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2019年12月22日 (日)

港町memory 71

ヒトの死にもどります。
/ヒトの死とはヒトにおける量子としての波動が純粋状態から混合状態に相転移することです/
つまり、波の重ね合わせが起こらないので、状態ベクトルによる波束の収縮がナイということです。これは確率として作用素の発現することが無いということです。つまりは量子がヒトの生としての活動を休止、停止、している状態です。
しかし、
/量子は時間という質や量を伴った存在ではありません/
時間はあくまでニュートン力学的世界での便宜上の概念(自然といってもいいのですが)で、量子力学的世界(自然)おいては、存在しません。ですから宇宙の年齢やら、開闢後の数万分の1秒に何が起こったかなどという時間は問題になりません。ところが、
/私たちヒトは日常的(生活習慣)にはニュートン力学の(~に影響を受ける)存在としてしか生きられません。量子力学の世界にナンデカワカラヘンネンけど、突如として現出したニュートン力学的存在、それが私や私たちの世界なのです/
この本質的に(せよ、現象的にせよ)矛盾した存在、それが私たちなのです。これはアリストテレスもプラトンも喫驚(びっくり)の世界(自然)です。つまりですな、うどん粉で饅頭をつくったようなものですから。それならまだ出来そうですが、フランスパンの刺身のようなもの、ゴボウ茶飲んだら天然痘が完治したようなもの、結核患者さんでも走れるマラソンコースが出来たような・・・、のようなもの、です。
この二つの世界(自然)での最も大きなチガイは前述した「時間」というシロモノ(いや、もはやキワモノ)です。
〈空〉が相転移した場合、実体(色)には〈時間〉が付加されたようにみえます。時間のナイものが、時間が在るかのようにみえるのです。何故ならニュートン力学的世界でのさまざまなものは、過去→現在→未来へと〈動いて〉いるからです。(諸行無常ですら、時の変遷です)。これを「時間の矢」といいますが、これが私たちにみえている世界(自然)です。
この〈動く〉ということは、量子力学にも在りますが、量子力学の世界においてはニュートン力学のように〈時間〉は存在しません。
たとえばニュートン力学では、自動車の速さと時間によって、到達点までの距離を求めます。到達点までの時間によって速度を求めることも出来ます。もっとも簡単なニュートン力学の誰にでもワカル説明がこれです。ところが、量子力学の場合、量子が動くということは、その三つともが無効になります。三つともというのは、時速というもの、距離(場所)、かかった時間、速度の三つが整わないということです。(よく知られたものに、ハイゼンベルクの不確定性関係、ファインマンの経路積分があります)。コトバを変えていえば、ある一点にある量子が、次に、何処に、どんなふうに、どんな速さで、動くのかが確率でしかワカラナイということです。(かつ、この確率は純粋状態でしか求められません)

重力は、ニュートン力学でも扱われます。そこで、私はかなりおもいきった「とんでも理論」で、次のようにかんがえました。
重力波や重力子が存在することが明瞭でも、容易に発見、測定、検知されないのは、「ディラックの海」の陽電子のように、私たちを含めてこの世界すべてが〈重力〉に満たされている、包み込まれている、もっとdrasticにいえば、私たちが重力そのものだからではナイか。私たちもまた重力ならば、本質的には量子力学的世界(自然)のように「時間」を持つものではナイ。それでも「時間」を感知、知覚、体感してしまうのは、この世界(自然)と私たちの重力の関係に横たわるある種の〈勘違い〉である。そう、カンチガイなのです。でも、何でカンチガイするんでしょうか。もちろん、成長、老化や死があるからです。どうしたってそれは「時の歩み」と文学化されます。
私たちは過去→現在→未来といういわゆる「時間の矢」の現在に在る、というのが私たちの認識(或いは感覚)ですが、この過去→現在→未来という「時間の矢」の現在を貫いて直行するような線を引いてみます。これを私たちの「世界線(四次元時空の中で、ある粒子、物体が動く経路)」だとします。すると私たちが存在しているのはこの世界線上だけで、時間の矢の線上には他の何処にも私たちは在りません。過去や未来といった時間の矢は、私たちの記憶や想像にしか過ぎナイといことです。パラレルワールド(いわゆる多重世界)などはscience fictionなどではよく登場しますが、状態ベクトルで波束の収束が一つである確率の世界(このニュートン力学的世界がそうなんですけど)では、パラレルワールドの存在の可能性はアリマセン。(かといって、そういうのがあるというほうがオモシロイんですけど)。
では、老化はどうして生じるのか。死は何故避けられないのか。
/老化や死は、重力の変貌、変容、転移なのです。あくまでニュートン力学的世界の存在である私たちの自然の出来事/です。世界線上の重力は常にenergyを変化させています。これが、現在が次々と未来や過去になっていくようなカンチガイを私たちに経験させるのです。
純粋状態から混合状態への相転移と、散逸構造のコヒーレントにおける、未知の、本質としての〈自然〉が現行の自然のさらに奥に存在する。ヒトの死(ニュートン力学的世界での存在としての終焉)は、その〈本質自然〉への回帰、旅立ちといえるのではないか。そのために私たちは光子還元でno side(仕切り直し)される。これが物理学(量子力学)で捉えた(かんがえた)ヒトの死です。
さて、本質自然にはどんな〈自然〉が待ち受けているのだろう。
電磁場というものが在るように、重力場も在ります。(もっともその重力ですら、ブラックホールでは消滅するのですが)私たちという波動はそこで新たなコヒーレントを迎えることでしょう。それまでは願わくば「涅槃寂静」といきたいもんです。そうして、胸いっぱいの予感の中にある、先逝したものたちとの再会と邂逅も、波の重ね合わせにおいて、そこで実現すると、そう信じている私です。(了)

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