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2019年11月10日 (日)

港町memory 55

ヒトは信仰者であっても、無神論者であっても共通にいえることは必ず〈死ぬ〉ということです。古今東西死ななかったヒトはひとりも在りません。
ところで、「無神論」という副詞的名詞、あるいはこれを命題に書き換えて「神の存在を認めないものは無神論者である」としてみると、ここに矛盾をみつけることは比較的たやすいことです。「神の存在を認めない」という命題部分には、ちゃんと〈神〉が認識されているということです。「神という存在を認識しない」としても同じです。率直、直截に「神は存在しない」と客観的表現に書き換えても同じです。「神の」「神は」といった場合、そこにそう述べた主体に認識された〈神〉というものがなければ、この命題は成立しませんし、成立させようとすると〈矛盾〉が生じます。たとえ「神のようなものは」としても、それは変わりません。「神」とコトバにした瞬間、そこには主観としての〈神〉がimageとして存在してしまうからです。
私は信仰者ではありませんが、そういった理由で無神論者でもありません。
私の場合の神に対する命題、定義は、
「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでもイイ」
になります。
これは不可知論とはチガイマス。/(宗教的不可知論のひとつのタイプとしては「神はいる」とも、「いない」とも言えないのだ」とする中立的不可知論がある。また、カントが『純粋理性批判』において示した、物自体は認識できず、人は主観形式である時間・空間のうちに与えられた現象だけを認識できる、とする考え方も一種の不可知論である)/大学の哲学科ではカントまでは教えるそうです。ここからは独自に誰かの哲学を専攻していくらしいですが、つまりカントの認識論はその基点になっているということでしょう。拙者も『純粋理性批判』は読みましたが、事象のカテゴライズの仕方に、へーえ、ふーん、と感心したことは記憶にあります。
ほんでもって「不可知論」、これは釈迦の思想における「霊魂不説」とよく似ています、「なんぼかんがえても、本質的に答えの出ンモノは、かんがえてもしゃあないんや」という釈尊の「霊魂不説」はむしろ不可知論に近いのですが、どちらかといえば(釈迦の思想的態度としては)八正道の「正しい」とは何かをかんがえたほうが、錯誤に陥らなくてすみます。そこでいわれていることは極端を避ける「いい加減」「中道」といったところなんですが、私の場合の「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでイイ」は、それよりも、積極的なapproachとおもってもらえればよろしいでしょう。
現象学的にいえば、エポケー(現象学的還元)に近いかもね。つまり、神の存在の有無については、生きる上で考慮せず。ということになる。(もちろん、考えることは重要なんでござんすが、ですから算盤の上で弾かないといったほうがイイかなあ)。
こういったことは、マンの『魔の山』や、カミュの『ペスト』やマルキ・ド・サドの『ジュスチーヌ』シリーズないしは『悪徳の栄』からの影響が少なからずあります。
で、それなら、「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでもイイ」とは、いま少し具体的に、もしくは「死に方」というThemaに沿って述べるとどうなるのか、これまた次回ということにしておきます。

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