが。
親鸞上人にしてみましても、かの「面々のお計らい」というコトバはだいぶんに誤解されて伝わってしまっているようで、私の解釈ではこれは釈迦がアーナンダに遺したコトバ、いわゆる遺言(いごん)の『自燈明』に該るとかんがえているのですが、どうも「かってにしろ」とおもわれているようです。かってにすればイイんですけど。
蛇足ですが、『教誨師』(きょうかいし・2018年制作、日本映画。死刑囚と対話する教誨師を主人公にしたドラマ映画。大杉漣の最後の主演映画で、大杉はエグゼクティブ・プロデューサーも務めている)をDVDで観ました。いうなれば、ルイス・ブニュエルの『ナサリン』の日本版です。海外映画(洋画)ですと、こういうものもスンナリとくるんですが、どうも、お国柄、じゅうぶんに感涙するんですが、「ツクリ」が目につきます。コトバを変えていうと、ハナからハナシがワカッテしまう。いや、それでも、じゅうぶんにハートフルではありますよ。

2020年1月 2日 (木)

謹告

令和元年十二月二十五日16:35、実母、北村雛子、大津市市民病院緩和ケア病棟にて、永眠いたしまた。
同月二十八日告別式をすませました。(法名 常照院釋華眞)
生物学的に申しますと、人間最期の任務を終えました(死ぬということは遺伝子を消去して、後の種の大絶滅を防ぐことですので)。
物理学的に申しますと、ニュートン力学的世界(自然)での存在を、本質的自然(量子力学的自然)へと還元したことになります。
現在、彼女の波動はインコヒーレント(混合状態)となっておりますが、いずれ、散逸構造論に従うならば、コヒーレント(純粋状態)となり、再び状態ベクトル(波の重ね合わせ)を生じて、先逝された皆様方と邂逅することでありましょう。

生前の皆さま方の献身的なる扶助、ご厚情には、ここに深く感謝と畏敬の念をこめてお礼申し上げます。

釈迦牟尼は乞食(こつじき・いまでいう托鉢)のさいの布施(米や野菜、食の残り物、このときは雑炊でした)による毒茸の食中毒で亡くなり、イエス・キリストはゴルゴタの丘で磔刑となりました。偉い先人のかくなる悲惨な最期に比して、北村雛子はまだまだ真っ当、かつ完うなる去り方でありました。
真宗門徒でありますので、今頃は、阿弥陀如来の導きで、浄土への旅を愉しんでいることとおもいます。

再度ここに、みなさま方には、ただただ御礼を申し上げる次第でございます。
ありがとうございました。合掌


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