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2019年11月24日 (日)

港町memory 60

「死ぬ」ということをひとは恐れます。では「死ぬ」ことのナニを怖がって(恐がって)いるのでしょうか。
ともかくは「四苦」のひとつですから「苦しい」ということがイチバンなのかなあとはおもいますが、「苦しい」 のも「生きている」あいだだけで、死んだらどうなるのか、たぶん苦しいこともナイんでしょう。だから、「自死」「自決」「自裁」を苦しみ逃れにするとかんがえてよろしゅうごさんすかとおもいます。
次にこの世から自分がいなくなる「存在が消える」ということ、もちっといえばこの世界との「関係を絶たれる」、かつ永遠に。ということも死への恐れでしょう。
輪廻転生があるとしても、そういうヒトのハナシはまれには聞きもしますが、たいていが与太な類のようにおもえます。
たしかに自分という存在がこの世界から永遠に関係を絶たれる、無に帰する、ということをいま、この世界と関係して生きている自分からおもいを馳せると、ゾッとします。ところで、絶たれるものがもう一つあります。「私自体」です。この世界と関係を絶たれるだけではなく、死は「私」というものとの関係も絶たれます。もちろん、死んだことがナイのでそういうエビデンスを持ち合わせているワケではありませんが、死んだら死んだ私が残るかというと、まず、かんがえられナイ。
そこで、「天国」や「極楽」が並べられます。(地獄もついでに並べられますが)。これがナイとなかなかひとは宗教に向き合ったりはしないんじゃナイでしょうか。アメリカ合衆国の多くはキリスト教徒ですが、(あまり確かな統計とはいえないのですが)ある調査では死後の世界、afterlife、つまりキリスト教ですから「天国」への復活を信じているひとはアメリカ人に九割いるそうです。過激ムスリムの自爆テロの多くは自らの神の天国へのticketを信じているからといえます。
ニーチェは『anti Christ』の中で「神は死んだ、ゴルゴタの丘で磔になった」といってますが、これは正しくは「神(Jesus Christ)は殺された」というべきだったでしょう。だって、殺されたンですから。殺したのは、時のローマ政府です。もう少しnuanceを変えていえば、「神は死刑になった」になります。チェスタートンのイエスの存在解釈によると、イエスとはまさに神が人間というものを経験するための存在だったということになるのですが、それゆえに、イエスが最期に天に向かって「我が神よ、私を見放されるのか/Eli,Eli,lema sabachthani」と、「神自らが神を疑った宗教はキリスト教以外にはナイ」は、名言だと私はおもいます。これに反して旧約『ヨブ記』は好むところではなく、作者の文学的力量が不足の感が否めません。
私のような「在ってもなくても、変わりはナイ」は「日和見派」ともいわれます。「不可知論」というのは簡単にいってしまえば「神は「いる」とも、「いない」ともいえない」ですし、ちょっと難しくするなら、「そういうものをヒトは認識出来ない」となって、カントの認識論ややフッサール現象学に近づいていきますが、マルクスになると、「いないと決めてしまったほうが良い」という積極的な政治的不可知論になります。私などには、どれもごもっともでごぜえますですネ。「どっちでもイイ」というよりは「どっちにしたって変わりはナイ」なんですから。
こういう日和見主義についても、チェスタートンはうまく応えています。神と人間との関係は画家と絵のようなもので、画家は描いた絵についてそれ以上手を加えない、というものです。「あんたら、勝手にやんなはれ、その代わりワテは知りまへんさかいにな」ですかね。 
今日、この時点で現ローマ法王が来日してらっしゃいます。ヒロシマ・ナガサキへも出向いてらっしゃいます。そこでどんなcommentを述べられるのか、ちょっと気になってはいたんですが、とくに神の責任についての言及はありませんでした。「人間どうし、殺し合うのはやめましょう」と、つづめていえばそういことでしたが、残念ながら、人間の歴史というのは有史以来、この「殺し合い」の歴史といっても過言ではありません。法律的に認められた「殺し合い」というのもあります「死刑」という刑罰です。戦争なんてのは、もはや「死刑」の大きなゲーム、「死刑ごっこ」です。「殺らなければ殺られる」でんな。
ドイツの軍人エーリヒ・ルーデンドルフによって1935年に著された戦争理論の著作『総力戦』になると、クラウゼヴィッツの『戦争論』(1832年)は、クラウゼヴィッツが生きた時代でのもので、戦争は国民とは別に政府と軍隊だけによって行われるものであるというのは過去のものとなった(『幼女戦記』などを読むと詳しい・・・はずです)になりますから、そこんところで「死に方」がどうのなどと、固有の倫理性は消し飛んでしまいます。よってもちろん、私は「戦争」には批判的です。(けして、反対ということではナイ、というのがまた日和見なんですけど)。こういう日和見は、私自身、「あの野郎(女の場合でも)いつか殺してヤル」という覚悟、意志を持って生きていた時が確かに在ったからですし、いまだって、「どうせ兵士にされるなら狙撃手がイイ」とおもっているからです。いくら戦時下の命令、営為であっても、引き金を引いて相手を倒したのは自分なのだというくらいの苦痛を強いられるのが「戦争」だとおもっていますもんで。

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