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2019年11月26日 (火)

港町memory 61

アリストテレスとハイデガーのことを話すと、またかよと、顰蹙(この漢字ムツカシイですね。ひんしゅく、なんですけど)を買いますが、顰蹙を買うというと、漢字が似ていることから蟹(かに)を買ったふうにおもわれがちですが(おもわないよっ)、この場合の「買う」は購買の売り買いとは関係ありません。似たようなものを例示しておきますと、「喧嘩を売る」と「その喧嘩、買った」なんてのがありますから、そんなもんなんでしょう。
ハイデガーがアリストテレス2000年の哲学を引っ繰り返してしまった、ということはスコラ哲学(キリスト教神学をアリストテレス哲学で補完したような哲学・神学)に大きな驚異ではあったでしょう。その弟子というのではありませんが、追従者のサルトルの恋人のひとりであったボーボワールの『第二の性』(第二というのですから、順序数で二番目ということなんですが、ボーボワールもサルトルに負けず劣らず恋人が多かったので、その数をいうのではありません)を読んだのが、高校生の頃でしたから、女性解放とかそういう方面はよくワカランながら、記憶に残っているのは、だいたい次のような論旨です。〔いま、ここに神が現れたとする。しかしながら、その神を神だと保証するもの、認知、認識するものは誰か。他ならぬ人間ではないか。もしそこで/あんたは神ではナイ/、あるいは/あんたを神として認めない/と、人間が明示、宣言、拒絶、否認したら、その神はたちどころに神ではなくなる〕つまりアリストテレス哲学の引っ繰り返しというのは、こういうことなんですが、ここから、「人間は本質的なものではなく実存である(『実存主義とは何か』ジャン・ポール・サルトル)という大見得が出てくるというワケです。
そんなことをいわれたとしても、どうも、さっき実家にマチガッテ電話をしてしまったら、母親の機嫌がかなり悪く、つまり、容態が悪いのか、サポーターの女性のhairstyleが気に入らなかったからなんでしょうけど、たしかに新しく交替になったヘルパーさん、初見で私も、「ああ、このヘルパーさん、水商売のひとみたいやな。hairstyle、あかんわ」とはおもいました。母親は私にワカルように、指で×をつくってみせてましたけど。その母親にはなんの関係も影響もナイ。
で、本質だろうが、実存だろうが、死ぬのはつらいのです。男はつらいよ、は国民に定着しましたが、死ぬのはそういった意味ではなくつらく定着しています(「死ぬのはつらいよ」ですな)。鼻や口からボタボタ出血している母親に「あんなぁ、ボーボワールいうひとは、ぎょうさん恋人いたんやけど、どうも、どの男もアッチのほうがアカンかったみたいやねん」というても何の慰めにもなりません。まして「人間は本質やのうて実存なんやねんで。まだ、血ぃ、止まらんか」「あがんば(あかんわといっている)」血管に詰め物をする血管塞栓術という忍法小説の忍術みたいな方法が可能なのかどうか、かかりつけ訪問医療医師は、かかりつけ口腔外科医師と相談をするようですが(あくまで私の憶測ですけど)、私は素人ながら、いま出血している血管を閉塞させても、漏血自体が止まるワケでなく、出血は一時的に(ほかの血管から出血するまで)止まるだけなのではないか、と、これは本質ですな。ならば、その血管をチューブと結んで、一定の血液を排出する(いってみたら、人工尿管、人工肛門のようなもの)管が必要なのではないか。これが実存だとして、だとしても、出血が止まるワケではなく、その鬱陶しさ、苦しさからは緊急避難は出来るが、余命が伸びるワケではない。まあ、いまより楽にはなるかナァ。これはもうどっちでもエエ。くらいにおもっているんですが、たしかに「死ぬこと」についてのハナシではありますが、死ぬ前の生き方(というより生きざま)が、どんなに酷いかと、「死に方」についてかんがえるには、ヒトの物理的、生物的、メカニズム的、生理的な「死に方」のほうもかんがえないとイカンのだなあと、今日は、しみじみおもいつつ、納豆雑炊をつくって食いながら項垂れて、でも、完食したのでした。

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