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2019年11月27日 (水)

港町memory 62

/ヒトの物理的、生物的、メカニズム的、生理的な「死に方」のほうも/って、重要なのはやはり医学的でしょ(自省)。
医学(医療)において、ヒトの「死」というものは、どう定義されているのでしょうか。くだいていえば「何をもって、そのひとが死んだ」と決めるのでやんしょか。
そこで、『死とは何か』別冊Newton(ニュートンムック2019/05/10発行)というワケ、なんだけど、どうもいつものNewtonらしくなくて、歯切れが良くない。天文、物理などの分野では、読みごたえがあるんですが、こればっかりは、ブルバの切り貼りを読んでるようで、ふーん、そうなんだと溜飲を下げたのは巻末の養老孟司さんのインタビューくらいでした。が、ともかくも、本編にも医学的に興味をひくようなことは一応書いてあります。そこで、「生と死の境界を誰が判断するのか」なんですが、これは、やっぱり医師が、なんですナ。医師だっていろいろいますが、養老センセイにいわせると、何をもってひとが生きているか死んでいるかを判断しているものは、/医師の書く死亡診断書/ということになるそうでやんす。よく「三徴候の死」というコトバが使われますが、養老センセイはここに「古くは」とことわりをいれてらっしゃいます。「臓器移植法には脳死は死であるとはいっさい書かれてません」だそうで、じゃあ、どう書いてあるのかというと「脳死した者の身体から、移植用の臓器を摘出出来ると書いてあるだけです」なんだそうですワ。
「三徴候の死」というのは、①自発呼吸の停止、②心拍停止、③瞳孔が開く。最期の「瞳孔が開く」が脳死にあたるワケなんですが、テレビドラマや映画なんかで、すぐにKrankeの瞳をペンライトで診て、「死亡時刻〇時〇分」なんてことはナイのだそうです。ありゃあ、あくまで、ドラマの進行(time)に影響しないようにヤっているだけで、普通30分以上は時間をおいてから瞳孔検査というのはするそうです。とはいえ、この「三徴候」に関してはあくまで医師の判断であって、というか慣例みたいもので、エビデンスはナイ。つまり、「死とは何か」は医学(医療)的には、もう少し拡げていうと科学的には定義出来ていないのです。しかし、なんか決めないと臓器移植なんてやれません。ここで、臓器移植を待っている患者のほうは、たいてい両極の気持ちに苛まれる(はずです)。「早く死んでくれねえかな」と「臓器を頂くヒトに対して早く死んで欲しいとおもうのは良くない・・egoist・・んじゃナイかな」ですナ。
私の場合「臓器移植はしません」と、国民保険証にはそう記してあります。アイバンクの登録もしていません。そういう善意は「生きているうちに」ヤッておくべきだとおもうからです。不遜ないい方でいうと、医師がみなdoctor Frankensteinにみえます。 
医学(医療)に「死の定義」はなくとも、生物にとって「死ぬ」ということは「体細胞(生殖細胞以外の細胞)」の死だということはワカッテいます。ここは注目すべきところで、私たちが死ぬのは「生殖」によって子孫を遺すための必須手段であって、そうでナイと、種の絶滅に陥ってしまいます。(この辺の詳細はNewton読んで下さい、ネ)。なるほどねえと、おもいまっせ。
もう一つ注目すべきは、フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチが、死を三つに分類していることでしょうか。「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」で、養老センセイは、「一人称の死」はかんがえても意味がナイ、何故ならば自分で自分の死を観察することは出来ない(例えていえば、自分で自分の解剖は出来ない)と述べています。「二人称の死」とは、親しいひとの死で、これが最も自分自身に影響を与える。これはここ数年、私、そうでしたワ。途方に暮れると養老センセイはおっしゃってますが、こちとらはもう路頭に迷うありさまでした。
「三人称の死」、これは赤の他人の死なんですが、現代はこれが増加している。そうなると、「二人称の死」は減少して、つまりはこれは誰がいったか「死ぬのはいつも他人」ということになります。これを「死は社会的に存在するものだ」と養老センセイは述べています。もちっとワカリヤスクいうと、私もよくそういう経験をするのですが、銀行口座の住所変更手続きで、北村想(これペンネーム)と北村清司(本名)が同一人物であるということを証明する手段がナイのです。(けっきょくいつも筆跡鑑定になる)。もっと簡単に、運転免許もなし、健康保険証も(病院に来たのではナイので)持参していない場合、本人(当人)がその場にいるのに、窓口では、確かにそのひと本人であるとワカッテいても困ってしまうという、この現象。よくあるパターンでいえば、患者が目の前にいるのに、カルテや検査結果のデータをみながら診察しちゃう医師がなんと多いことか。「ここが痛くて、この辺が詰まっているようで苦しくて」と、いくら口頭で訴えても「データをみる限り異常はナイんですけどねえ」という医師、よくいますよね(そういうクソ医師)。つまり、テキスト化(書類に)されていない、生きていないもののほうを重視するのが社会の傾向であり、まさに「死」もその中に含まれるというワケです。ひでえ社会(世界)だナァ。

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