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2019年11月28日 (木)

港町memory 63

思いつくままになりますが、あちこちへと思考を飛ばしながら、ヤっていきます。
地獄というものはナイ、ということは前述しました。これはクリスチャンでもある社会学者で思想家の橋爪大三郎さんのコトバですが、それについては、詳細を語ってらっしゃらないので、私は私なりにイエスと「罪(原罪)」の消滅について記しました。
ちょいとかんがえてみればワカルことだとはおもうんですが、もし地獄というものがあるとして、それは誰が何のためにつくったのでしょう。この世の悪人を罰するため、と、簡単にいえばそういうことですが、これはどうかんがえても(ちょいとどころではなく、どうかんがえても、です)オカシイのです。地獄というものを神仏の創作物、造物だとすると、ニンゲンはわずか百年程度の人生における罪業で、永遠の苦しみを受諾しなくてはならないことになります。日本には終身刑はありません。死刑に次ぐものとしては無期懲役くらいです。しかし、地獄の刑罰は永遠です。
そのようなものの必要性がいったい何処に在るのでしょう。
連続殺人で、五人殺した悪人とやらがいるなら、あの世とかで五回殺されればそれで帳尻はあうはずです。戦争で一度に千人殺したなら、その千人の中の一人として一度殺されれば算盤は合います。だいたい、戦争での殺人は殺人とはいえません。戦争そのものが「悪」だからです。ならば、戦争それ自体を地獄とやらに送ることのほうが重要です。(それは無理。なるほど、神仏の力の限界ですナ)
「死刑」ついても、前回の「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」が大きく関係してきます。「一人称の死」の場合はたいてい化けて出て、自分を殺したものを殺します。「二人称の死」の場合は、かなり複雑ですが、自らが「自分は死刑になっても仕方ない」と認知するのと、冤罪とではだいぶんにチガイマス。「三人称の死」の場合、これが最も多いのですが、これは「社会的な死」ですから、社会が加害者に「死刑っ」と命じれば加害者が「ヤダっ」といっても「死刑」になります。社会的に死刑が廃止になれば、死刑は廃止になるのは当然のことですが、そうなると「私刑(lynch)」が増えるかも知れません。この「三人称の死」と死刑についても、私なりに前述しました。
では逆に天国とか極楽はどうでしょう。これは創造者、造物主は明確に神仏です。
仏道では六道輪廻という教義のある宗派が多数あって、六つの輪廻転生(死後の世界)があります。ここでキリスト教のいう「天国」に近いものは「天界」です。天界では、最低でも九百万年の命があります。しかしその命が終わると、地獄でも最悪の最低層の「無間地獄」の苦しみの六倍の苦しみが待っているとされています。
そういうものがいったい何のために必要なのか、記されているテキストは存在しません。
「天国」は永遠の生を授けられるところです。他にどんないいことがあるのか、教派によってチガイマスから、一慨にはいえません。ダンテの『神曲』にしたって、地獄と煉獄は書き込まれているのですが、天国になると、あっさりしたものです。作曲家のリストも、『神曲』の構想をもとに『ダンテ交響曲』を作曲しようとはしたのですが、天国を描写するのは不可能ではないかとワーグナーに意見され、けっきょく、煉獄を描いた第2楽章の終結部で天国を象徴する「讃歌」を置くに留めていますから、天国はそうとうimageしにくいのではナイかというのが私の感想です。地獄も、たいていの教派、宗派で似たようなものですが、私も『日和見主義』以外の観点から、地獄というものは存在しない、とかんがえているのですが、ただし「この世以外の」という文言が付きます。「この世」以上のどんな地獄があるというのでしょうか。とてもimage出来ません。切り刻まれたり焼かれたり、血の池で溺れたり、針の山やら氷の世界、その程度の(いや、もっとひどい)地獄は「この世」のいたるところに在ります。
さて、では、そういうものをかんがえに入れないで、死後(というか、正確には生が終わった後)のことを次回は妄想することにします。

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