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2019年7月12日 (金)

港町memory 27

佐々木譲さん原作のWOWOWドラマ『沈黙法廷』(永作博美・市川隼人、他)について、もちろんDVDでしか観ていないのですが(しかも最近)、これくらいのものが書けないと小説家とはいえないなあと、物書きとして、べつの道の劇作家のほうに逸れた自分にほっとしているところです。その理由を述べる前に、このドラマのthemeあるいは重要なmotifであろう「善きサマリア人のたとえ」について、長くクドクなりますが、記しておきます。なんしろ/亜スペルがー/だそうですので。
/善きサマリア人のたとえ(よきサマリアびとのたとえ、英語: Parable of the Good Samaritan)とは、新約聖書中のルカによる福音書10章25節から37節にある、イエス・キリストが語った隣人愛と永遠の命に関するたとえ話である。このたとえ話はルカによる福音書にのみ記されており、他の福音書には記されていない/(編纂者のローマ法王一世がのちのちの議論を嫌ったんでしょう。なんしろ、鶏三回のひとやからね)
「ある人がエルサレムからエリコへ下る道でおいはぎに襲われた。 おいはぎ達は服をはぎ取り金品を奪い、その上その人に大怪我をさせて置き去りにしてしまった。たまたま通りかかった祭司は、反対側を通り過ぎていった。同じように通りがかったレビ人も見て見ぬふりをした。しかしあるサマリア人は彼を見て憐れに思い、傷の手当をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。翌日、そのサマリア人は銀貨2枚を宿屋の主人に渡して言った。/介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います/— ルカによる福音書第10章第25~37節
このたとえ話は教派によって解釈が異なるが、主題についての解釈は大きく分けて二つある。
一つは、仁慈と憐みを必要とする者を誰彼問わず助けるように、愛するように命じられた教えであるとする解釈(正教会、カトリック教会ほか)。
もう一つは、ユダヤ教的律法主義・キリスト教的律法主義の自己義認の誤りを論破するためのたとえ話であって博愛慈善の教えではないとする解釈である。この解釈は「人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる」信仰義認の立場をとるプロテスタントが採る。(もちろん、ウィキペディアからの丸写しだということは断っておくが、これはよくまとめられた文言だと私はおもう)二つめがなんだか難しそうなのは、簡単にいってしまうと、キリスト教というのはなんで信仰するのかというと、そらもう、死後、天国に行くためにですが、善行がそれ決めるのではなく、信仰それ自体がそれ決めるワケでんな。この辺りはムスリムとおんなじかんがえなんですけどね。そやから、狂信的でなくても、なんぼでも神さんのためになら自爆テロやってもええんです。テロでの人殺しはけして善行ではありませんが、信仰のほうがタイセツなんでござんす。
さて、もう一つ、私の浅学によると、あのニーチェは明言こそ避けているが、このサマリタン論議に関して『アンチ クリスト』でサラッと述べている。(超訳も出版されていますが、そんなに長編ではナイので、読むなら白水社のニーチェ全集あたりが良いかとおもいます。ニーチェの著作の中でも、標的がはっきりしているので面白いです。ほんとうに笑えます。感動もします)
さらにもう一つ、サマリタン論議に想を得た『person of interest』(放送チャンネル‎: ‎CBS 放送期間‎: ‎2011年9月22日 - 2016年6月21日)も、ある解釈といえなくもありません。
このサマリタン問題、まさに〈問題〉です。紛争沙汰になった事例もあります。ウィキ、丸写しさせていただきます。
/ある夏の夜の深夜に、日本にある自宅クリニック前の路上で急病人が発生した。クリニックの医師が診察したところ、上気道閉塞を疑われる所見で挿管は不可能と判断された。救急車を手配して、転送のため近所の大学の救急救命センターに電話中、患者は吸気のまま呼吸が停止し呼びかけにも反応がなくなった。(首が腫れた状態で、喉仏の隆起もなく、気管切開が困難な状態であったが、一刻の猶予も許されないまま、)緊急で気管切開を行い、気管切開自体は成功したが、血管を傷つけてしまい、出血多量で死亡した。その医師を待っていたのは、警察による業務上過失致死罪の容疑による取り調べであり、さらには、当夜、あれだけ「助けてください」とその医師にとりすがった患者の妻からの弁護士を介しての損害賠償請求の通知であった/(平沼高明「良きサマリア人法は必要か」週刊医学のあゆみ第170号pp953-955、1994年)
さらに
/日本国内の医師に対して行われたあるアンケート調査によると、「航空機の中で『お客様の中でお医者様はいらっしゃいませんか』というアナウンス(ドクターコール)を聞いたときに手を挙げるか?」という質問に対して、回答した医師全員が上記の緊急事務管理の規定と概念を知っていたにも関わらず、「手を挙げる」と答えたのは4割程度に留まり、過半数が「善きサマリア人の法」を新規立法することが必要だと答えたという。より最近のアンケート調査では、89%もの医師が医療過誤責任問題を重要視し、ドクターコールに応じたことのある医師の4人に1人が「次の機会には応じない」と答えている/
長くなりました。んでもって、これを土台にして、『沈黙法廷』がなぜ名作、逸品、秀逸かをゴチャゴチャいうことにします。(次回につづく)

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