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2019年12月 8日 (日)

港町memory 64

と、その妄想の前に、ちょいと現実にもどりますが、あちこち飛んでも「何を」かんがえなければならないのか、ということだけは頭痛にハッキリ(古いネタ過ぎ)させておきましょう。
「人間は死にます。必ず」では、何故「必ず、死ぬのでしょう」これが一つ。
「生きることに意味や意義がある」とします(これは仮にでもよろしい)。では「死ぬことに意味や意義があるのだろうか」と(自問でイイのですが)逆視(ややparadoxに)してみます。これが一つ。
もしも「死ぬことに意味や意義がある」のならば、人間は胸を張って死んでもイイのです。だったら、ここをもっと積極的に攻めてみましょう。「人間は死なねばならないのだ」というふうにです。「死なねばならないので、必ず死ぬ」と、こういう積極的なある意味「死の定義」は可能でしょうか。
可能だと自答します。
「人間が死なないもの」(自然死においてですが)だとするとどうなるんでしょう。人口は増え続けます。当然です。死に方には「壊死(外傷、事故死)」と「自然死」があります。「死なない」とはいえ、首をチョン切られたら死にますから「壊死」なら死ぬのですが、「自然死」では死なないとなると、どんどん増えます。増え続ければ食料が不足して、「壊死」が増えます。水や食料の奪い合いによる殺し合いになるということです。いまだって戦争の何割かはその理由の根源はこれでしょう(「資源争奪」なんていうちょりますが)。
もう一つ、「コシカリ的絶滅」の危機があります。米の種類のコシヒカリ、美味えなぁってんで、あっちもこっちも全国の田圃中にコシヒカリを育成させていたら、あるとき、コシヒカリには致命的な環境(気象情況)がヤッてきたとすると、コシヒカリはほぼ全滅してしまいます。米を食えなくなるということです。飢饉ですな。飢え死にでござんす。
人間にも同じことが起こります。「(自然に)死なない」となると、同じ生殖遺伝子をもった種が増え続けます。で、コシヒカリ的にその種に致命的な環境、情況がヤってきたら(地球の気候などがそうなったら、あるいは、新種のバクテリアが出現したら、あるいは基本的な免疫力は自然に減衰しますから・・・それを理由に近親婚には法的規制があるのです)。人間はやがて間違いなく大量絶滅します。カンブリア紀などに大量絶滅をもたらせた原因もこの辺りにあったのではないかという説もあります。
つまり「(自然死で)死なねえとなると、人間には、種として一挙に壊滅する事態が待っている」ことになります。
そうすると、「死ぬ」ということは、人間の自然の営為としての〈最後の仕事・任務・務め〉ということがいえます。
これが意味ある「死の定義」です。「死なねばならない」の答えです。
これは拡大解釈されると危険思想にも結びつけることが出来ます(自爆、特攻など)。ですから、「死なねばならない」という最後の任務は、たった独りで人類全ての種を救うことを目的とする、これこそ世のためひとのための、自然の営為による畏敬すべきヒトの最期の仕事、任務であるということは、ハッキリさせておくべきです。
完(まっと)うすればイイのです。「死」は忌み嫌われるものではなく、固有の全てに公平に与えられた称賛されるべきものです。とはいえ、これはほんとうに思想主義的にヤバい利用をされるからなあ、で、難しいことは難しいです。

私は「死」を「ニュートン力学的存在の終焉」とかってにそう称してますが、次回はその妄想についてふれることにします。

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