港町memory 54
拙著『恋愛的演劇論』の最終章、つまり量子力学を用いて試みられている章はマチガイだらけなのでござんすが、それでイイのではないかとおもっている。そこまでの章があまりに真理であるので、読者は反論のしようがナイらしく(いままでそういうことは一度もお目にかかったことはナイ)、つまり反論というより、難解らしく「これは演劇論ではなくて〈哲学〉だ」という書評はあるにはあったが、哲学も引用、ふくまれているので、まあ、マチガイではナイ。(と-んでも-本という噂もあるにはあるが)。
思い出せる程度でいうと、ハイデガーが何故二十世紀最大の哲学者と持ち上げられているのかということ、これは、欧米のみの評価で、東洋哲学や、キリスト教categoryでも、ギリシャ正教会あたりはあまり感知していない(だって白(知ら)ねえんだから)。要するにアリストテレス二千年の哲学を接合(融合なんだろうけど)させた(正確にはそうしなければしょうがなかった)神学、スコラ哲学が引っ繰り返ったということに過ぎない。だから、デカルトの哲学なんぞはビクともしていない。私にしてみれば、アリストテレスの形而上学より、デカルトの神学と数学の邂逅のほうが、後にニュートンに対する影響をかんがえると、より科学的で、いくらハイデガーでもこれは引っ繰り返せない(だいたい、ハイデガーにしてもサルトルにしても数学をそんなに重要視していない)。従って、思い出せるもう一つは、数学のスゴサだなあ。
それと、釈迦の思想、つまりは仏教なんだけど、これまた宗教となってからは堕落の路地の枝分かれになりますからなあ。
/この世のあらゆるものは人の目には見えないほど小さな原子が集まってできており、あらゆる物の根源である粒子の総数は増えも減りもしない/というギリシャ哲学はエピュキュロスに始まる。ギリシャ哲学は明るいのだ。だからして、マルクスが、来るべき共産主義の未来社会のmodel caseをギリシャ哲学における社会に深謀遠慮していたのも納得出来る。
釈迦の思想の明るさは、西洋哲学では誤解されて「虚無の哲学」といわれているところも多いのだが、私はエピキュロスの思想と釈迦の思想とは仲良しなんじゃないかと、ほんわり気分で無想している。少なくとも、キリスト教暗黒の世界、マッチポンプ(英語にしてしまうとMediative profiteeringになる。これは不当な利益、暴利を貪るという意味になる)なのだが、英訳でもいい得て妙。的を射ている。どうしたって〈権力〉を最もなものとしなくてはならない思想に(そう、あたかも『幼女戦記-東條 チカ (著),カルロ・ゼン (原著)』のXのごとしだ)対しては、それに敢然、毅然と立ち向かう『百億の昼と千億の夜』の阿修羅王のごとき精神(mind; soul; spirit; mentalis)を感じるし、光瀬龍さんが、阿修羅王とともに主人公として扱っているのが、釈迦(シッダルータ)とプラトン(オリオナエ)というのも了解(とても理解したといえるほどではナイのでこれはかなり謙遜しているのでして、そうしないと、世に数多の「百千ファン」に睨まれそうだからなあ)出来るってもんでしょう。
えーと、「死に方」についての私史を書くつもりが、いつものごとく発想飛びしてしまいましたので、本日はここまで、つづきはこの次。
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