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2019年12月

2019年12月22日 (日)

港町memory 71

ヒトの死にもどります。
/ヒトの死とはヒトにおける量子としての波動が純粋状態から混合状態に相転移することです/
つまり、波の重ね合わせが起こらないので、状態ベクトルによる波束の収縮がナイということです。これは確率として作用素の発現することが無いということです。つまりは量子がヒトの生としての活動を休止、停止、している状態です。
しかし、
/量子は時間という質や量を伴った存在ではありません/
時間はあくまでニュートン力学的世界での便宜上の概念(自然といってもいいのですが)で、量子力学的世界(自然)おいては、存在しません。ですから宇宙の年齢やら、開闢後の数万分の1秒に何が起こったかなどという時間は問題になりません。ところが、
/私たちヒトは日常的(生活習慣)にはニュートン力学の(~に影響を受ける)存在としてしか生きられません。量子力学の世界にナンデカワカラヘンネンけど、突如として現出したニュートン力学的存在、それが私や私たちの世界なのです/
この本質的に(せよ、現象的にせよ)矛盾した存在、それが私たちなのです。これはアリストテレスもプラトンも喫驚(びっくり)の世界(自然)です。つまりですな、うどん粉で饅頭をつくったようなものですから。それならまだ出来そうですが、フランスパンの刺身のようなもの、ゴボウ茶飲んだら天然痘が完治したようなもの、結核患者さんでも走れるマラソンコースが出来たような・・・、のようなもの、です。
この二つの世界(自然)での最も大きなチガイは前述した「時間」というシロモノ(いや、もはやキワモノ)です。
〈空〉が相転移した場合、実体(色)には〈時間〉が付加されたようにみえます。時間のナイものが、時間が在るかのようにみえるのです。何故ならニュートン力学的世界でのさまざまなものは、過去→現在→未来へと〈動いて〉いるからです。(諸行無常ですら、時の変遷です)。これを「時間の矢」といいますが、これが私たちにみえている世界(自然)です。
この〈動く〉ということは、量子力学にも在りますが、量子力学の世界においてはニュートン力学のように〈時間〉は存在しません。
たとえばニュートン力学では、自動車の速さと時間によって、到達点までの距離を求めます。到達点までの時間によって速度を求めることも出来ます。もっとも簡単なニュートン力学の誰にでもワカル説明がこれです。ところが、量子力学の場合、量子が動くということは、その三つともが無効になります。三つともというのは、時速というもの、距離(場所)、かかった時間、速度の三つが整わないということです。(よく知られたものに、ハイゼンベルクの不確定性関係、ファインマンの経路積分があります)。コトバを変えていえば、ある一点にある量子が、次に、何処に、どんなふうに、どんな速さで、動くのかが確率でしかワカラナイということです。(かつ、この確率は純粋状態でしか求められません)

重力は、ニュートン力学でも扱われます。そこで、私はかなりおもいきった「とんでも理論」で、次のようにかんがえました。
重力波や重力子が存在することが明瞭でも、容易に発見、測定、検知されないのは、「ディラックの海」の陽電子のように、私たちを含めてこの世界すべてが〈重力〉に満たされている、包み込まれている、もっとdrasticにいえば、私たちが重力そのものだからではナイか。私たちもまた重力ならば、本質的には量子力学的世界(自然)のように「時間」を持つものではナイ。それでも「時間」を感知、知覚、体感してしまうのは、この世界(自然)と私たちの重力の関係に横たわるある種の〈勘違い〉である。そう、カンチガイなのです。でも、何でカンチガイするんでしょうか。もちろん、成長、老化や死があるからです。どうしたってそれは「時の歩み」と文学化されます。
私たちは過去→現在→未来といういわゆる「時間の矢」の現在に在る、というのが私たちの認識(或いは感覚)ですが、この過去→現在→未来という「時間の矢」の現在を貫いて直行するような線を引いてみます。これを私たちの「世界線(四次元時空の中で、ある粒子、物体が動く経路)」だとします。すると私たちが存在しているのはこの世界線上だけで、時間の矢の線上には他の何処にも私たちは在りません。過去や未来といった時間の矢は、私たちの記憶や想像にしか過ぎナイといことです。パラレルワールド(いわゆる多重世界)などはscience fictionなどではよく登場しますが、状態ベクトルで波束の収束が一つである確率の世界(このニュートン力学的世界がそうなんですけど)では、パラレルワールドの存在の可能性はアリマセン。(かといって、そういうのがあるというほうがオモシロイんですけど)。
では、老化はどうして生じるのか。死は何故避けられないのか。
/老化や死は、重力の変貌、変容、転移なのです。あくまでニュートン力学的世界の存在である私たちの自然の出来事/です。世界線上の重力は常にenergyを変化させています。これが、現在が次々と未来や過去になっていくようなカンチガイを私たちに経験させるのです。
純粋状態から混合状態への相転移と、散逸構造のコヒーレントにおける、未知の、本質としての〈自然〉が現行の自然のさらに奥に存在する。ヒトの死(ニュートン力学的世界での存在としての終焉)は、その〈本質自然〉への回帰、旅立ちといえるのではないか。そのために私たちは光子還元でno side(仕切り直し)される。これが物理学(量子力学)で捉えた(かんがえた)ヒトの死です。
さて、本質自然にはどんな〈自然〉が待ち受けているのだろう。
電磁場というものが在るように、重力場も在ります。(もっともその重力ですら、ブラックホールでは消滅するのですが)私たちという波動はそこで新たなコヒーレントを迎えることでしょう。それまでは願わくば「涅槃寂静」といきたいもんです。そうして、胸いっぱいの予感の中にある、先逝したものたちとの再会と邂逅も、波の重ね合わせにおいて、そこで実現すると、そう信じている私です。(了)

2019年12月21日 (土)

港町memory 70

(承前)
では、何故、どんなワケアリで〈空〉である量子、の波動は、実体〈色〉に転移、変容するのでしょうか。
それは波動の「状態ベクトル」とイアン・ブリゴジンの学説「散逸構造論」に登場する中心的キーワドの、コヒーレンス、コヒーレントとインコヒーレントに密接な関係がありそうですが、それ以上はいまのところワカリマセン(もちろん、私には、ですが)。むしろ、何故そういったこと(ほんらい量子力学的な世界にニュートン力学的世界が生じたという、ありそうもナイ、まるでillusionなこと)が起こってしまったのか、のほうが私にとっては問題です。
コヒーレンスとコヒーレントの違いについて解釈を入れておきます。
単純にいってしまうと、コトバの上での二つのチガイは、
名詞 coherence コヒーレンス
形容詞 coherent コヒーレント
でしかありません。そこで、もちっとばかりクルクルした脳髄の錯綜を整理整頓、納得させましょう。
/コヒーレンス(Coherence)とは、波の持つ性質の一つで、干渉のしやすさ(干渉縞の鮮明さ)を表す。干渉とは、複数の波を重ね合わせるとき、波が打ち消し合ったり強め合ったりすることをいう。レーザーはコヒーレントだが、太陽光は、その逆、インコヒーレントといえる。コヒーレントな光とは一つの定まった波長をもつ光で、連続的に続いていて光の山と山、谷と谷が一致する規則正しい光のことであり、レーザの光はこのコヒーレント性をもっているが、太陽光のような自然光はこのような性質は持っていない。したがってインコヒーレントな光と呼ばれている/
ということになります。つまり、コヒーレンス(Coherence)とは、波の持つ性質の一つで、干渉のしやすさ(干渉縞の鮮明さ)がたいへんヨロシイということです。

私は以前はコヒーレンスとコヒーレントをそれぞれの逆の意味合いと勘違いしていましたが、その勘違いはさほど論理的に致命的なものではなく、つまりコヒーレンスを純粋状態、コヒーレントを混合状態という位相に置き換えて思考していたのですが、論理(かんがえかた)や用い方としては、あまり破綻はしていないとおもっています。量子の混合状態は散逸構造に従って次第に相転移し、つまり、混合状態コヒーレンスから純粋状態コヒーレントへと生成され、ふたたび「色」と成る、てな、転移の状態を書いたりしていますが、勘違い、マチガイなので、訂正しなくてはならないことは確かです。

ついでに、位相について触れておきます。アナログ時計を思い浮かべます。その時計には短針が無く、長針だけが左回りに動いているとします(もはや時計とはいえないのだけれど、物理学なんてのは、こういうことを平気でヤルんだからナァ)。右側に紙(screenでもいいんだけど)を置き、この時計に左側から光を当てると、右側に置いた紙(screen)に長針の影が映ります。時計の針を左回りにどんどん回転させていくと,紙に映った針の影も上下(波動のよう)に動きます。もっとimageしやすくすると例えば扇風機を回して、その羽根の回転の先端がつくる線をどんどん平面に移して現していくと、波形に書けるということです。
ここで,時計の針が水平方向となす角度θ(シータ、簡単にいえば、針の角度です)と、針の影(screenの波形)がつくる波の上下の動きを比較すると、波の上下の動きは、ちょうど角度θに対応していることがわかります(アタリマエなんですけどね)。この角度θを位相と称します。つまり、波の位相(角度θ)は、周期的に変化する波の状態が1周期進行すると、次の(周期の)段階に移ることを表すものと考えることができるということです。1秒間に繰り返す波の数を周波数、隣同士の山の間隔を周期と呼んでいます。(余談でした)。

レーザーのコヒーレンスには2種類あります。異なる時間にレーザーを出発した光波の干渉に関するものと、同じ時刻に異なる場所を出発した光波の干渉に関するものです。前者が時間コヒーレンスで、後者が空間コヒーレンスです。これも余談ですけど。(つづく)

2019年12月19日 (木)

港町memory 69

(承前)
音(波)の状態を音楽(実体)の状態にするには、音(波)を重ね合わせねばなりせん(たとえば♪ドという音の状態を創らねばなりません)。この波の重ね合わせ(のことを「状態ベクトル」と呼称します)が完全にできるばあいを、量子力学では純粋状態、そうでないばあい(重ね合わせが出来ないか、不十分で波として扱えない場合)は混合状態と称されます。つまり、波の重ね合わせが乱雑な状態です。量子の状態には、そのような二つの状態があります。この事実によって、よく知られた「シュレーディンガーの猫」問題は、量子力学としては解決されています(ドラマなんかではmetaphorとして使われていますが)。「猫」の思考実験は、混合状態での中の特殊な状態ベクトルにおけるもので、未だ波の重ね合わせ、「状態ベクトル」が創り出されてはいないのです。シュレーディンガーの波動方程式(波動関数)では、純粋状態の波の重ね合わせまでは明察出来ます。しかし混合状態から波の重ね合わせを知ろうとするには、「密度行列」という、さらにすすんだ量子力学的方法が使われます。
この「行列式」とハイゼンベルクの「行列式」を混同した(錯綜した)ために、拙著『恋愛的演劇論』の末尾部分は誤謬に陥っています。はたして生きているあいだに訂正出来るかしらん、というふうでござんす。

さて、ヒトの〈死〉についてここで仮説をたてます。
/ヒトの死とは量子力学的には、量子の波動が純粋状態から混合状態に相転移することです/というふうになります。以下にもちっと詳しく説明しますが、ここは一踏ん張り、投げ出さないでおくんなさいまし。
ヒトという実体を波動の作用素とかんがえます。(「作用素」とは外から「入力」を受取り、それに何らかの規則的な変換を行って出力された営為、その結果のことです。量子力学の用語としては、それを「作用素」或いは「演算子」と呼びます。パソコン用語や数式に用いるfunction(操作)と似ていますが、量子力学では、アルゴリズム(「アルゴリズム」というのは、コンピューターで計算を行うときの「計算方法」のことですが、簡単にいえば、何か物事を行うときの「やり方」「plot」のことだ、で、かまいません)が少々異なって、この作用素(物理量)は非可換量-(積の右辺と左辺を交換するとチガッタ答えになってしまうので、交換が出来ないのです)-になります。これも量子力学の特質です。ヒトを作用素として存在するものだとすると、ヒトの量子の状態も純粋状態の状態ベクトルです。波の重なり合いや(波束の収縮)も完全に生じます。ですから、ヒトの死は、この重ね合わせがうまくいかない混合状態(ちょうど蛍光灯の中のような状態-(気体の乱雑な運動のために、波の山や谷の位置・・位相・・がそろわないので干渉は起こらない)-になったものだと仮定します。(という仮説です)。
つまり、ヒトの死とは、「色」が「空」に、実体(純粋状態)が(混合状態)の波動に転化することをいうことになります。こういう転化のことを相転移と称します。
ですから、私が死んでも(実体でなくなっても)波動としては、とりあえずは遺るワケです(ただし、混合状態ですから、状態ベクトル-波の重ね合わせは不整です)。ここで、どのみち仮説なのですから〈意識〉という得体の知れない(のか知れているのかワカランもの)も、何らかの状態(〈相〉或いは〈場〉でもイイとおもうのですが、完全に放散されることがない状態)で遺るとします。意識とは何かということがハッキリとわかっていない現代(現状)なのでかくなる突飛なこともいえるワケです。この場合、遺るというのは、意識というものがニュートン力学・物理学の現象では観測(計測)出来ない、私たちが自然と称しているもののさらに奥にある自然の〈本質〉として遺ることを述べています。(いってみれば、量子力学とは、その自然の本質を探求する学問です)。従って、現存するヒト(実体)とは異なる状態、或いは作用素なので、両者の直截の交信は出来ナイでしょう。宮澤賢治さんは、そういう理由でトシさんと交信出来なかったといえます。とはいえ、私や、死者と称される元ヒトだった実体は、いまなお量子の波動として散逸構造のまま飛び交っている(のかじっとしているのかは不明だけれど存在している)ことは確かです。つまり〈空〉の状態です。量子には時間という概念がアリマセン。量子は時間という質や量を伴った存在ではナイのです。ですから宇宙は出来てから135億年だとか、開闢の瞬間に起こったことに10の何億分の1秒のような単位をつかうことはあまり意味がありません。時間というものは存在しないからです。
量子は、量子力学的にenergyが消滅するまで無時間のまま存在します。これが自然というものの奥にある〈本質〉であることを量子力学は突き止めつつあります。そうして、量子のenergyの消滅の仕方たるや、すべて、光子に還元されてしまうことです。(つづく)

2019年12月18日 (水)

港町memory 68

(承前)
これ(ニュートン力学的世界)と(量子力学的世界)は般若心経の「色即是空・空即是色」で捉えるとワカリヤスイとおもわれます。
たとえばヒトを〈色〉という実体とするならば、量子力学の領域は〈空〉になります。
何故なら、量子はすべて波動(波)だからです。波動なのに、どうして量子という粒子の名称がついているのでしょうか。これは、ダブル・スリットによる実験(slitとは、切り込み、隙間のこと。これは思考実験ではなく実際の実験です)で、よくワカリマス。たとえば、電子という量子を一個、穴(切り込み、隙間)が二つ穿ってあるスリットに向けて発射し、その向こうがわのスクリーンに到達させるという実験です。電子は一個ですから、スリットのどちらかの穴を通過するはずなんですが、実験の結果では、ダブル(二つの)穴を同時に通過したことがワカッテいます。ところが、スクリーンには一個の電子の到達痕しか残りません。つまり、電子はスリットを通過するとき、いったん波に変わり、さらにまた粒子となってスクリーンに到達したワケです。いったん波になることは、次々と電子を飛ばしてスリットを通過させると、スクリーンに干渉縞が現れることで証明出来ます。電子の次々の時間を一秒ごとにしても一時間後にしてもたとえ百年ごとにしても同じ干渉縞になります。つまりたった一個の電子でも、いったん波となってスリットを抜けた以上は、干渉するということです。何故こんな不可思議なことが起こるのか、それは量子という運動の本質だとしか答えようがアリマセン。/量子というものは、波だか、粒子だか、なんだかワカラナイもの/、これが現在の(といっても私の知り得る限りのですが)量子力学の量子に対する定義です。(量子そのものは、energyの最小単位です)。すでに古典量子力学と称されているニールス・ボーアの量子解釈である〈相補性〉=「量子はあるときは波でありあるときは粒子である」(いわゆるコペンハーゲン派解釈)は、すでに実験によって否定されています。
さてと、ハナシをもどして、波、波動も実体ではナイのかと、おっしゃる方には、次のような解釈をひとつの例として述べておきます。前提としての注意ですが、「空」は「無」ではアリマセン。
/音楽とは、波動=音=〈空〉が分子段階に相転移して〈色〉=実体となったものだ/
私たちは音楽(演奏・歌唱)を聴きますが、音そのものは音波という単なる波にしか過ぎません。それが波動の作用素(作用素については後述しますが、簡単にいえば、なんらかの作用によって生じた結果)として音符に書かれ、楽譜になり(と、この辺りを分子段階としておきます)、演奏、歌唱が出来る音楽となり、私たちはそれを感受します。単なる音(波)には音楽としての実体はありませんが、私たちの聴く音楽は実体です(波としてではなく音楽として感受できますから)。そこで楽譜〈色〉という分子段階をもとの音、単なる波にもどせばすなわち〈空〉になるということです。これが「色即是空 空即是色(色即ち是れ空と成り、空即ち是れ色と成る)」のかんがえかたです。(つづく)

2019年12月17日 (火)

港町memory 67

ここからは、私が遺書(遺すことば)のsub textとして記したものに、出来るだけの解説などを加筆したものです。難しいというより、それは不慣れなだけなんですが、ブログですからちょっとずつ参りましょう。
ここでは、ヒトは死んでしまったアト(生存という実体の消滅したアト・私のコトバでいうと「ニュートン力学的存在の終焉」のアト)どうなるのか、私の考え(仮説)を記しておきます。


告別・別記(sub text)
~人間という存在、死とはどういうものかについての私的考察~

ひとの死は自然現象である。生まれて死ぬことはまったきの自然、の、ように私たちにはみえる。(認識している、というふうにもいえます)。しかし、ほんとうにそうだろうか。これが私のようなヘソマガリ或いはアスペルガーな資質の疑問の始まり。
それはただ、そう思い込んでいるだけではないのか。果たして私たちのみているものは、ほんとうにほんとうの自然なのだろうか。宮澤賢治が作品中で「ほんとうの」を多用したのは、野山を歩いていて、「ワケがワカラナイけど、何かちがう自然に巡り逢うことがあり、なにか自然には自然に隠された「ほんとうの」ナニかが在るのではないかと、直感したのではナイだろか。

そうして、それに応えてくれたのが私の場合は量子力学であったワケでやんす。

/〈自然〉とは、私たちがみているとおり、おもっているとおりのモノではナイ/
量子力学が私たちに教えるものは、そういうdrastic(抜本的、果敢)な自然です。

前提として、この世界(宇宙)には
〇重力
〇電磁気力
〇核力
があります。いわゆる宇宙の「四つの力」です。電磁気力は、電力と磁力が同じものだということがワカッテ、こう呼ばれるようになりました。双方とも電荷(+・-)を持っています。電荷というのは、その名の通り電気のお荷物。+と-ですから逆方向のナニかです。だいたい、量子力学には、この「ナニか」はよく出てきます。ワカンナイけどナニかです。カント哲学では、これを先験的(経験以前の存在)なんてふうに表しています。このナニかが流れると電流と呼ばれ、収斂、集まると、電場と呼ばれたりします。磁力の場合も同じです(電磁場)。ですからプラスとかマイナスとかは便宜上人間の付けたコトバ、名称でしかアリマセンが、そう称して差し支えはアリマセン。いうなれば、普遍的名称ですナ。
さらにもう一つヒトが創った(といいますか発見した)世界があります。ニュートン力学的世界です。最初の三つ(四つ)は量子力学のcategory、もう一つはニュートン力学のcategoryです。この二つcategory(領域)が混在しているために、この〈世界〉は理解出来にくいのです。また、これは先述したように、『維摩経』の不二法門(ふにほうもん)のかんがえ、ともいえます。
さらにさらにいうと、世界は自然であるはずなのに、ヒトだけが、自然ともう一つ非自然を両有しています。自然でナイモノでも在るのです。ヒトは、その二つが重なりつつ存在するために、生きにくいのです。(たとえば、「生病老死」は自然のものなのですが、ヒトにとってはこれは苦しみになります)。

重力、電磁力、核力、は前述のごとく量子力学の領域ですが、私たち(physical、mental)の構成最少単位(最小energy)でもあります。
であるのに、私たちヒトは日常的にはニュートン力学の存在(energy)としてしか生きられません。量子力学の世界に突如として現出したニュートン力学的存在、それが私や私たちの世界(自然)なのですが、なんでまた、そんなものが現れたのか、これはワカラナイ。ワカラナイけれどもまったくチガウ(ですから、どうもこの自然はアヤシイとおもってイイのではナイか)。
では、このへんからかんがえていきましょう。

2019年12月10日 (火)

港町memory 66

「死と生の境界線をどうするか」、という問題は難しそうでいてさほど難しくナイのではないか、これが、このところのideaです。
「死と生の定義」をこうかんがえればどうだろう。この二つは分けてかんがえてはいけない。何故なら〈同じもの〉だから。これは、大乗仏教の経典(宗派によっては経典と認めず、教説とするものもある)『維摩経』の不二法門(ふにほうもん)のかんがえかたです。不二法門とは、「空論」とならんで『維摩経』の中心を成す教義ですが、具体的にいえば、/互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではなく、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはほんらい二つに分かれたものではなく、一つのものである/というかんがえかたですが、個人的には、仏教経典はこの『維摩経』と『法華経』『般若心経』を読んでいればそれで充分という気がします。
そのかんがえかたでいうと、「死という任務」は「生の最期の任務」ですから「死」は「生」の中に在り、「生」は「死」の中に在ります。境界というものは存在しないのです。それはあたかも、線分で描かれた円周の内と外と同じです。円には内も外もありません。線分には面積がナイのですから、内と外を分けることは出来ません。πの値はあくまで便宜上のもので、いつまでたっても答えが出ないのは当然のことです。

私の考えでは、人間が火葬で熱エネルギーとして放散、質量転化(熱力学の第二法則・エントロピーの法則)されるにせよ、土に帰るにせよ、そこで、人間の〈ニュートン力学的存在〉は終焉します。
この宇宙には(とはいっても、96%は未解明らしいんですが)力(エネルギー)は四つしかありません。宇宙の四つの力とは、重力、電磁気力、弱い核力、強い核力です。これはもともとは一つであったものが、ビッグバンの後四つに分かれたとの見解がおおよその物理学者の統一見解です。(核力というのは、素粒子がくっついたり離れたりする力だとだけimageしていればイイです)。重力はたしかにあるのですが、検出されたことはありませんでした。しかし、最近やっと実験施設でその存在が確かめられました。電磁気力は、最も親しみやすく、このPCを動かしているのも電気ですし、ネットは電波です。
磁気は磁石で子供のときから知っているアレですナ。プラス(+)とマイナス(-)があります。電気も同じです。これを電荷と称しています。
と、ここまでを知っておいてもらった上で、どうもテキ屋のオオジメのようで申し訳ナイのですが、長くなるので、本論は次回にします。

2019年12月 8日 (日)

港町memory 65

映画『人魚の眠る家』(原作:東野圭吾『人魚の眠る家』(幻冬舎文庫)監督:堤幸彦、脚本:篠崎絵里子)は、「死と生の境界線をどうするか」いい方を変えれば、何処に引くか。誰が引くかというテーマの映画ですが、一応エンタメですから、そういうふうに観ないと勘違いしてしまいます。もちろん、堤監督はヒューマニストでもありますから、出来は満点といってイイ。
とはいえ、サービスが多すぎる。脳神経外科の医者で瑞穂(主人公の娘)の主治医が「彼女の心臓はいまも誰かの中で生きている(だったかな)」というお約束のせりふをいうんですが、これ、タナテツ(田中哲司)さんがいうんですが、これはスンマセン、笑いました(ほんとうにスンマセン。私、タナテツさんのファンですし、それまでは、感動しながら観ていたのです。thrillingだなあとおもいながら見入っていました)。
私なんざ、愚考のものですので、「脳死」などというものが人間の死ではナイということを、あらんことか、はるかなむかし『ドグラ・マグラ』(夢野久作)で学習しているもんで、さらにそのアト『心的現象論(序説・本論)』(吉本隆明)でもお勉強したんですけど、まあ、それはそれとして、生と死の境界はいまでも決定されていません。何をもってひとが生きているか死んでいるかを判断しているものは、/医師の書く死亡診断書/だということを養老センセイも仰ってますし、葬儀請け負い会社が働き始めるのは、医師の死亡判定後です。医師の死亡時間通告がstartになるそうです。ここから、死体搬送、安置、通夜・・・とつづくんですが、病院の死体安置室からそのまま火葬場に持っていくようなことはできない。死亡通告時間から三十六時間は火葬してはいけないという法律があります。通夜というのは、死者の蘇生の用心のためにいにしえの人々の考えた儀式で、実際、通夜で棺桶の蓋が死者によって開けられたことは事実として記録に残っています。
臨終のさい、五人に一人の割合でヒトは幻覚・幻視を観るそうです(この統計はワリと確かなものですから、それなりの正当な機関、たとえばWHOクラスの統計でしょう)。いわゆる〈お迎え〉というものですが、このまえ、私の戯曲の弟子で、緩和ケアもやっている精神科医とハナシをしたところ、たしかにそういうことはあって、その作用もワカラナイのだけれど、もっと不思議なことは、そういった場合の幻覚・幻視が、精神疾患者の観る幻覚・幻視とはまったくチガウモノだということだ、ということでした。どこがチガウのか、彼もうまくは表現出来なかったのですが、「外に観ているというのではなく、何か内から出てくるものを観ているような」と、その辺りまでしかワカラナイが、臨終の方にはたしかに観えているものであり、それが脳作用だとしても、脳のどの部分がどんな仕事をしているのかも不明だそうです。
『人魚の眠る家』では、ラストシーン近く、脳死していた女の子(主人公の娘)が目を覚ますのですが、これは映画では主人公の夢として扱われていますが、実際、現実、そういったことは在るのだそうです。これまた現状脳科学では明かしきれない謎のひとつです。

さて、①自発呼吸の停止、②心拍停止、③瞳孔が開く、の「三徴候の死」を私は人間の〈ニュートン力学的存在の終焉〉と、かってに名付けています。次回はやっとのことひょっとこ、この辺りに迫ります。

港町memory 64

と、その妄想の前に、ちょいと現実にもどりますが、あちこち飛んでも「何を」かんがえなければならないのか、ということだけは頭痛にハッキリ(古いネタ過ぎ)させておきましょう。
「人間は死にます。必ず」では、何故「必ず、死ぬのでしょう」これが一つ。
「生きることに意味や意義がある」とします(これは仮にでもよろしい)。では「死ぬことに意味や意義があるのだろうか」と(自問でイイのですが)逆視(ややparadoxに)してみます。これが一つ。
もしも「死ぬことに意味や意義がある」のならば、人間は胸を張って死んでもイイのです。だったら、ここをもっと積極的に攻めてみましょう。「人間は死なねばならないのだ」というふうにです。「死なねばならないので、必ず死ぬ」と、こういう積極的なある意味「死の定義」は可能でしょうか。
可能だと自答します。
「人間が死なないもの」(自然死においてですが)だとするとどうなるんでしょう。人口は増え続けます。当然です。死に方には「壊死(外傷、事故死)」と「自然死」があります。「死なない」とはいえ、首をチョン切られたら死にますから「壊死」なら死ぬのですが、「自然死」では死なないとなると、どんどん増えます。増え続ければ食料が不足して、「壊死」が増えます。水や食料の奪い合いによる殺し合いになるということです。いまだって戦争の何割かはその理由の根源はこれでしょう(「資源争奪」なんていうちょりますが)。
もう一つ、「コシカリ的絶滅」の危機があります。米の種類のコシヒカリ、美味えなぁってんで、あっちもこっちも全国の田圃中にコシヒカリを育成させていたら、あるとき、コシヒカリには致命的な環境(気象情況)がヤッてきたとすると、コシヒカリはほぼ全滅してしまいます。米を食えなくなるということです。飢饉ですな。飢え死にでござんす。
人間にも同じことが起こります。「(自然に)死なない」となると、同じ生殖遺伝子をもった種が増え続けます。で、コシヒカリ的にその種に致命的な環境、情況がヤってきたら(地球の気候などがそうなったら、あるいは、新種のバクテリアが出現したら、あるいは基本的な免疫力は自然に減衰しますから・・・それを理由に近親婚には法的規制があるのです)。人間はやがて間違いなく大量絶滅します。カンブリア紀などに大量絶滅をもたらせた原因もこの辺りにあったのではないかという説もあります。
つまり「(自然死で)死なねえとなると、人間には、種として一挙に壊滅する事態が待っている」ことになります。
そうすると、「死ぬ」ということは、人間の自然の営為としての〈最後の仕事・任務・務め〉ということがいえます。
これが意味ある「死の定義」です。「死なねばならない」の答えです。
これは拡大解釈されると危険思想にも結びつけることが出来ます(自爆、特攻など)。ですから、「死なねばならない」という最後の任務は、たった独りで人類全ての種を救うことを目的とする、これこそ世のためひとのための、自然の営為による畏敬すべきヒトの最期の仕事、任務であるということは、ハッキリさせておくべきです。
完(まっと)うすればイイのです。「死」は忌み嫌われるものではなく、固有の全てに公平に与えられた称賛されるべきものです。とはいえ、これはほんとうに思想主義的にヤバい利用をされるからなあ、で、難しいことは難しいです。

私は「死」を「ニュートン力学的存在の終焉」とかってにそう称してますが、次回はその妄想についてふれることにします。

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