港町memory 65
映画『人魚の眠る家』(原作:東野圭吾『人魚の眠る家』(幻冬舎文庫)監督:堤幸彦、脚本:篠崎絵里子)は、「死と生の境界線をどうするか」いい方を変えれば、何処に引くか。誰が引くかというテーマの映画ですが、一応エンタメですから、そういうふうに観ないと勘違いしてしまいます。もちろん、堤監督はヒューマニストでもありますから、出来は満点といってイイ。
とはいえ、サービスが多すぎる。脳神経外科の医者で瑞穂(主人公の娘)の主治医が「彼女の心臓はいまも誰かの中で生きている(だったかな)」というお約束のせりふをいうんですが、これ、タナテツ(田中哲司)さんがいうんですが、これはスンマセン、笑いました(ほんとうにスンマセン。私、タナテツさんのファンですし、それまでは、感動しながら観ていたのです。thrillingだなあとおもいながら見入っていました)。
私なんざ、愚考のものですので、「脳死」などというものが人間の死ではナイということを、あらんことか、はるかなむかし『ドグラ・マグラ』(夢野久作)で学習しているもんで、さらにそのアト『心的現象論(序説・本論)』(吉本隆明)でもお勉強したんですけど、まあ、それはそれとして、生と死の境界はいまでも決定されていません。何をもってひとが生きているか死んでいるかを判断しているものは、/医師の書く死亡診断書/だということを養老センセイも仰ってますし、葬儀請け負い会社が働き始めるのは、医師の死亡判定後です。医師の死亡時間通告がstartになるそうです。ここから、死体搬送、安置、通夜・・・とつづくんですが、病院の死体安置室からそのまま火葬場に持っていくようなことはできない。死亡通告時間から三十六時間は火葬してはいけないという法律があります。通夜というのは、死者の蘇生の用心のためにいにしえの人々の考えた儀式で、実際、通夜で棺桶の蓋が死者によって開けられたことは事実として記録に残っています。
臨終のさい、五人に一人の割合でヒトは幻覚・幻視を観るそうです(この統計はワリと確かなものですから、それなりの正当な機関、たとえばWHOクラスの統計でしょう)。いわゆる〈お迎え〉というものですが、このまえ、私の戯曲の弟子で、緩和ケアもやっている精神科医とハナシをしたところ、たしかにそういうことはあって、その作用もワカラナイのだけれど、もっと不思議なことは、そういった場合の幻覚・幻視が、精神疾患者の観る幻覚・幻視とはまったくチガウモノだということだ、ということでした。どこがチガウのか、彼もうまくは表現出来なかったのですが、「外に観ているというのではなく、何か内から出てくるものを観ているような」と、その辺りまでしかワカラナイが、臨終の方にはたしかに観えているものであり、それが脳作用だとしても、脳のどの部分がどんな仕事をしているのかも不明だそうです。
『人魚の眠る家』では、ラストシーン近く、脳死していた女の子(主人公の娘)が目を覚ますのですが、これは映画では主人公の夢として扱われていますが、実際、現実、そういったことは在るのだそうです。これまた現状脳科学では明かしきれない謎のひとつです。
さて、①自発呼吸の停止、②心拍停止、③瞳孔が開く、の「三徴候の死」を私は人間の〈ニュートン力学的存在の終焉〉と、かってに名付けています。次回はやっとのことひょっとこ、この辺りに迫ります。
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