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2019年11月

2019年11月28日 (木)

港町memory 63

思いつくままになりますが、あちこちへと思考を飛ばしながら、ヤっていきます。
地獄というものはナイ、ということは前述しました。これはクリスチャンでもある社会学者で思想家の橋爪大三郎さんのコトバですが、それについては、詳細を語ってらっしゃらないので、私は私なりにイエスと「罪(原罪)」の消滅について記しました。
ちょいとかんがえてみればワカルことだとはおもうんですが、もし地獄というものがあるとして、それは誰が何のためにつくったのでしょう。この世の悪人を罰するため、と、簡単にいえばそういうことですが、これはどうかんがえても(ちょいとどころではなく、どうかんがえても、です)オカシイのです。地獄というものを神仏の創作物、造物だとすると、ニンゲンはわずか百年程度の人生における罪業で、永遠の苦しみを受諾しなくてはならないことになります。日本には終身刑はありません。死刑に次ぐものとしては無期懲役くらいです。しかし、地獄の刑罰は永遠です。
そのようなものの必要性がいったい何処に在るのでしょう。
連続殺人で、五人殺した悪人とやらがいるなら、あの世とかで五回殺されればそれで帳尻はあうはずです。戦争で一度に千人殺したなら、その千人の中の一人として一度殺されれば算盤は合います。だいたい、戦争での殺人は殺人とはいえません。戦争そのものが「悪」だからです。ならば、戦争それ自体を地獄とやらに送ることのほうが重要です。(それは無理。なるほど、神仏の力の限界ですナ)
「死刑」ついても、前回の「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」が大きく関係してきます。「一人称の死」の場合はたいてい化けて出て、自分を殺したものを殺します。「二人称の死」の場合は、かなり複雑ですが、自らが「自分は死刑になっても仕方ない」と認知するのと、冤罪とではだいぶんにチガイマス。「三人称の死」の場合、これが最も多いのですが、これは「社会的な死」ですから、社会が加害者に「死刑っ」と命じれば加害者が「ヤダっ」といっても「死刑」になります。社会的に死刑が廃止になれば、死刑は廃止になるのは当然のことですが、そうなると「私刑(lynch)」が増えるかも知れません。この「三人称の死」と死刑についても、私なりに前述しました。
では逆に天国とか極楽はどうでしょう。これは創造者、造物主は明確に神仏です。
仏道では六道輪廻という教義のある宗派が多数あって、六つの輪廻転生(死後の世界)があります。ここでキリスト教のいう「天国」に近いものは「天界」です。天界では、最低でも九百万年の命があります。しかしその命が終わると、地獄でも最悪の最低層の「無間地獄」の苦しみの六倍の苦しみが待っているとされています。
そういうものがいったい何のために必要なのか、記されているテキストは存在しません。
「天国」は永遠の生を授けられるところです。他にどんないいことがあるのか、教派によってチガイマスから、一慨にはいえません。ダンテの『神曲』にしたって、地獄と煉獄は書き込まれているのですが、天国になると、あっさりしたものです。作曲家のリストも、『神曲』の構想をもとに『ダンテ交響曲』を作曲しようとはしたのですが、天国を描写するのは不可能ではないかとワーグナーに意見され、けっきょく、煉獄を描いた第2楽章の終結部で天国を象徴する「讃歌」を置くに留めていますから、天国はそうとうimageしにくいのではナイかというのが私の感想です。地獄も、たいていの教派、宗派で似たようなものですが、私も『日和見主義』以外の観点から、地獄というものは存在しない、とかんがえているのですが、ただし「この世以外の」という文言が付きます。「この世」以上のどんな地獄があるというのでしょうか。とてもimage出来ません。切り刻まれたり焼かれたり、血の池で溺れたり、針の山やら氷の世界、その程度の(いや、もっとひどい)地獄は「この世」のいたるところに在ります。
さて、では、そういうものをかんがえに入れないで、死後(というか、正確には生が終わった後)のことを次回は妄想することにします。

2019年11月27日 (水)

港町memory 62

/ヒトの物理的、生物的、メカニズム的、生理的な「死に方」のほうも/って、重要なのはやはり医学的でしょ(自省)。
医学(医療)において、ヒトの「死」というものは、どう定義されているのでしょうか。くだいていえば「何をもって、そのひとが死んだ」と決めるのでやんしょか。
そこで、『死とは何か』別冊Newton(ニュートンムック2019/05/10発行)というワケ、なんだけど、どうもいつものNewtonらしくなくて、歯切れが良くない。天文、物理などの分野では、読みごたえがあるんですが、こればっかりは、ブルバの切り貼りを読んでるようで、ふーん、そうなんだと溜飲を下げたのは巻末の養老孟司さんのインタビューくらいでした。が、ともかくも、本編にも医学的に興味をひくようなことは一応書いてあります。そこで、「生と死の境界を誰が判断するのか」なんですが、これは、やっぱり医師が、なんですナ。医師だっていろいろいますが、養老センセイにいわせると、何をもってひとが生きているか死んでいるかを判断しているものは、/医師の書く死亡診断書/ということになるそうでやんす。よく「三徴候の死」というコトバが使われますが、養老センセイはここに「古くは」とことわりをいれてらっしゃいます。「臓器移植法には脳死は死であるとはいっさい書かれてません」だそうで、じゃあ、どう書いてあるのかというと「脳死した者の身体から、移植用の臓器を摘出出来ると書いてあるだけです」なんだそうですワ。
「三徴候の死」というのは、①自発呼吸の停止、②心拍停止、③瞳孔が開く。最期の「瞳孔が開く」が脳死にあたるワケなんですが、テレビドラマや映画なんかで、すぐにKrankeの瞳をペンライトで診て、「死亡時刻〇時〇分」なんてことはナイのだそうです。ありゃあ、あくまで、ドラマの進行(time)に影響しないようにヤっているだけで、普通30分以上は時間をおいてから瞳孔検査というのはするそうです。とはいえ、この「三徴候」に関してはあくまで医師の判断であって、というか慣例みたいもので、エビデンスはナイ。つまり、「死とは何か」は医学(医療)的には、もう少し拡げていうと科学的には定義出来ていないのです。しかし、なんか決めないと臓器移植なんてやれません。ここで、臓器移植を待っている患者のほうは、たいてい両極の気持ちに苛まれる(はずです)。「早く死んでくれねえかな」と「臓器を頂くヒトに対して早く死んで欲しいとおもうのは良くない・・egoist・・んじゃナイかな」ですナ。
私の場合「臓器移植はしません」と、国民保険証にはそう記してあります。アイバンクの登録もしていません。そういう善意は「生きているうちに」ヤッておくべきだとおもうからです。不遜ないい方でいうと、医師がみなdoctor Frankensteinにみえます。 
医学(医療)に「死の定義」はなくとも、生物にとって「死ぬ」ということは「体細胞(生殖細胞以外の細胞)」の死だということはワカッテいます。ここは注目すべきところで、私たちが死ぬのは「生殖」によって子孫を遺すための必須手段であって、そうでナイと、種の絶滅に陥ってしまいます。(この辺の詳細はNewton読んで下さい、ネ)。なるほどねえと、おもいまっせ。
もう一つ注目すべきは、フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチが、死を三つに分類していることでしょうか。「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」で、養老センセイは、「一人称の死」はかんがえても意味がナイ、何故ならば自分で自分の死を観察することは出来ない(例えていえば、自分で自分の解剖は出来ない)と述べています。「二人称の死」とは、親しいひとの死で、これが最も自分自身に影響を与える。これはここ数年、私、そうでしたワ。途方に暮れると養老センセイはおっしゃってますが、こちとらはもう路頭に迷うありさまでした。
「三人称の死」、これは赤の他人の死なんですが、現代はこれが増加している。そうなると、「二人称の死」は減少して、つまりはこれは誰がいったか「死ぬのはいつも他人」ということになります。これを「死は社会的に存在するものだ」と養老センセイは述べています。もちっとワカリヤスクいうと、私もよくそういう経験をするのですが、銀行口座の住所変更手続きで、北村想(これペンネーム)と北村清司(本名)が同一人物であるということを証明する手段がナイのです。(けっきょくいつも筆跡鑑定になる)。もっと簡単に、運転免許もなし、健康保険証も(病院に来たのではナイので)持参していない場合、本人(当人)がその場にいるのに、窓口では、確かにそのひと本人であるとワカッテいても困ってしまうという、この現象。よくあるパターンでいえば、患者が目の前にいるのに、カルテや検査結果のデータをみながら診察しちゃう医師がなんと多いことか。「ここが痛くて、この辺が詰まっているようで苦しくて」と、いくら口頭で訴えても「データをみる限り異常はナイんですけどねえ」という医師、よくいますよね(そういうクソ医師)。つまり、テキスト化(書類に)されていない、生きていないもののほうを重視するのが社会の傾向であり、まさに「死」もその中に含まれるというワケです。ひでえ社会(世界)だナァ。

2019年11月26日 (火)

港町memory 61

アリストテレスとハイデガーのことを話すと、またかよと、顰蹙(この漢字ムツカシイですね。ひんしゅく、なんですけど)を買いますが、顰蹙を買うというと、漢字が似ていることから蟹(かに)を買ったふうにおもわれがちですが(おもわないよっ)、この場合の「買う」は購買の売り買いとは関係ありません。似たようなものを例示しておきますと、「喧嘩を売る」と「その喧嘩、買った」なんてのがありますから、そんなもんなんでしょう。
ハイデガーがアリストテレス2000年の哲学を引っ繰り返してしまった、ということはスコラ哲学(キリスト教神学をアリストテレス哲学で補完したような哲学・神学)に大きな驚異ではあったでしょう。その弟子というのではありませんが、追従者のサルトルの恋人のひとりであったボーボワールの『第二の性』(第二というのですから、順序数で二番目ということなんですが、ボーボワールもサルトルに負けず劣らず恋人が多かったので、その数をいうのではありません)を読んだのが、高校生の頃でしたから、女性解放とかそういう方面はよくワカランながら、記憶に残っているのは、だいたい次のような論旨です。〔いま、ここに神が現れたとする。しかしながら、その神を神だと保証するもの、認知、認識するものは誰か。他ならぬ人間ではないか。もしそこで/あんたは神ではナイ/、あるいは/あんたを神として認めない/と、人間が明示、宣言、拒絶、否認したら、その神はたちどころに神ではなくなる〕つまりアリストテレス哲学の引っ繰り返しというのは、こういうことなんですが、ここから、「人間は本質的なものではなく実存である(『実存主義とは何か』ジャン・ポール・サルトル)という大見得が出てくるというワケです。
そんなことをいわれたとしても、どうも、さっき実家にマチガッテ電話をしてしまったら、母親の機嫌がかなり悪く、つまり、容態が悪いのか、サポーターの女性のhairstyleが気に入らなかったからなんでしょうけど、たしかに新しく交替になったヘルパーさん、初見で私も、「ああ、このヘルパーさん、水商売のひとみたいやな。hairstyle、あかんわ」とはおもいました。母親は私にワカルように、指で×をつくってみせてましたけど。その母親にはなんの関係も影響もナイ。
で、本質だろうが、実存だろうが、死ぬのはつらいのです。男はつらいよ、は国民に定着しましたが、死ぬのはそういった意味ではなくつらく定着しています(「死ぬのはつらいよ」ですな)。鼻や口からボタボタ出血している母親に「あんなぁ、ボーボワールいうひとは、ぎょうさん恋人いたんやけど、どうも、どの男もアッチのほうがアカンかったみたいやねん」というても何の慰めにもなりません。まして「人間は本質やのうて実存なんやねんで。まだ、血ぃ、止まらんか」「あがんば(あかんわといっている)」血管に詰め物をする血管塞栓術という忍法小説の忍術みたいな方法が可能なのかどうか、かかりつけ訪問医療医師は、かかりつけ口腔外科医師と相談をするようですが(あくまで私の憶測ですけど)、私は素人ながら、いま出血している血管を閉塞させても、漏血自体が止まるワケでなく、出血は一時的に(ほかの血管から出血するまで)止まるだけなのではないか、と、これは本質ですな。ならば、その血管をチューブと結んで、一定の血液を排出する(いってみたら、人工尿管、人工肛門のようなもの)管が必要なのではないか。これが実存だとして、だとしても、出血が止まるワケではなく、その鬱陶しさ、苦しさからは緊急避難は出来るが、余命が伸びるワケではない。まあ、いまより楽にはなるかナァ。これはもうどっちでもエエ。くらいにおもっているんですが、たしかに「死ぬこと」についてのハナシではありますが、死ぬ前の生き方(というより生きざま)が、どんなに酷いかと、「死に方」についてかんがえるには、ヒトの物理的、生物的、メカニズム的、生理的な「死に方」のほうもかんがえないとイカンのだなあと、今日は、しみじみおもいつつ、納豆雑炊をつくって食いながら項垂れて、でも、完食したのでした。

2019年11月24日 (日)

港町memory 60

「死ぬ」ということをひとは恐れます。では「死ぬ」ことのナニを怖がって(恐がって)いるのでしょうか。
ともかくは「四苦」のひとつですから「苦しい」ということがイチバンなのかなあとはおもいますが、「苦しい」 のも「生きている」あいだだけで、死んだらどうなるのか、たぶん苦しいこともナイんでしょう。だから、「自死」「自決」「自裁」を苦しみ逃れにするとかんがえてよろしゅうごさんすかとおもいます。
次にこの世から自分がいなくなる「存在が消える」ということ、もちっといえばこの世界との「関係を絶たれる」、かつ永遠に。ということも死への恐れでしょう。
輪廻転生があるとしても、そういうヒトのハナシはまれには聞きもしますが、たいていが与太な類のようにおもえます。
たしかに自分という存在がこの世界から永遠に関係を絶たれる、無に帰する、ということをいま、この世界と関係して生きている自分からおもいを馳せると、ゾッとします。ところで、絶たれるものがもう一つあります。「私自体」です。この世界と関係を絶たれるだけではなく、死は「私」というものとの関係も絶たれます。もちろん、死んだことがナイのでそういうエビデンスを持ち合わせているワケではありませんが、死んだら死んだ私が残るかというと、まず、かんがえられナイ。
そこで、「天国」や「極楽」が並べられます。(地獄もついでに並べられますが)。これがナイとなかなかひとは宗教に向き合ったりはしないんじゃナイでしょうか。アメリカ合衆国の多くはキリスト教徒ですが、(あまり確かな統計とはいえないのですが)ある調査では死後の世界、afterlife、つまりキリスト教ですから「天国」への復活を信じているひとはアメリカ人に九割いるそうです。過激ムスリムの自爆テロの多くは自らの神の天国へのticketを信じているからといえます。
ニーチェは『anti Christ』の中で「神は死んだ、ゴルゴタの丘で磔になった」といってますが、これは正しくは「神(Jesus Christ)は殺された」というべきだったでしょう。だって、殺されたンですから。殺したのは、時のローマ政府です。もう少しnuanceを変えていえば、「神は死刑になった」になります。チェスタートンのイエスの存在解釈によると、イエスとはまさに神が人間というものを経験するための存在だったということになるのですが、それゆえに、イエスが最期に天に向かって「我が神よ、私を見放されるのか/Eli,Eli,lema sabachthani」と、「神自らが神を疑った宗教はキリスト教以外にはナイ」は、名言だと私はおもいます。これに反して旧約『ヨブ記』は好むところではなく、作者の文学的力量が不足の感が否めません。
私のような「在ってもなくても、変わりはナイ」は「日和見派」ともいわれます。「不可知論」というのは簡単にいってしまえば「神は「いる」とも、「いない」ともいえない」ですし、ちょっと難しくするなら、「そういうものをヒトは認識出来ない」となって、カントの認識論ややフッサール現象学に近づいていきますが、マルクスになると、「いないと決めてしまったほうが良い」という積極的な政治的不可知論になります。私などには、どれもごもっともでごぜえますですネ。「どっちでもイイ」というよりは「どっちにしたって変わりはナイ」なんですから。
こういう日和見主義についても、チェスタートンはうまく応えています。神と人間との関係は画家と絵のようなもので、画家は描いた絵についてそれ以上手を加えない、というものです。「あんたら、勝手にやんなはれ、その代わりワテは知りまへんさかいにな」ですかね。 
今日、この時点で現ローマ法王が来日してらっしゃいます。ヒロシマ・ナガサキへも出向いてらっしゃいます。そこでどんなcommentを述べられるのか、ちょっと気になってはいたんですが、とくに神の責任についての言及はありませんでした。「人間どうし、殺し合うのはやめましょう」と、つづめていえばそういことでしたが、残念ながら、人間の歴史というのは有史以来、この「殺し合い」の歴史といっても過言ではありません。法律的に認められた「殺し合い」というのもあります「死刑」という刑罰です。戦争なんてのは、もはや「死刑」の大きなゲーム、「死刑ごっこ」です。「殺らなければ殺られる」でんな。
ドイツの軍人エーリヒ・ルーデンドルフによって1935年に著された戦争理論の著作『総力戦』になると、クラウゼヴィッツの『戦争論』(1832年)は、クラウゼヴィッツが生きた時代でのもので、戦争は国民とは別に政府と軍隊だけによって行われるものであるというのは過去のものとなった(『幼女戦記』などを読むと詳しい・・・はずです)になりますから、そこんところで「死に方」がどうのなどと、固有の倫理性は消し飛んでしまいます。よってもちろん、私は「戦争」には批判的です。(けして、反対ということではナイ、というのがまた日和見なんですけど)。こういう日和見は、私自身、「あの野郎(女の場合でも)いつか殺してヤル」という覚悟、意志を持って生きていた時が確かに在ったからですし、いまだって、「どうせ兵士にされるなら狙撃手がイイ」とおもっているからです。いくら戦時下の命令、営為であっても、引き金を引いて相手を倒したのは自分なのだというくらいの苦痛を強いられるのが「戦争」だとおもっていますもんで。

2019年11月21日 (木)

港町memory 59

「厭神論者」「嫌神論者」という存在(ひと)もいます。「献神論者」だっているでしょうけど。「厭神論者」「嫌神論者」という存在者は、ともかくも、神が在るということは認めてはいるのです。その上での嫌や厭ですが、「反神論者」とはチガイマス。「悪魔崇拝」というのでもナイのです。私の立場に似てはいますが、私の場合をそんなふうに名付けるとすると、「抗神論者」とか、「無視神論者」「不問論者」てな具合ですかね。
要するに神様がヤルことなんかどうでもイイ、というより、こっちから手出しが出来ないことについてはどうこういっても仕方がナイというふうなんですが、成されるがままというのも癪なので、満身創痍感が強いので、心情的には抗ってみるといったふうですかね。ハルマゲドン戦争(ヤハウェとサタン=ルシフェルの闘い)は永遠の遠くからずっと続いていて、そうなると、私なんかは、どっちかの二級天使なのかも知れませんが、どっちの味方なんだかワカンネので、ワカロウともおもわないながらも、「こりゃ、ネエだろう」という「試練」だか、「災厄」を目の当たりにすると、「辛いねニンゲンは」とおもいます。
たとえば、私の母親は九十歳ですが、口腔癌で、毎日、口や鼻から血を流します。ほぼ一時間単位で。血には驚きはしませんが、その処置はもう素人では無理だと判断したので、看護師二十四時間常駐の施設で、現在の訪問医療のdoctorの医療が出来るところを探しました。
えれえ高額です。クラモチくんも癌で死ぬ前、保健治療が終わるとき(つまりそのアトは保健外になるので、一ヶ月200~300万円かかる)いみじくも、いつもと同じ口調でいいました。「銭の切れ目が命の切れ目だからなあ」
そこで「緩和ケア」なる「死に方」がいまの世界では用意されている。私はこれに頭を抱える。つい昨日、医師、看護師、訪問看護師、ケアマネ、私、弟、当然患者本人(母)とカンファレンスしながら、私に過ったことは「我々は何を何の為に闘っているのだろう」という矛盾と不条理に満ちたな問いです。
患者の死期を遅らせるためなら、患者の苦しみはその分、長引きます。だいたいにおいて「緩和ケア」というものは「楽に死ぬ」という大義名分がありますが、それはのっけから矛盾だということは誰もがワカッテいる。
「生病老死」、いわゆる釈尊の説いた「四苦」は「苦しみ」だから、そこからはニンゲンは逃れられません。つまりは「苦しい」のです、死ぬということは。というか死ぬこと自体は苦しくはありませんが、そこまでの仮定は苦しい。極端にいうなら、ヒトは一生かけて死ぬのです。
カンファレンスが終り、みなさん立ち去られてから、母は疲れて居眠っておりましたが、捨てぜりふのように私はこういいました「面倒くせえナ死ぬことは、願わくば猫の如くふらっと消えて、だれのお世話もお手間も面倒もかけずに、歩けるうちにオレはカタをつけたいね」
釈尊は「解脱」といい、ニーチェは「永劫回帰」をいい、キリスト教は「天国」が売り物で、「天国」については「実に入りにくいところだ」といったり、「誰しも行ける」といったり、罪があるだの「原罪」だの。釈尊の教えは、まったくもう百花繚乱、私は原始仏教の釈尊の遺した「自燈明 法燈明」「諸行無常」「処法無我」「涅槃寂静」だけしか信用してませんけど。
真っ当ななクリスチャンは、キチンと「地獄なんてものはナイんです」とはいいます。そりゃそうです。あったらイエスの諸行はみパーになっちゃう。ゴルゴタの丘で「全てのひとの罪をいっさい背負って処刑された」ひとりの、ニーチェにいわせれば唯一のキリスト教徒の仕事はパーになるということです。
「罪」とか、原罪とか、そういうのもう、反吐が出ます。好きで生まれたんじゃナイのに、生まれたときからニンゲンは罪人(つみびと)で、そんで斬り人教徒(おっと、うまい誤字だなあ)にならないと罪は消えないなんて、そういうのを「手前味噌」というのです。和製英語でいえばmatch pompですな。
いま目前で血を垂らしている者を前にして「ひとは原罪があって」とか、「死んだら極楽浄土に行けて」とか説教しているほど、ヒトは長閑な存在ではナイのです。
「死ぬとは何か」は、「死んだらどうなるか」より重要な、生きているものの課題です。 

2019年11月15日 (金)

港町memory 58

風景というものは、状況になり、それは情況となります。状況と情況のチガイは何かについては、「ヤフー知恵袋」のベストアンサーにいいものがあるので、かってにコピペしておきます。「情況は内面的な移り行く様子 状況は一般的な、外から見た移りゆく様子」単純に現在は多く状況が使われているのでどちらでもイイということになっていますが、分けたほうが理解しやすいでしょう。
風景、情況、状況、この三つを観るのに私自身が観た具体的な事象を述べておきますと、うちの近くには、セブン・イレブンとファミマの二つのconvenienceが競うようにしてあるのですが、ファミマの特典はイートインがあることです。セブンにはありません。
私はコンビニでの買い物が多いので、殆ど毎日コンビニのお世話になります。で、セブンとファミマを渡り鳥することもしばしばです。(もちろん、置いてあるものにチガイや差があるので)。
昼前、セブンに行きました。駐車場の中程まで来たとき、爺様が、コーヒーとパンとをもって杖を尽きながら出てきました。で、セメントの車止めに座って食べ始めました。こういう風景は近頃よくみかけます。車で来てる客は、車の中で食ってます。つまりは消費税が持ち帰り8%と中で食べる10%になったからですが、ベンツに乗りやがってケチな野郎だと、車中のものに悪たれている場合ではなく、これから木枯らしの季節になると、爺様は北風の中であんなふうにパンを食うのだろうかと、私の歩は止まりました。と、中から女子店員さんが出てきて「どうか、中に入って下さい」と、片手に折り畳みの椅子をもちながら、爺様に話しかけました。爺様は「持ち帰りだから」と遠慮していましたが、店員さんに説得されて中に入りました。よくいえば美談です、ここまではですがネ。
しかしながら、私の推測ですが、やがて、「店の前で、ものを食べるはご遠慮願います」という貼り紙が出るでしょう。そうして、次は「飲食は・・・禁止になりました」と出ます。世間をよく知っているひとに、そうなるんじゃねえのかな、と、このハナシをしたら「そういう混乱を避けるために、どっちも10%になってチョンよ」と、応えられました。なるほど。「そんなことはハナから決まっていることなのよ。ワカッテいて、まあ、過渡期としてみているだけね」チョンでござんすね。
ですから、「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでもイイ」どうでもイイのです。
と、突然いいだしても、まさに突拍子もナイんですが、こういうことはgovernmentの策謀ですからねえ。
けれども、この場合、「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでもイイ」のcategoryになります。つまり神はこういうことには関係ナイような感触、雰囲気、ご様子です。
旧約聖書「ヨブ記」の脅しでも神は「おまえは外の木枯らしの中でパンを食うようにしてやる」とはいいません。「山を動かすことが出来る」と威張るだけです。山なんか幾らでも動かしてもらってケッコーと私はおもいます。爺さんとコーヒーとパンの風景が情況から状況に変化するほうが、切ナイのです。松田優作主演の映画『家族ゲーム』(監督・脚本、森田芳光)では、家族会議(とはいっても夫と妻だけ)が車の中というシーンがありましたが、ベンツでパンはまだしも、車止めで木枯らしは辛い。山を動かしたってどうなるものでもナイ。ですから理屈だけでいえば、「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでもイイ」はちゃんとハナシが通ります。つまり、神は消費税に関してはどうでもイイ、ようだからです。とはいえ、もうすぐ新年、神社にお参りするひとの中には、賽銭投げて「どうか消費税が下がりますように」と誓願のほうの「願」だけを祈るってひともあるでしょう。
このThema、まだつづきます。
 

2019年11月12日 (火)

港町memory 57

最近のニュースで、ふーんとおもったんですが。
あんまり〈最〉が付くほど近くはナイかも知れませんが、あっしはテレビを 観ない(というより観られない状態にしてある)ので、なのに、ラジオやら、ネットやら、通院先の病院、医院の待合室テレビでさかんにヤってるもんだから、スゴイnewsなのかも知れません。そのnewsというのは、/量子コンピュータが、スーパーコンピュータが1万年かかる計算を(問題に)3分20秒(つまり200秒)で答を出した/というものなんですが、グーグルの研究室だかがヤったんだとか。グーグルはそういうこともヤってんだのほうにむしろ驚きましたが。
けれども、ここでふと疑問、というか「明日ベルが鳴る(アスペルガーと指さされている私自身を私自身でこう揶揄しております)」な私といたしまして脳裏に浮かんだのは、それじゃあ、その量子コンピュータが3分20秒で出した問題(計算)の解答が正しいかどうかの「検算」はナニが(誰が)やるんだろう、でした。たとえば、
12,345×54,321=695,282,745という計算は、卓上計算機でもアッという間に出来ます。逆に、
54,321÷12,345=4.4002430133657も、パッという間。時間かければ、これは筆算でも算盤でも検算出来んじゃねえのかな。乗除計算が加減計算に出来る指数関数計算とかいうのでヤレば。
スパコンの性能をちょっとウィキすると、TFLOPSという用語が使われていて(たぶん、頭のTはTeraなんでしょうが)/TFLOPSとは、コンピュータの処理性能を表す単位の一つで、浮動小数点演算を1秒間に1兆回行うことを表す単位のことである。基本単位となっている「FLOPS」は、1秒間に処理可能な浮動小数点演算の回数を表す際に用いられる。テラ(Tera)は1兆(10の12乗)を意味している。例えば、3TFLOPSのシステムは毎秒3兆回の浮動小数点演算を行うことができることになる/
と、なってます。これで、もう、ギャーッ、オトロチイっ、てな具合なんですが、こういうのが1万年もかかるところを3分20秒が量子コンピュータでござんすから。逆に何を計算したら(どんな問題を解いたら)3分20秒もかかるんだろうと、疑問におもったりします。
量子コンピュータのアルゴリズム(計算方法とでもいいましょうか)は、状態ベクトル(波の重ね合わせ)だとありました。ですからまあ、確率のcategoryなんでしょうけど、いずれにせよ量子のそういった作用(動き)を用いているんですから、基本的には(本来的、原則としては)計算時間は0(ゼロ)です。量子は時間というニュートン力学的単位を持っていませんので。従ってこの3分20秒は、量子力学値をニュートン力学値に変換する時間のことだとおもわれます。
さて、本題である「死に方」についてなんですが、なんか横道に逸れ過ぎて今回も突入することが難しくなっちまいました。ということで、次回へと。

2019年11月10日 (日)

港町memory 56

/11月4日に放送された『チコちゃんに叱られる!!』(NHK)で扱われたテーマのひとつ「なぜ飛行機は飛ぶ?」が話題となっている/(ニュースサイトしらべえ)
らしいです。
私はテレビは観ませんが、時折、泊まりの仕事でホテルに宿泊した場合、読書したりとか原稿書いたりとかの仕事は一切やんないので、テレビ、観ます。で、この『チコちゃんに叱られる!!』(NHK)も偶然、何度か観たことがあります。
番組の構成は、問題が出て、回答者がなんかいうて、チコちゃんが登場して、珍回答に名解説をして、納得。という段取りです。
この「飛行機問題」は観ていませんが、そんなふうで、/チコちゃんの回答は「例えるなら翼の下は風船から空気が出ようとする感じで翼の上はストローで吸い上げられる感じだから」という。何を言っているのか通じる人は多くないだろう/。
動画はみていませんが、この文章からはおそらく「揚力」のことをいっているのだろうくらいは察しがつきます。なんでかというと、私は飛行機恐怖症で、何故飛行機が飛ぶのか、よくワカラズ、当時劇団員だった、国立大学の物性物理専攻のものに訊ねたのですが(彼も飛行機驚怖症)、そこで揚力のことを教わったものの、彼自身「何故、揚力が生ずるのかはまだワカッテいない」ので、巡業のときも飛行機には乗らず、専ら運搬搬送の係となるために運転免許までとったという手堅い輩だったので、揚力のことは記憶していたからです。
/空を飛ぶことの出来る飛行機には、色々な力が働いているが飛行機を空へ上昇させる力である「揚力」が重要であるという。番組では、翼の形をした模型に風を当てると宙に浮く映像を流した。翼に風を受けると、大気圧の掛かり方が変化し、揚力を得る/(しらべえ)
揚力は、翼の上部と下部の気圧の差から生ずるものです。
/翼の先端に空気の圧力が多くかかり、翼の上部分への圧力が減るという。このときの翼の状態がチコちゃんの回答の「例えるなら翼の下は風船から空気が出ようとする感じで翼の上はストローで吸い上げられる感じ」になるようだ/(しらべえ)
飛行機の翼は上部は曲線、流線型に、下部は直線になっていて、先端にあたった空気は上下に分かれて下端で再度出会うのですが、このときの経過時間が同じなのです。つまり上下通過の速度が同じということになります。これはちょっと矛盾です。翼の上部と下部とでは距離がチガイマスから、出会う空気に時間的なズレが生じるのが常識です。ところが、同時刻に出会う。ということは、翼の上部の空気は下部よりも密度が薄く(つまり引き延ばされている)ということになります。密度が薄いのですから濃い部分より軽くなって、つまりは引っ張りあげられ、かつ濃い濃度には押し揚げられる。と、これが揚力だというコトなんですが、そうなると、大気密度の濃淡の具合で、飛行機はなんぼでも飛行不具合になって、いつでも落ちることになります。「だから、ボクは飛行機には乗らない」と、国立物理の彼はトラックを運転する役目に着任したのです。
さて、では、このチコちゃんの解答は正しいのでしょうか。
実は、マチガイなんです。これは、いまは「飛行機浮遊の都市伝説」といわれています。
飛行力学などを大学で教えている教授の書いたホンも、幾種類も出ていますが、国内外のそのてのホンの70%が 間違っているという調査もあります。
チコちゃんの説がマチガイだとしたら、
/一番よくある間違いは、翼前端で上下に分かれた空気の流れが、後端で「同時」に出会うとする、等時間通過説(同着説)である/。
この、翼の上下の大気密度から生じる押し揚げと吸い上げを取り上げたからでしょう。
/飛行機の翼で揚力が発生するのは、翼の上面を流れる空気の速さが下面より速く、従って、ベルヌーイの定理により、上面の気圧が下面より低くなり、翼は上に押し上げられる、あるいは吸い上げられるからである/
このあたりまでの解説がチコちゃんにあったのなら、それは幾分か正しいでしょう。(観てもいないのにゴチャゴチャいっている私が最もマチガッテいることは承知しとりま)
/上面の流れが速いことをさして、物理学的には翼回りに流れの循環があるという。翼を回る渦巻きと思えば良い。物理学的には循環の大きさが揚力を決める。問題はなぜ循環が発生するか?循環の大きさはどれくらいかであるか/
/翼は上面がふくれた翼型をしているから揚力が生まれると言う解説もある。それも間違いである。別に紙飛行機のような平面翼でも飛ぶ/
/飛行機がなぜ飛ぶかは、100年も前から分かっているのである。その理論では、翼に働く揚力は非粘性、非圧縮、定常の流れの場合
揚力=空気の密度×空気の速度×循環
である/
引用ばかりしていても仕方アリマセンね。
ベルヌーイの定理ってのが何なのかだけ、最後に説明して、虎の巻を紹介しておきます。
ベルヌーイの定理とは、流体内のエネルギーの和が流線上で常に一定であるという定理です。つまり、流入エネルギーと流出エネルギーの和は常に一定だということです。飛行機の翼でかんがえると(私の浅薄な脳がかんがえてるんてすからマチガイかも知れませんが)
・翼に流入する運動エネルギーは流出するとき減少する
・圧力は逆に増加する。
・位置(ポテンシャルエネルギー)も増加する
ということになります。
飛行機が飛ぶ理由のミソは、/物理学的には翼回りに流れの循環がある/というところでしょう。詳細は
http://jein.jp/jifs/scientific-topics/887-topic49.html
で、どうぞ。

港町memory 55

ヒトは信仰者であっても、無神論者であっても共通にいえることは必ず〈死ぬ〉ということです。古今東西死ななかったヒトはひとりも在りません。
ところで、「無神論」という副詞的名詞、あるいはこれを命題に書き換えて「神の存在を認めないものは無神論者である」としてみると、ここに矛盾をみつけることは比較的たやすいことです。「神の存在を認めない」という命題部分には、ちゃんと〈神〉が認識されているということです。「神という存在を認識しない」としても同じです。率直、直截に「神は存在しない」と客観的表現に書き換えても同じです。「神の」「神は」といった場合、そこにそう述べた主体に認識された〈神〉というものがなければ、この命題は成立しませんし、成立させようとすると〈矛盾〉が生じます。たとえ「神のようなものは」としても、それは変わりません。「神」とコトバにした瞬間、そこには主観としての〈神〉がimageとして存在してしまうからです。
私は信仰者ではありませんが、そういった理由で無神論者でもありません。
私の場合の神に対する命題、定義は、
「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでもイイ」
になります。
これは不可知論とはチガイマス。/(宗教的不可知論のひとつのタイプとしては「神はいる」とも、「いない」とも言えないのだ」とする中立的不可知論がある。また、カントが『純粋理性批判』において示した、物自体は認識できず、人は主観形式である時間・空間のうちに与えられた現象だけを認識できる、とする考え方も一種の不可知論である)/大学の哲学科ではカントまでは教えるそうです。ここからは独自に誰かの哲学を専攻していくらしいですが、つまりカントの認識論はその基点になっているということでしょう。拙者も『純粋理性批判』は読みましたが、事象のカテゴライズの仕方に、へーえ、ふーん、と感心したことは記憶にあります。
ほんでもって「不可知論」、これは釈迦の思想における「霊魂不説」とよく似ています、「なんぼかんがえても、本質的に答えの出ンモノは、かんがえてもしゃあないんや」という釈尊の「霊魂不説」はむしろ不可知論に近いのですが、どちらかといえば(釈迦の思想的態度としては)八正道の「正しい」とは何かをかんがえたほうが、錯誤に陥らなくてすみます。そこでいわれていることは極端を避ける「いい加減」「中道」といったところなんですが、私の場合の「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでイイ」は、それよりも、積極的なapproachとおもってもらえればよろしいでしょう。
現象学的にいえば、エポケー(現象学的還元)に近いかもね。つまり、神の存在の有無については、生きる上で考慮せず。ということになる。(もちろん、考えることは重要なんでござんすが、ですから算盤の上で弾かないといったほうがイイかなあ)。
こういったことは、マンの『魔の山』や、カミュの『ペスト』やマルキ・ド・サドの『ジュスチーヌ』シリーズないしは『悪徳の栄』からの影響が少なからずあります。
で、それなら、「神というものが存在しようとなかろうと、どちらでもイイ」とは、いま少し具体的に、もしくは「死に方」というThemaに沿って述べるとどうなるのか、これまた次回ということにしておきます。

2019年11月 6日 (水)

映画評『屍人荘の殺人』

三年ぶりになるでしょうか。東宝試写室で試写を観ました。ずっと自律神経の変調で90分の映画も観ることが出来ず、ブロック注射を始めて100回あたりで、なんとか自律神経のresetのほうはうまくいったようです。(痛みはまったくとれませんが)。
で、タイトルの映画を観にいきました。
原作は国内主要ミステリー賞4冠達成の新人(デビュー作)今村昌弘さん。監督は木村ひさし(「金田一少年の事件簿neo」)、脚本は蒔田光治(「トリック」シリーズ)主役に神木隆之介、浜辺美波。上映時間2時間。
で、ひとことでいいますと(ひとことでいえるので)、「社内食堂の本日のサービスランチを食った感じ」でした。
いわゆる「閉ざされた山荘」もので、そういうミステリに重要な
〇何故、犯人はそのような不利益な場所(人数が限られて来るので、真犯人がワカッテしまう確率がぐぐっと上がる)
〇何故、そこが「閉ざされた山荘」になったのか。
の二つの課題はクリアしています。
後者のクリアの仕方が奇抜(奇想天外という宣伝)ですので、これも4冠達成の理由かとおもわれますが、前者はありふれていて、もう黴が生えているプロットです。
おそらく、4冠なんですから、原作はかなりの力作だとおもわれます。
しかし、映画というものは、予算と時間の関係で、チャチャっとやっちゃうことがしばしば。
蒔田さんお得意の小ネタもたくさんあるんですが、みな空振りだとおもわれます。「まだ、こんなことヤッてやがんの」というふう、ね。
事件の中心現場、ペンション紫湛荘はセットを組んだということですが、にしてはカメラが良くない。ミザンセーヌまるでダメ。テレビドラマみたいでした。
斬新なトリック、のはずでしたが、単調、平板な進行のために、「これは謎だな」「おっ、なんということだ」という、 ミステリ特有の起伏の面白さは何もアリマセン。もったいねえなあ。
15人の容疑者という触れ込みなんですが、こいつ怪しいとおもわれるのがいない。伏線の張り方から、ああ、このひとが犯人ね、というのは、ミステリが好きなひとならすぐにワカル親切さ。従って「真犯人は誰だっ」という興味がわいてこない。これ、致命的欠陥。
せっかくの新人作家渾身のトリックがどれも活きてこない。ああ、もったいない。といって、登場人物の固有性が殆どナイ。誰でもイイというふうですが、原作はたぶんそうではなかったんでしょう。
これ以上は書くこともナイので、もうひとこと付け足すと、小学生向け探偵ドラマかな。いやあ、ほんとうにもったいないなあ。幾らでも面白く出来たのになあ。
東宝さんも、最近、勝ちつづきで、油断丸見え。こういう業界は、浮き沈みだぞ。

港町memory 54

拙著『恋愛的演劇論』の最終章、つまり量子力学を用いて試みられている章はマチガイだらけなのでござんすが、それでイイのではないかとおもっている。そこまでの章があまりに真理であるので、読者は反論のしようがナイらしく(いままでそういうことは一度もお目にかかったことはナイ)、つまり反論というより、難解らしく「これは演劇論ではなくて〈哲学〉だ」という書評はあるにはあったが、哲学も引用、ふくまれているので、まあ、マチガイではナイ。(と-んでも-本という噂もあるにはあるが)。
思い出せる程度でいうと、ハイデガーが何故二十世紀最大の哲学者と持ち上げられているのかということ、これは、欧米のみの評価で、東洋哲学や、キリスト教categoryでも、ギリシャ正教会あたりはあまり感知していない(だって白(知ら)ねえんだから)。要するにアリストテレス二千年の哲学を接合(融合なんだろうけど)させた(正確にはそうしなければしょうがなかった)神学、スコラ哲学が引っ繰り返ったということに過ぎない。だから、デカルトの哲学なんぞはビクともしていない。私にしてみれば、アリストテレスの形而上学より、デカルトの神学と数学の邂逅のほうが、後にニュートンに対する影響をかんがえると、より科学的で、いくらハイデガーでもこれは引っ繰り返せない(だいたい、ハイデガーにしてもサルトルにしても数学をそんなに重要視していない)。従って、思い出せるもう一つは、数学のスゴサだなあ。
それと、釈迦の思想、つまりは仏教なんだけど、これまた宗教となってからは堕落の路地の枝分かれになりますからなあ。
/この世のあらゆるものは人の目には見えないほど小さな原子が集まってできており、あらゆる物の根源である粒子の総数は増えも減りもしない/というギリシャ哲学はエピュキュロスに始まる。ギリシャ哲学は明るいのだ。だからして、マルクスが、来るべき共産主義の未来社会のmodel caseをギリシャ哲学における社会に深謀遠慮していたのも納得出来る。
釈迦の思想の明るさは、西洋哲学では誤解されて「虚無の哲学」といわれているところも多いのだが、私はエピキュロスの思想と釈迦の思想とは仲良しなんじゃないかと、ほんわり気分で無想している。少なくとも、キリスト教暗黒の世界、マッチポンプ(英語にしてしまうとMediative profiteeringになる。これは不当な利益、暴利を貪るという意味になる)なのだが、英訳でもいい得て妙。的を射ている。どうしたって〈権力〉を最もなものとしなくてはならない思想に(そう、あたかも『幼女戦記-東條 チカ (著),カルロ・ゼン (原著)』のXのごとしだ)対しては、それに敢然、毅然と立ち向かう『百億の昼と千億の夜』の阿修羅王のごとき精神(mind; soul; spirit; mentalis)を感じるし、光瀬龍さんが、阿修羅王とともに主人公として扱っているのが、釈迦(シッダルータ)とプラトン(オリオナエ)というのも了解(とても理解したといえるほどではナイのでこれはかなり謙遜しているのでして、そうしないと、世に数多の「百千ファン」に睨まれそうだからなあ)出来るってもんでしょう。
えーと、「死に方」についての私史を書くつもりが、いつものごとく発想飛びしてしまいましたので、本日はここまで、つづきはこの次。

第二十九回

第二十九回

 南蛮蕎麦が蕎麦に鶏肉を和えたのに比して、開化蕎麦のほうは、チャンポン麺に似た拵えで、沖縄のソーキ蕎麦に野菜を入れたタンメンという感触の蕎麦だった。ちなみにタンメンというのは「温麺」「汁蕎麦」が基本の、日本の温麺でいうところの卓袱(しっぽく)のことで、ほんらいならば、うどんや蕎麦に山菜が入っている。中国では汤面という特殊な漢字になり、英語ではtangmianとなる。雑にいってしまえば、野菜ラーメンのことだ。開化蕎麦のほうはここにソーキ、つまり豚肉の塊が入っている。牛ばかりが、開化したワケではナイということだ。

んなことより、もう物語のbreakが長すぎて読者は、何処までハナシが進んだか忘れているだろうけど、作者の趣味の小説〈出来たとこまで小説〉なので、堪忍ナ。では、つづき。

 しかし、残念ながらこの不思議なdateは実現しなかった。朧が断ったのではナイ。
 両者にほんの数秒の沈黙があった。別に互いに照れていたのでもナイ。幾らなんでもそれほど純情無垢に生きてきてはいない。単純な唖然呆然の体(てい)。
 両者の沈黙を破ったのは、邪魔者、というより本筋が入ったからで、両者、ともに殺気を察した。
「なるほど、面目にかけてということかの。伴天連の頭目らしいのがお出ましか。某が相手ではなかろう。お嬢、遊んでみるか」
「そうね。ひとりひとりは面倒だから、それに頭目を斬ればこのゴタゴタは済むことだしね」
 右近の眉間がかすかに捩り、朧の視線に敵手が映った。
 まるで死に装束のような浅葱色、貫頭衣の出で立ち(古代ローマで上流階級の下着ないし下層階級の普段着として着用されたもので、日本でも弥生時代には一般的衣服であった。簡単にimageすれば、マカロニウェスタンなどでみられた南米のポンチョ)。辮髪(べんぱつ)と称される髪形で、それが、sunglassesなんぞをして、腕組みしつつ直立不動ながら、宙に浮いている。
 朧も右近も、瞬時にその場から消えた。そのあまりのあざやかさに、
「女人ト、甘くミタのが油断だったのだろう。この気配の消し方ハ、見事ダ」
 辮髪は周囲に気のantennaを拡げたが、受信された気配はなかった。
「逃げたワケではあるまいが、これでは勝負にならぬぞ、オンナっ」
 仕方なくなのか、そう、朧に対してバテレン親分は声を放つ。しかし、応答はナイ。
 辮髪は次に自身の右の掌を観た。掌には動画像が映し出されている。
が、そこにも朧の姿はナイ。
「隠遁を極めているのか、それとも異界に入ったか。己が妙掌鏡にも映らぬとは」
 と、突然に辮髪の顔が青ざめた。
「まっ、まさか」 
 と、発するや否やの出来事だった。辮髪の腹が裂けた。血肉、腸とともに、外に飛び出たのは不知火朧。朧は、辮髪の体内に潜んだのだ。
「朧十忍が一つ、胎内隠遁」
えげつないこと、山風老師の真似のような術だ。

2019年11月 3日 (日)

港町memory 53

ずうっと前にも書きましたが(とかいいつつ、そういうことの多いことについて反省もせず、いいたいことは何度いってもヨイとおもっているので)、まだブレイクなんかしてて、インタビューの多いときなどには、決まって「これから、あるいはいまの時代、どうやって生きていけばいいか、生きていこうとおもってらっしゃいますか」という問いがあったが、必ずこんなふうに応えていた。(四十代後半から五十代にかけてが多かったかナ)
「むかし、まだ若輩の頃は、先輩などに~何故生きるのかではなく、如何に生きるかをかんがえろ~といわれましたが、その頃はまだ〈革命〉なんてコトバが死語になっていなかったあたりですね。で、いま私はそうではなくて~如何に生きるかではなく、如何に死ぬべきかをかんがえたほうがイイ~といつも応えます。如何に生きるかなんて甘いことを許してくれる世の中じゃありませんから、ね」
ところが、〈如何に死ぬべきか〉がまた難しい世界になってしまった。
死にたいように死ねないということが、同じ世代の仲間や友人、知己の無念、非業の死に幾度もつきあわされる年齢になって、よおくワカッテきた。
私などは、書きたいもの、書かねばならぬもの、舞台にしたいもの、の目標の8割以上は実現をみたので、かなりイイほうなのではないかとおもわれるが、その代わり、そのせいで心身の8割は壊れてしまった。Physicalでも、mentalでも、壊れ物の類なんですなぁ。
仕事の加速度は、心身の壊れ方の加速度と比例するワケです。
どうせ、そんなオトコに誤解されるなら、もっと女遊びとやらをやってみたかったし、酒浸りというのもやってみたいのだが、二十五歳からこっちの鬱疾患は難病、不治の病で、そういう無頼な愉しみもゆるしてはくれないときている。宮本武蔵はほんとかどうか、三日三晩女性(にょしょう)と交わり、その後三日三晩、その女性の糞小便をする姿を観続けて、以来女を絶ったという。私はそんなカッコよくない。一休禅師のように七十七歳で子供をつくるという(あくまで正妻であった森女との子で、他にはあちこちの女性に生ませている)曲芸めいたことも理想ではあるが、如何せん、壊れてしまった身ではどっちもままならぬ。
てなところに、九十歳の母親の狂乱ですなあ。九十年生きたんだから、もうイイじゃないのとおもうのは、私と弟(彼もまた耳は片方聞こえず、もう一方も加齢性難聴、おまけに糖尿病で緑内障予備軍ときている)の二人だけではあるまいに、老々介護とはいうけれど、こちとらは病々介護でござんす。
母親は長いこと、ガッコのセンセで小学生の低学年をみていたから、幼児後退現象ならぬ、ガッコのセンセ後退現象で、看護や介護、ケアマネにいたる方々のセンセになりたがって、介護看護計画会議も、母親の学校ゴッコと化す。世話をしてもらっているほうなのに、世話をしてくれているものの態度に対しての説教が机を手でビシバシ打って おこなわれ、「おまえはここが悪いっ、おまえはそこがアカンっ」まあ、みなさん大人ですから、「感動で涙が出ました」なんて、クサイ芝居までヤッてくれる方もいて(それはやり過ぎと注意しておいたけど)、遠距離介護なので、施設に入居してくれというと、誰に吹き込まれたのか(そういう誰とやらが、いるんですナ、小さな町ですから)「そんなところに行くくらいなら死んだほうがマシやっ」とHysterieを起こす。監獄じゃナイんだから、もはやいまではリゾートなのにねえ。
「死んだほうがマシて、あのな、あんたももうすぐ死ぬんや。そいで、みなさん集まってこれからどうしたら出来るだけ楽にその日を迎えられるかの相談に、ガッコのセンセやってどうすんの」とこちとら云って聴かすが、「一人でなんでも出来る、誰の扶けも要らん」とぬかすんですからねえ。まだ元気な頃から、料理ひとつ出来なかったのに(そのぶん、私の調理の腕は上がりましたが)。そらまあ、こちとらの血圧は一気に160を超えますワ。
まあ、反面教師(ほんとにこの場合にのみ教師ですな)。こちらは感情と倫理とはエポケーして、ほんまは「てめえ、俺がこどもの頃、あんたは父親と二人で俺を虐待し、かつ弟は余所に預けっぱなしで面倒みず、俺は名古屋、弟は京都に逃げたのを忘れたのかっ」っていいたいところなんですが、ええ、そういうことに関してはスッカリ忘れてらっしゃるようで、しょうがナイので、弟と二人で病々介護はつづく。しかし、
しかし、このハナシをすると、ナンですなあ、そこいらじゅうのみなさん、同じように親には手を焼いていることがこないだワカリマシテ、どこもかしこも命懸けでんなと、ため息するやら胸撫でおろすやら。同病相哀れむのでござんす。
自分の死に方はキチンと決めておいたほうがヨロシイとおもいます。ジタバタの狂乱だけは身内以外にも大迷惑です。ヤメタほうがイイ。せめて、死ぬ前くらいは親らしく子供の手本となるがヨロシイ。 

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