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2019年9月

2019年9月28日 (土)

港町memory 46

最初にことわっておきますが、わたしは、不平、不満、嫉妬、羨望、憤怒、劣等意識(inferiority complex)、損した気分、後悔、慙愧、等々の負的感情で下記の記事を読んだのではありません。
下記の記事は、本日(2019/09/28)のネット記事でやんす。
/サラリーマンなど民間企業で働く人の去年の平均年収が、およそ441万円で、6年連続で増加したことが国税庁の調べでわかりました。
 国税庁によりますと、去年1年間、民間企業で働いた給与所得者の平均年収はおよそ440万7000円で、前の年と比べて8万5000円増え、6年連続の増加となりました。このうち、女性の給与所得者はおよそ2081万人で、平均年収はおよそ293万円と、いずれも過去最高となりました。
 おととしの税制改正により、去年から配偶者特別控除の対象となる配偶者の合計所得金額が76万円未満から123万円以下に拡大されたことで、女性の就労者数や所得額が増えたものとみられます。
 一方で、正社員と非正規雇用の労働者の平均年収の差はおよそ325万円で、調査が始まった2012年から7年連続で拡大しています。(27日17:56)/

女性の給与(給り与えられるもの。ほんらいは賃金と表記するのが正当だと、常ながらわたしはおもうちょりますが)所得者の数が2081万人になって、この平均年収が293万円ですから、男性を含んだ平均年収より、148万円少ないワケですので、これが年収の平均値を下げているとすると、男性の平均年収は441万円より増加するはずです。そこで、おそらく/正社員と非正規雇用の労働者の平均年収の差はおよそ325万円/という数値が算盤に並ぶのだろうだとおもわれます。(と、おもったら、給与所得者とあるんだけど、うーん)
これは国税庁の統計ですから、マトモなものだとしなければなりません。(マトモな統計なんかアルワケナイんだけど)
そこで、たとえば昨年(平成26年)9月に発表された国税庁の民間給与実態統計調査をセカンド・オピニオン的にみてみますと、
全体:415 万円(対前年比0.3%増)
男性:514 万円(同0.6%増)
女性:272 万円(同0.3%増)
となっています。たしかに、令和元年は、給与所得は増加しております。しかしこれをさらに正社員と非正規雇用(給与所得者として)の労働者の平均年収でみてみますてえと、
正規男性:532 万円(同1.1%増)
正規女性:359 万円(同0.9%増)
非正規男性:222 万円(同1.1%減)
非正規女性:148 万円(同2.9%増)
てなことになります。予想通りかなといったところです(予想の意味-nuance-が異なりますが)。正規男性社員と正規女性社員と非正規社員(従業員というんだけど)の年収を足して平均すると、令和元年は先に記したようなおよそ給与所得者平均年収441万円てな計算になるんでやんしょ(ならねぇよっ)。非正規男性、非正規女性がどう計算されているのか、どういう計算なんだかわたしにはよくワカリマセンが、驚くほどのもんじゃアリマセン。統計なんてそんなもんです。大企業から中小企業、下請け子会社、「名前だけ正社員」に「とっぱらい日雇い労働」とイロイロありますから。どこかをなんだかんだとfunction(操作)して、それなりにcategorize(分類)すれば、平均年収は平成26年から増加して441万円になるんでしょう。
/満月の夜は殺人事件が多いという統計がある/ということから、月の光と人間の精神にはなんらかの関係があるのではナイかというreportもありますが、/満月の夜は殺人事件が少ない/という統計もありますから、統計というのは要するに単なる〈数字〉です。
よく似たものに〈確率〉があります。統計と確率の違いとはなんでしょう。統計は統計学と称され、確率は確率論と称されます。よくサイコロの目が例に出されます。1~6のサイコロの目が出る確率は1/6です。つまり、確率論は、ある事象が起こる確率が決まっていて、それに基づいて物事を考えることです(この確率が決まっているというのも変なんだけどね。事象の起き方が決まっていないから確率でしかいえないので確率というのであって、それなら、その確率が当たる確率はなんぼという無限連鎖になります)。しかしまあサイコロの場合、1が出る確率は1/6と決まっているワケです。逆に、統計学では、得られた事実やデータから、どんな事象が起きているのか、などについて何らかの結論を導こうとします(結果に対して都合のいい統計を選ぶのはアタリマエですから、そういう結果が出るまで統計を繰り返せばいいので、これもどんどん連鎖になるデス)。確率は変えることは難しいのですが(そのはずなんだけど、地震の確率なんか、なんぼでも変わるんやなあ)、統計を動かすことはさまざまなチガッタ統計があるように、そう難しいことでもなさそうです(むしろ簡単なんや)。ともあれ、確率論が演繹的な考え方なのに対し、統計学は観測された事象やデータから出発して、その背後にあることを説明しようとする帰納的なアプローチといえます。
と、そういうことをいうと、なんや科学的やなあ、エビデンス(科学的根拠)やなあという気がします(これこれ、これでんがな)。ただし、この平均年収についても、わたしと同様、首をひねっておられる読者もあるように、よくワカランのです。それは、統計とはあくまでも〈数字〉ですが、あくまで〈量〉だということです。けして〈質〉ではござんせん。としか、わたしにいえることはありませんが。
さてと、最後に私と似たような年齢の方々の年収を記しておきましょうか。
●60~64歳
男性平均年収:477万円
女性平均年収:227万円
合計平均年収:373万円
わたしは、67歳ですが、年収は年金を含めて平均年収とほぼ同じです。もちろん、わたしの仕事は変動所得ですので、ここ十年で二回、低額所得者で、市県民税を免除されております。
とはいえ、あくまで、銭には「量」と「質」の両面の〈価値〉があることを忘れてはナリマセン。(とってつけたようですが、これしかいうことはありまへん)

2019年9月27日 (金)

港町memory 45

先だって、『火田詮子を偲ぶ会』がありまして、行ってしまったんですが、そういうところと病人の見舞いには行きたくはナイんですけど、それでも、墓参は好きなんですが、なんで行きたくナイかといいますてえとエンパイアステエト、私は誤解されやすいタイプではナイのですが(たぶん)、理解されにくいタイプだということがよくワカリマシテ、と、いいますのも、そういところにいらっしゃる方の中には、もう30~40年、会ってナイ方が在りまして、こういうのは在って無いかたとでもいいましょうか。全然、知りませんし、向こうがこっちを知ってらしても、理解からはほど遠いというワケです。なんか、私が死んで偲ぶ会ヤってるみたいな感触です。
男女ともに、数十年の月日は、処方無我、諸行無常、で、ずいぶんと大人になってらっしゃる方も多いですが、まんまのまんまの方も多いんです。こういうときだけ、〈時間〉の存在をみとめるのは、時間というものが〈詩的〉なものだからであります。
/ああ、生きてらして良かった/とおもう方、こういう方などは、女性なら、3~40年のあいだにすっかり麗人になってらっしゃいます。まったく正反対に、いつまでたっても餓鬼みたいなのもいらっしゃいますし、性格(といいますか質(タチ)ですな)がおんなじという方もおります。そういうの、観るのも会うのもシャベルのもスコップ。
こういう場では、私のようなほんものの鬱疾患(双極性障害とかじゃナイもの)のものは、躁転移いたしまして、なんでもテキトーに応えます。「印税生活してるんじゃナイですか」「してますねえ。もう銭と女に不自由なんかしたことナイ」てな願望をべらべら喋ります。そういう場では主賓である「ああ、まゆみさんが死んだということは満更ウソではナイようだな」などとおもうのが関の山で、みなさん楽しそうだから、どうせ「オレ(ワタシ)なんか、まだ生きてるも~ん、まだ死なないも~ん」てなことおもいつつ、酔っぱらってらっしゃるんでしょうなあ。まあ、そうはいいましても、何れはニュートン力学的存在は消滅いたします。そんときは、サヨウナラ。

2019年9月26日 (木)

第二十七回

「この空間は、実在空間ね。いったい何処だかはワカラナイけど、幻魔術とやらの手妻で創った幻ではナイことだけは私の五感が私に報せているワ」
 南蛮黒装束はギヤマン製とおもわれる被りもので頭のてっぺんから首まで辺りを覆っていた。そこから太い管が肩から背負った行李のようなものに繋がっている。つまりは酸素ボンベなのだが、では、朧はいったいそのような文明の機器ナシで、如何にして月面などに立っていられるのか。これには、朧を月面まで呼び寄せた敵手の南蛮伴天連のほうが驚愕していた。月面の忍者と魔術師の闘い。前代未聞の展開が始まろうとしていることだけは確かなことだった。
 いつ頃、いつの時代だったかは記憶にナイ。というか判明しない。ふいに青白い雲に包まれてカラダの浮遊感覚とともに意識が喪失した。
 目覚めたとき、他に十人ばかりの自分と同じ幼童がいた。場所は定かでナイ。所在無さげというより、挙動不審、路頭に迷う、といったふうで、誰もがワケがわからず思考停止の状態におかれているようだった。
 そのうち継ぎ目のナイ緑の装束の男とも女ともつかぬものが数名姿をみせて、聞いたことのナイ、コトバというより音そのもので会話らしきものを始め、ちらちらとコチラを穿ちながら、やがて近寄ってきて、また眠りに落された。
 時間というものあったのかどうか、成長せぬままに、幼童たちはそれぞれ各々奇妙な修行をさせられ、あるいは施されといったほうが正確かも知れないが、次に我にかえったときは異国に在って、不思議な術を会得していた。
 これが、南蛮マンがいま、月面で辿り起こした記憶だ。
 が、しかし、南蛮マンはそんなおのれの修行の、記憶に血の通っていない不自然さ、を、異国から渡ってきた幻燈を観たときのような按配の悪さが重なるような感覚で、ある不信感として知覚していた。
「ゲツメン」
 と、南蛮もんじゃ焼きは呟いた。
 その訝しげな独り言に応えるように、朧が、艶かしい唇を動かした。
「そうなのね、ゲツメンというのね。月面、お月さまのことかしらね」
「ナゼ、オマエは、その姿デ」
 その月面に立っていられるのかと、訊ねたかったのだろう。
「これは、あなたの記憶よ」
 先に、朧がその問いに応えた。
「ナニッ」
「伴天連幻魔術というものが、どんなものか、詳細は知らない。けれども、似たような類の術や技なら、私、朧十忍はほぼ会得しているの。この魔法だか幻術もかなりの高度な幻術だということはワカル。だからね、もう、ご納得出来たかしら。あなたが、私にかけた幻魔術とやらをそのままあなたにお返ししたの、朧十忍の一つ、〈閻魔鏡〉。この世界はあなたが操っている幻の世界じゃナイのよ。私に操られているあなたの世界。どう、けっこうジッポンの忍びもヤルでしょう」
 すでに、この時点で勝負は決していた。
 南蛮ギヤマン頭が後退った瞬間、頭部の金魚鉢は破裂した。その内部の頭蓋もろともに。

2019年9月23日 (月)

港町memory 44

落語『大言壮語』
「大言壮語」というコトバがございます。辞書に載っておりますとおりにいいますてえと、「おおげさに言うこと。できそうにもないことや威勢のいいことを言うこと。また、その言葉。▽「壮語」は威勢のよい言葉の意」になりますが、似たようなコトバに【針小棒大】てのもあります。「些細な物事を、おおげさに誇張して言うこと」ですな。同じようなコトバに 【狂言綺語】というのもあります。「道理に合わない言葉や、巧みに表面だけを飾った言葉」。さらに似たコトバといますと、【巧言令色】てのがある。「口先だけでうまいことを言ったり、うわべだけ愛想よくとりつくろったりすること」
こういう類のことが現実、世間で罷り通っている例というのもあります。
「日本年金機構」がお出しになっている「年金生活者を支援する給付金を受け取るためのお知らせ」というものでござんして、/このハガキは、あなたの年金に上乗せして支給される年金生活者を支援する給付金を受け取るための請求書です/とありますな。おまけに/年金生活者支援給付金は消費税引き上げ分を活用し、公的年金の収入金額や所得金額が一定基準以下の方に、生活の支援を図ることを目的として、年金に上乗せして支給するものです/とあります。
で、わたくしなんざ、老齢年金に年金基金をプラスしておりますので、いえいえ、収入なんざたいしたことはごさんせん。一度、低額所得者として6000円頂いたこともございますし、昨年は収入が少なくて、今年、市県民税は0でした。(プレミアム商品券なんざ、もらいまして、26000円のものかが2万円で買えるってんですが、その2万円が・・・)
で、いったい、いくら上乗せしてくれたんだい。
見込みだけどね、
いくらだい。
月額でね、
やっぱり1万円なんて高額にはならねえよな。
なかなかそうはいきません。
で、いくらだい。
これが〔170円〕。
えっ、それって、一日、いや時給とか、いや、おい、月に170円の上乗せなのっ。
そうでござんす。
年金生活者への支援なもんですから。
請求したら、170円貰えるの。
ええ、請求書のハガキを出さなきゃいけないんですが、
そんなの出すの。
で、このハガキ、日本郵便ですから、切手を貼らなきゃならないんです。
切手は63円するんでしょ。
そりゃまあ、タダで配達はしてくれません。
じゃあ、けっきょくナニ、差し引き100円そこそこか。
ところが、近所に郵便局がなくて、切手を買いに行くのにバスに乗ると片道で200円かかります。月額170円もらうのも道のりが遠いですナ。
けっきょく、何の支援なの。
こういうのを、なんつうか、大言壮語とかというんじゃナイんでしょうか。
いやあ、ちょっとそれはチガウとおもうなあ。
じゃあ、大原寒河(タイゲンソウゴ・広大な野に流れている河の水もけっこう冷たいの意)とでもいうんでしょうか。
語感からすれば、あたらずとも遠からずだナ。

まあ、落語にしてみりゃ、これだけのことですが、そういうものが封書で送られてきたんですけど、こういうものを扱うヒト(公務員でしょうけど)というのは、ほんとに〈正気〉なんですかね。まあ、世間では、「正気で公務員やってるヤツなんかいねえよ」ともいいますけど。
年金の諸問題は、私、いつも申しております。公務員の賃金を一割cutすればそれでカタがつくと。一割cutされても、ふつうのサラリーマンより高給取りなんですからねえ。退職金だって多いし。
毎年、確定申告するたんびにおもいますよ。この銭(税金)の48%が、公務員の賃金になるんだなあ。そりゃあ、世間の親は投資のつもりで、ガキ、いえお子さまを小学校から塾に通わせて、将来は立派な公務員にしたがるのも無理はねえな、と。

2019年9月21日 (土)

第二十六回

 さて、柳生のほうはどうしたか。亜十郎は周囲を感知捜索したが、気配のナイところをみるとどうやら遠方に在るらしい。
「まんず、いわれるところでは天下最強の尾張柳生だ。後れはとるまい。しかし、面倒なことになったな。恨むぜ帆裏藤兵衛。こちとら銭にもならねえ妙な刺客を相手にしなくちゃならなくなった。四面楚歌だか、四剣八槍だか知らねえが、試し殺しの相手にでもしてみなきゃ、しょうがネエっか」
 もちろん、柳生のことを按じているワケではナイ。殺人依存とまではいえないが、名付けてみれば武芸依存症状。いまの精神医学のコトバで近いものがあるとすればgamble dependence.これは賭け事であるgambleに依存することではなく、使命、仕事、mission、役目、等々に対してそれが間に合うか、出来るか出来ないかという状況を自ら呼び込むことに拠って得るところの快感の享受、早いハナシ、原稿の締め切りをギリギリ(あるいは破ってしまう)物書きなどの多くは、このgamble dependenceといって過言ではナイ。
 さて、南蛮対決ばかりの連続では厭きもくるだろうとおもわれるので、ちょいとsceneを変える。とはいえ、南蛮幻術のplotはまだつづくのだが。趣だけでも、ネと。
 尾張と三河を結ぶ幾つかの街道、その何れも不知火朧は往来したことがあった。しかし、このような奇妙な山沿いの街道は朧には初めての経験だった。街道にしては珍しく曲りくねっていて、迷路のようになっている。そのことから朧はすでに伴天連幻魔術の手中に自身が在るとの覚触は得ていた。東郷十兵衛と別れてから尾けて来るものの在ったことを感知していたからだ。だが、この様な架空の山道に誘い入れていったい南蛮野郎はナニをするつもりなのだ。ナニをされても一向にかまやしないのだが。
 簡易な黙視分析をしたところ、およそ、殺気や殺意の類は周囲には無い。
 高度な術である天読、地聞、風嗅、それぞれを用いても気配が無い。
 しかし、何か仕掛けて来るだろうという予感だけはあった。かつその敵手はおそらく南蛮幻術四剣八槍の中でも一、二の腕の者。それもまた朧の磨き抜かれた闘勘が察知していた。
 殺気、気配が無いということが、敵手の手腕を語るに足りていた。忍法歴史上最強といわれる忍び、不知火朧に対峙して無感、非在感を貫きながらかつ攻撃の時を待っている。
 朧はおもいたって、足下の石ころを礫のように投げてみた。と、その石礫は同じように朧の元にもどってきた。それは朧の額を直撃した。なるほど、やはりそうか。これと似た忍法なら在る。忍法〔鏡返し〕。もし、クナイを投げれば、それは同様に朧を襲うだろう。火を吹けば火が襲いかかるだろう。もちろん、すべて朧はこれをいとも簡単に避けているのだが。
「面白い魔法を使いなさるねえ」
 と、合点のいった朧はそういうと、瞳を閉じた。今度は気配を探しているのではナイ。
 朧の姿が次第に薄くなっていく。そのカラダを透かして向こうの景色がみえる。そうしてまったく朧は透明に、つまり、かき消えてしまった。
 おそらく敵手にも朧の存在は無に感じられているであろう。
 無音のまま、街道沿いの木々が倒れ始めた。砂利は風に舞って吹雪いた。敵手南蛮チャンポンが朧を探しているに相違なかった。
 やがて、かくなる探査攻撃も無意味と知った敵手は、その姿を現した。まったくの灰色の大地。太陽の消えた荒野。クレーターが遠くにみえる。月面のような、いや、そこはまさしく月面だった。かの周回衛生、月の上だった。そこに南蛮黒装束の者が立っていた。そうして、その前面にやがて朧も姿を現した。

2019年9月14日 (土)

港町memory 43

毎月無料で送って頂いている『名古屋シネマテーク通信』はたいてい隅から隅までずずずいっっ~っと、読ませてもらっております。
2019/09/10(№447)は、たぶんそういう記事が出ているだろうなあとおもっておりましたが、『あいちトリエンナーレ2019 表現の不自由展』のコラムが三つもありやした。で、比べっこしましたが(もちろん、物書きとしての読み方としてであります。批評家ではござんせんので)、んで、私は「しょう」さんの『視角と死角』がおもしろうごさんした。性奴隷の像と称されている像の正式名称が「平和の少女像」だということを初めて識りました。(そういうこと、新聞・報道・マスコミは書いたりいったりしていたんでしょうけど、テレビ観ませんので)。河村名古屋市長が「日本国民が踏みにじられた」と発言されていることも初めて読んだ次第でどうも浮世離れしております。しかし、「しょう」さん指摘のとおり、この市長の発言はベクトルが変だよなあ。〈性奴隷〉といういい方を韓国がいい出したのなら、踏みにじられたのは「韓国の国民」ですし、少女が性奴隷にされたなら、日本国民は「踏みにじった」ほうになるワケですから。コトバがオカシイです。パフ。
この像は戦時慰安婦の像ですから、戦争の犠牲者は、男性兵士だけでは無いといことのappealなんでしょうけど、たしかに戦時は〈性奴隷〉も〈性暴力〉も在りました。そんな資料はどの国でも処分されているでしょうけど、韓国も、戦時中は韓国の女性を慰安婦として、韓国兵士が性処理していましたし、もちろん、日本軍も日本女性を慰安婦としてましたし、敗戦直後の日本なんかは、一般婦女子の貞操だか、操だかを進駐軍(占領軍ですね)、の兵隊たちから守るってのに、政府は日本国中のプロに募集をかけていわゆるP屋をおっ建てておりますし、そういう施設は幾つも出来まして、そこには「御国のため」「一般女性のため」と義を賭して勇んで参加したプロもいたろうし、「これはいい銭儲けになる」という打算な方もあったでしょう。タダじゃありませんでしたから。慰安婦になったおもいはそれぞれだったとかんがえたほうが妥当でしょう。
ともかく、この少女が戦争の悲惨な犠牲者であるならば、まず、当事国である韓国こそが、その裔、関係者に手厚い庇護、慰安をすべきだと常識としておもいますし、日本だって兵士は靖国に祀って軍神さまで参拝されてんですから、同じ犠牲者、奴隷とされた女性には慰謝料くらいは支払うべきでしょう。それは、勝った国負けた国ともに、何れの国も何れもの使命、仕事です。(この辺りで韓国が何故〈強気〉なのかは、最近ブログに上げております)
戦時性暴力でいうなら、敗戦直後に米兵による性暴力事件は多々あったんです。これは、私、自身の駄小説『怪人二十面相・伝』を執筆したときに、まだ便利なウィキなどが使えなかったので、いろいろと資料にあたりました。けっこう悲惨でしたね。いっぱいあったんですね。戦中と戦後を一緒にしてはイケナイのでしょうか。そうじゃねえだろ、いっしょだよ。どこまでが戦中で、どっからが戦後なんだよ。どこで線引くんだよっ、ということになります。
沖縄などはとくに多かったようです。(ようです、でスイマセン。かなり前の執筆で資料も書庫にしかありませんので)。
ついでにいうなら、沖縄戦で米兵の白人兵士の戦死者はまずいません。なぜなら、沖縄戦で戦ったのは殆どカラード(南アフリカ共和国の住民のうち、アジア系移民、およびオランダ移民とアフリカ人との混血によって生まれた人々の総称。~以上ウィキ~ 要するに米国に移民した有色人種の総称、俗称。いまでいうならメキシコからの難民など)だからです。
これは、私が実際、沖縄のタクシー運転手のオジサンから~兄貴は従軍、私はまだ子供だったけど~、という四方山話で聞いたハナシです。戦った兵士と終戦後上陸してきた兵士は顔や色がチガッタと、そんなハナシでしたね。
沖縄は、返還されるまで、その頃はベトナム戦争の兵士の慰安所としてたくさんの「料亭」が機能しておりました。これは、私が実際に沖縄に「行った。観た。そうだった。浜辺で貝も拾ったけど」のハナシでござんす。竹中労さんなんかは足で、沖縄女性の8割(0歳児から90歳までを含む)が売春の経験があることをリサーチしてらっしゃいますねえ。
なるほど、「過去」の慰安婦性奴隷を政治政略に使うのも国家ですし、ひたかくすのも国家です。「過去」などという妄想の中にしかナイものをどうこう議論するのもよろしゅうござんすが、「いま」の表現の自由をこそ、少女像の足元で論じるべきだと、ちょっとだけカッコよくいわせて頂きまし・・・えっ、あの議論って、中止になったの。いやもう浮世離れもここまでくると、世棄て人だな。

2019年9月12日 (木)

港町memory 42

「生きてネエじゃん」といいながら、布団をはねのけて起きた。
太宰も、安吾も、賢治も、原口統三も、六十、七十の坂なんて知らねえんだ。四十、五十で死んだ輩がナニいったか、ナンダッてんだ、と、くされてみて、せめて原口も『四十歳のエチュード』くらい書いてもらいたかったもんだな。/いい歳してナニいってんのこのヒト/なんていわれたりして、ホンはまず売れねえナ。
良くいえば批判的に、良くなくいえばフテて絡んで、こっちは一日四回鎮痛剤飲まないと普通に出来ないし、夜も鬱疾患と頸椎狭窄の神経痛でもだえつつ、ウイスキー流し込みながら誤魔化して、そういえば十年前は、一日の終りにロック呑みながら静かにjazz聴いていたなあと、いやいや、そういう「むかしがどうの」はいうべきではナイと反省しながら、指関節の痛みと動きの鈍さでミス・タッチの多くなったワードを訂正ばかりしつつ(ここまでで十五回をこえてんだからナア)。
今朝は起床したのでござんした。
オリンピックの年に死ぬのはなんとのう気が進まないものだから、次の年まで仕事をつくったけど、もういい加減ヤメルか、一休禅師のように七十七歳までに子供でも創るか、その子に「行け、地獄へ」と世間を指さして云うとか、それもこれも、どうでもよくなってきて、おう、それならば、観よ、オーソレミヨ、このブログの読者のゼロになるまで気張ってみちゃろかと、オカシナ決意だか覚悟だかしてみたり、キェルケゴールやハイデガーの「反復」とはまったくチガウ、ただの「繰り返し」の毎日に、見切りはつけたいけれど、「死なない」のではなく「死ねない、死なせて」くれないから、オレ、死ぬとずいぶんいろんなところに迷惑かけるからナア、そういうの断遮離(字はワザと違えてます)していって、リチャード・ウー原作の『アブラカダブラ』(画・芳崎せいむ)もいいけれど、このヒトはやっぱ『卑弥呼』がイイっ。「第一回さいとう・たかお賞」受賞はめでたいが、審査員がいうほどの聖書の読み込みが出来ているのかどうかはアヤシイ。たぶん、『アブラ・・』は抽斗から出したのだろうけど、つまり、このての世界は、いっぱい柳の下のドジョウがいるからなあ。しかし、『卑弥呼』はかなり苦労と工夫と智恵を絞って資料と闘ったナアと、六十余年をかけても、和解も折り合いもつかぬ、嫌悪と軽蔑で愛などナンニモナイ〈母〉の終活ケアのプログラムをつくり、朝から洗濯して、さて、乾燥行くかと、ナンダか朝っぱらから二日酔いでもナイのにゲロ吐いたようで申し訳ないが、では、暑さもやっと峠を越えたから、秋風五丈原とまいりますか、丞相病(じょうしょうやまい)あつけれど、/おっ、あの姉ちゃん、お嬢さん、いいケツしてんねえ/と、不良(バラケツ)になってるときが気楽でイイヤ。

2019年9月11日 (水)

港町memory 41

木皿泉さんの作品を連続で(『やっぱり猫・・・』は除く)『すいか』『野ぶた』『Q10』といまさら観てきて、木皿さんではなく「いまさら」さんになってしまっておりますが、10年前、前後の作品ですので、いま、木皿さんがナニを書いてらっしゃるのか、そこんところは、また別として、『夏かし』さんのブログによる批評がけっこう私のideaに近くて(もちろん、『夏かし』さんのほうがlevelは上ですが)、かつ納得がいき、かつ、よく、熱心に真面目にお書きになっていると、これまた10年前、前後のブログなんですが、感心した、というのが、最たる収穫となりました。(ヤヤコシイですね、スンマセン)。しかし、第一話をごらんになって最終回までの視聴率まで予想されるのはスゴイです。
私などは『野ぶた・・』までは、ごく自然にワカルのですが、『Q10』になると、ちょっと首を傾げることばかりで、「これは、ひょっとしてあの頃から目立ち始めた海外ドラマの書き方の、いわゆる〈並行進行ドラマ-parallel episode dramaとも申します〉ではナイのか」と気付いて、やっとワカッタという体たらくなんですが、昔からのいい方でいえば「群像ドラマ」だったワケですね。
私なんざノータリンは、これは『野ぶた・・・』の焼き直しを『ドラえもん』constructionでヤってらしゃるのではとおもったりしてましたから。第一話を観て、挿入歌の『戦争を知らない子供たち』には、ここで、それ入れちゃうかなあと、私も舞台ではそういうことはよくヤルんですが、腕組みしたりして、で、『夏かし』さんも同意見で、他、疑義諾々相似していましていろいろと勉強できました。
単純に前田敦子という女優さん(あの頃はブレイク最前線だったそうです)が私のストライクゾーンからだいぶんに外れてましたから、それでツマンネエのかなともおもたりしていたくらいで、『セクシー・ロボ』の大後さん(当時14歳)は、現在(26歳)の顔とのgapありすぎで、『セクシー・ロボ』のときの大人子供した、おんな少女した〈ときめき〉は何処へいったのかという、あの頃がフォーシームなら、現在はフォークボールかスライダーだなあ、と、これは余計なことでごわした。どうも。
で、木皿姐さん、ほぼ毎晩一話ずつ観てますが、木皿さんの失敗をおそれず失敗作ばかり書いていくという冒険には敬意を表意いたします。まったく畏敬します。失敗作を書くことは作者の特権でアル。
そういうことが出来た時代世界が在ったんですねえ。いまのドラマの失敗作は、ほんとの失敗作ですからねえ。
avecビーズ再来年(2021年)の作品は『港町memorial~マッチ擦る束の間海に霧の見ゆいずこに逝きし我が故郷(ふるさと)は~』でして、subtitleの頭の部分は寺山さんからのお借りものですが、(「見え」と「見ゆ」ではかなりチガウんです)こないだの血液検査で「北村さん、あなた、危険ですよ。この数値は危ないです。食事制限して再検査しましょう」てなこと医師からいわれましたから、食事制限(といっても、麺類、とくにパスタを食わないということくらいなんですが)で、昨日から殆ど毎日とはいいませんが、2日に一度はたいてい食ってたパスタや麺類はヤメ。それでもダメなら「危険」なんで、死ぬことはナイけど、半身不随あたりにいっちゃうということなので、それは書き物が出来ないということですから、死ぬことと同じなので、これが最後の作品かなあなどと、わりと丁寧に(いつもよりゆっくりと)味わいつつつつつつ書いています。
木皿さんは、動画だから、いいなあ。こちとら舞台だから、一期一会。
しかし、表現も恋も革命も、この一期一会がよろしいようで。つうか、私好みですので不満はござんせん。

2019年9月 7日 (土)

第二十五回

「鞭剣(ウルミ)ってエモノだな。噂には聞いていたが、ホンモノを観るのは初めてだ」
 別の何処かで南蛮相手の羽秤亜十郎、唇を歪めて笑った。
「しかも、鉄製や鋼ではナイ。そいつもギヤマンか」
鞭剣(ウルミ)は名前の示すとおり鞭状の剣なのだが、例のちょっと病的、変態的な(と私-作者の感想だけど)オリンピック競技の新体操にあるリボンを思い描いていただくと理解が早い。新体操がsynchronized swimmingと並んでなぜ不健康なeroticismを醸しだすのかは、私(作者)にはよくワカラナイが、まあ、こんなふうにおもったりする。/たとえば、普通の体操競技を全裸でやったとして、新体操のほうも全裸でやったとして、どうしたって、新体操のほうは「見せ物」だよナア/。
それはともかく羽秤亜十郎の立ち会っている敵手の武器がそれだった。
武器はリボン状態の薄っぺらい帯状の剣なのだが、素材はdiamantであることはマチガイなさそうだ。そうなると、剣スジが常人ならばみえないといってよい。見切りが出来ぬことを念頭におかれた武器だということだ。まず、剣そのものの長さがワカラナイ。撓り、曲がり、渦状になり、あるいは直線となって襲ってくる。中国が発祥とも中東アジアの部族のものだったともいわれているが、何れにせよ殺傷能力のほどは不明だ。
闘っているのが羽秤亜十郎でなければ、ほんの数分でケリはついただろう。もちろん、敵手の南蛮もそのつもりだったらしいのだが、不知火朧と互角の腕を持つ亜十郎を敵にしてはそうはいかない。
亜十郎は当初は軽業のようにそれ躱していたが、
「面倒なオモチャだなあ」
 と懐から網目の武具らしきものを取りだした。だらりと下げると猟師の使う網のようにみえた。というか、まさに形状はそれと同じで、ただそれが極細の鎖帷子のごとき材状で編まれていたというチガイがあった。
 これは、武具というより忍具とでもいうものだ。クナイなどを一斉に避けることも可能だし、敵手の身体をくるみとることも出来よう。
 どういう名がついているのかはワカラヌが、向かってくる鞭剣にめがけて、魚を獲るようにこれを拡げた。次に亜十郎の手首が数度くるくると回転した。鞭剣を絡めとったのだ。
 勝負はここで着くはずだった。
 が、しかし、敵手南蛮人は羽秤の鎖網をいともたやすく絡めとられている鞭剣で破砕させた。
「ほーっ、それがdiamantの強さなり、けりか」
 亜十郎、臆ともせず、今度は小弓を取り出すと矢を放った。まるで、こやつの懐は猫型ロボットのポケットの如しだ。
 もちろん、そんな小さな矢で敵手を貫こうなどとは亜十郎、考えてはいない。 
 南蛮装束に頭巾を被った敵手の姿は、今度のところは実体として、眼中にある。これは幻魔術の影隠れが羽秤亜十郎には通用しないと読んでのことだろう。
 亜十郎の小弓が放った矢は、南蛮の額をめがけて飛んで行く。この攻撃が何の攻撃なのか、南蛮渡りには見当つきかねた。あまりにアタリマエの撃種だったからだ。
 と、その矢が目前でcurveを描いた。放たれてからcomma01second。矢は南蛮野郎の右肩を掠めただけだったが、矢先の逆、矢の緒尾に着いていた羽根が無くなっていたのに気がついたろうか。それはまるでその場の空気抵抗を反対に利用したかのようにして、南蛮男の手の甲に落下していた。そうして、まるで蜘蛛の巣のように密着した。
 これは何のマネだ。南蛮焼きのたじろぐ様子が羽秤には観てとれた。
「蠱術の一種なんだけどね。試すのは初めてだが、さすがに敷島の無頼にはそいつを試す気はしなくてねえ。けれどもてめえが南蛮で、かつ帆裏藤兵衛の仇となりゃ、ヤッてみたくもなるってもんさ」
 羽秤亜十郎、ほくそ笑んでいる。
 その羽秤亜十郎を伴天連幻魔術が襲い始めた。
「そっちも、いよいよ本番ってことかい」
 亜十郎の周囲の風景が変わり始めた。無数の羽秤亜十郎が周囲に立っているのだ。
「ギヤマン鏡の無限というヤツだな」
 羽秤は少しも恐れているふうではナイ。
 無限の羽秤亜十郎、実体ではナイ鏡の世界の羽秤亜十郎は、実体(ほんもの)の羽秤亜十郎に向かって各々の攻撃を開始した。あるものは剣、あるものは槍、あるものは投げ縄、あるものはゴム輪、あるものは勝利の踊り、あるものハンマ・ユージロウの真似をしてオーガを叫び『赤いハンカチ』を歌うに至るまで、およそ考えつく(かよ、そんなもの、というか、ユージロー違いしているのだろう)すべての無駄なものも含めての無限のfighting styleだ。
 実体(ほんもの)のほうは腕組みをして、余裕綽々とそれを眺めている。
 と、南蛮蕎麦のカラダがグラリとゆれて、膝が折れ地に着いた。と、ともに無限に出現した鏡の亜十郎の姿が次々と消えていった。
「いったろ、蠱術だと」
 南蛮うどんはおのれの手の甲を観たようだ。あの矢尻の羽根はそこにはナイ。ほんの少しの血筋の跡が残っているだけ。
「虫は今頃、あんたの心臓に達しているはずだ」
 羽根にみえたのは、毒を孕んだ生物だったようだ。蠱術はそういった毒のある虫や動物を用いる術だ。あの羽根にみえた毒虫は、南蛮揚げの血管を流れながら心臓に到達するや、そこで何らかの強い毒を吐き出したとみえる。
「なかなか効果抜群だな。今度はこいつを右近の野郎に試してみるとするよ」
 鏡の幻術が消え去ったとき、羽秤亜十郎の姿はなく、南蛮弁当の亡骸だけが転がっていた。
 羽秤亜十郎、蠱術まで会得しているとは、さすが賞金稼ぎ、コヤツ人殺しの天才やも知れぬ。

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