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2019年12月17日 (火)

港町memory 67

ここからは、私が遺書(遺すことば)のsub textとして記したものに、出来るだけの解説などを加筆したものです。難しいというより、それは不慣れなだけなんですが、ブログですからちょっとずつ参りましょう。
ここでは、ヒトは死んでしまったアト(生存という実体の消滅したアト・私のコトバでいうと「ニュートン力学的存在の終焉」のアト)どうなるのか、私の考え(仮説)を記しておきます。


告別・別記(sub text)
~人間という存在、死とはどういうものかについての私的考察~

ひとの死は自然現象である。生まれて死ぬことはまったきの自然、の、ように私たちにはみえる。(認識している、というふうにもいえます)。しかし、ほんとうにそうだろうか。これが私のようなヘソマガリ或いはアスペルガーな資質の疑問の始まり。
それはただ、そう思い込んでいるだけではないのか。果たして私たちのみているものは、ほんとうにほんとうの自然なのだろうか。宮澤賢治が作品中で「ほんとうの」を多用したのは、野山を歩いていて、「ワケがワカラナイけど、何かちがう自然に巡り逢うことがあり、なにか自然には自然に隠された「ほんとうの」ナニかが在るのではないかと、直感したのではナイだろか。

そうして、それに応えてくれたのが私の場合は量子力学であったワケでやんす。

/〈自然〉とは、私たちがみているとおり、おもっているとおりのモノではナイ/
量子力学が私たちに教えるものは、そういうdrastic(抜本的、果敢)な自然です。

前提として、この世界(宇宙)には
〇重力
〇電磁気力
〇核力
があります。いわゆる宇宙の「四つの力」です。電磁気力は、電力と磁力が同じものだということがワカッテ、こう呼ばれるようになりました。双方とも電荷(+・-)を持っています。電荷というのは、その名の通り電気のお荷物。+と-ですから逆方向のナニかです。だいたい、量子力学には、この「ナニか」はよく出てきます。ワカンナイけどナニかです。カント哲学では、これを先験的(経験以前の存在)なんてふうに表しています。このナニかが流れると電流と呼ばれ、収斂、集まると、電場と呼ばれたりします。磁力の場合も同じです(電磁場)。ですからプラスとかマイナスとかは便宜上人間の付けたコトバ、名称でしかアリマセンが、そう称して差し支えはアリマセン。いうなれば、普遍的名称ですナ。
さらにもう一つヒトが創った(といいますか発見した)世界があります。ニュートン力学的世界です。最初の三つ(四つ)は量子力学のcategory、もう一つはニュートン力学のcategoryです。この二つcategory(領域)が混在しているために、この〈世界〉は理解出来にくいのです。また、これは先述したように、『維摩経』の不二法門(ふにほうもん)のかんがえ、ともいえます。
さらにさらにいうと、世界は自然であるはずなのに、ヒトだけが、自然ともう一つ非自然を両有しています。自然でナイモノでも在るのです。ヒトは、その二つが重なりつつ存在するために、生きにくいのです。(たとえば、「生病老死」は自然のものなのですが、ヒトにとってはこれは苦しみになります)。

重力、電磁力、核力、は前述のごとく量子力学の領域ですが、私たち(physical、mental)の構成最少単位(最小energy)でもあります。
であるのに、私たちヒトは日常的にはニュートン力学の存在(energy)としてしか生きられません。量子力学の世界に突如として現出したニュートン力学的存在、それが私や私たちの世界(自然)なのですが、なんでまた、そんなものが現れたのか、これはワカラナイ。ワカラナイけれどもまったくチガウ(ですから、どうもこの自然はアヤシイとおもってイイのではナイか)。
では、このへんからかんがえていきましょう。

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