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2019年8月30日 (金)

港町memory 39

まず、現行の大韓民国憲法は/3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し/ているのですから、それが何かを調べた結果です。
「三・一運動(さんいちうんどう)は、1919年(大正8年)3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動」だそうです。(だ、そうです、と曖昧に書くのはスキではありませんが、だいたい歴史なんてものに真実があるのかナイのか曖昧なもんですから、ここは、主意を曲げて曖昧にしておきます)。で、これがどういう運動だったのかというと、これも長々となりますからほぼ省略しますが、ここで私などが留意するのは、これが〈大日本帝国からの独立運動〉だったということです。つまり、1919年当時、韓国は大日本帝国に統治されていたのだということです。(ほんとに歴史に疎いものはこんなアタリマエのことにほぉっそうか、などとおもうんだからナァ)。
じゃあ、もう少し勉強するつもりで、韓国の歴史をザッとみてみます。銭出してんだから「ウイキペディア」の記事でまとめていきますが、この記述には〈但し書き〉があります。「この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です」だ、そうです。
長いので、私たちがガッコの歴史でならった程度に刈り取りマス。
/朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な箕子朝鮮であり、その後衛氏朝鮮が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、楽浪郡のみが残った。4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して4世紀末までには高句麗が朝鮮半島北部を制圧し、南西部には百済、南東部には新羅が割拠した。百済は475年、高句麗の攻撃により落城し、熊津に遷都した。南端部には諸小国の雑居する伽耶(加羅、任那)があり、その勢力争いには倭国も影響を及ぼした。後に伽耶諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。朝鮮半島には中国大陸からの移住者が数多くあったことが古い史書に記録されており、周辺諸地域との密接な関わりがあった。7世紀、新羅は唐と同盟を結び百済・高句麗を相次いで滅ぼし、朝鮮半島の大部分を統一した。しかし、唐は旧高句麗の地に安東都護府を設置するなど、朝鮮半島を統治下に置こうとする。そこで、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させる。10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、勢力を広げた。高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。19世紀半ばから欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文を安重根が暗殺し、1910年に全土が日本に併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立している/。
刈り取っても長いですナ。しかし、歴史ですからね。あったようなナイような終わってしまってなお存在するようなヘンなもんですから仕方ないでしょう。(百済は日本の属国だった史実は、つまり朝鮮半島は、大日本帝国に併合されるかなり以前に、日本の支配下にあった地域があったと言うことはガッコでは教えない、という史家もありますので)。
では、ここはつづくとして、次は私の「ワカラン」が、「なんだそうだったのか」になるところまではいきます。ふーっ(やっぱりヤンなきゃ、書かなきゃよかったと後悔のため息)

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