港町memory 45
先だって、『火田詮子を偲ぶ会』がありまして、行ってしまったんですが、そういうところと病人の見舞いには行きたくはナイんですけど、それでも、墓参は好きなんですが、なんで行きたくナイかといいますてえとエンパイアステエト、私は誤解されやすいタイプではナイのですが(たぶん)、理解されにくいタイプだということがよくワカリマシテ、と、いいますのも、そういところにいらっしゃる方の中には、もう30~40年、会ってナイ方が在りまして、こういうのは在って無いかたとでもいいましょうか。全然、知りませんし、向こうがこっちを知ってらしても、理解からはほど遠いというワケです。なんか、私が死んで偲ぶ会ヤってるみたいな感触です。
男女ともに、数十年の月日は、処方無我、諸行無常、で、ずいぶんと大人になってらっしゃる方も多いですが、まんまのまんまの方も多いんです。こういうときだけ、〈時間〉の存在をみとめるのは、時間というものが〈詩的〉なものだからであります。
/ああ、生きてらして良かった/とおもう方、こういう方などは、女性なら、3~40年のあいだにすっかり麗人になってらっしゃいます。まったく正反対に、いつまでたっても餓鬼みたいなのもいらっしゃいますし、性格(といいますか質(タチ)ですな)がおんなじという方もおります。そういうの、観るのも会うのもシャベルのもスコップ。
こういう場では、私のようなほんものの鬱疾患(双極性障害とかじゃナイもの)のものは、躁転移いたしまして、なんでもテキトーに応えます。「印税生活してるんじゃナイですか」「してますねえ。もう銭と女に不自由なんかしたことナイ」てな願望をべらべら喋ります。そういう場では主賓である「ああ、まゆみさんが死んだということは満更ウソではナイようだな」などとおもうのが関の山で、みなさん楽しそうだから、どうせ「オレ(ワタシ)なんか、まだ生きてるも~ん、まだ死なないも~ん」てなことおもいつつ、酔っぱらってらっしゃるんでしょうなあ。まあ、そうはいいましても、何れはニュートン力学的存在は消滅いたします。そんときは、サヨウナラ。