港町memory 30
つらつらつれづれと書いていますが、原作は560ページの長編で持ち歩くのには不便な長編だったそうで、原作のレビューをサクサクと読みましたが、こりゃあ、尾崎将也脚本の大手柄なんじゃないかなと、圧倒的WOWOWドラマ勝利なんだなあと感じました。
脚本と戯曲はチガイマスが似たりよったりの部分もあります。ザックリcutする。スッキリcharacterを変える。なにしろ、テレビ(や、映画、舞台)は「目にみえます」から。永作博美、市原隼人、杉本哲太を相手に活字じゃかなわない。
戯曲を書くコツはなんですかと訊かれると/視覚的(みえるよう)なせりふを書きなさい/と応えますが、手品のタネを教えても手品が出来るとは限りません。と、いうか、「それって、どういうことですか」と問い返されます。で/観音さまというのは、音を観る菩薩です/といいますてえと、「亜スペルがーってこわいねえ。自分のこと菩薩だなんていってるよ」てな顔されます。
で、あらすじのつづきです。が、その前に、
/かつての恋人の弘志(市原隼人)が、弁護士の矢田部(田中哲司)に美紀のことを話し始める/
この部分は、おそらく原作ではさほど重視されていない(書き込まれていない)のではないかとおもわれます。法廷部分は緻密に書き込まれていて、退屈したとrevueがありましたが、で、尾崎さんはさほど書き込まれていない、love scene、このepisodeをみごとなplotに脚色したんだろうというのが、同業者としての私の推測。
美紀と弘志の束の間の幸福。これがとてもよろしゅうござんす。/不幸中の幸い以外に幸いなどというものはナイ/です。
/今度は警視庁に逮捕された美紀(永作博美)は、鳥飼(大倉孝二)の取り調べでも否認を続ける。逮捕の現場に居合わせた弁護士・矢田部(田中哲司)は美紀の弁護を名乗り出る。一方、この事件に興味を持ったテレビ局のディレクター・高井(甲本雅裕)と立花(藤本泉)は、過激な報道で美紀を追い詰めていく/
この辺りで、美紀の過去と、家事代行業をしていた先の独居老人の不審死が浮かび上がってくるのですが、それらはつまり偶然の連鎖でしかナイに関わらず、あろうことか、美紀自身が「自分と関わりのあったひとは不幸になるのではないか」という関係妄想を持ち始めます。これが眠狂四郎あたりがいうぶんにはカッコイイんですけど、美紀はそうはいかない。虚無なひとではありませんから。
ともかくあらすじを最後まで記しておきます。
/ついに美紀(永作博美)は、馬場(北村総一朗)の事件で起訴される。美紀に関わる老人たちの不審死が次々と明らかになる中、美紀を守るために弘志(市原隼人)が取った行動も裏目に出てしまい、報道は過熱する。美紀は何も語らず、ついに裁判が始まると、美紀の正体が徐々に暴かれていく/
ドラマでは弘志との出逢いも、弘志が美紀を信頼する根拠も、ネットカフェの急病人に対する美紀の緊急処置にありますが、たぶん、原作では、美紀に看護師資格などはなかったのではないかというのが、私のまたまた推測。なんでかというと、そういう職業経験は美紀にはカッコ良すぎてともかく/不幸なヒト=美紀/には不似合いになる。このへんは読み物と見せ物のチガイ。ビンボを徹底してビンボにすると、ドラマでは不幸を通り越してお笑い落語長屋になっちまいます。そこでドラマでは、不幸をテキトーにsaveして、美紀はアホではナイ。Communication能力は優れている。なのに、〈沈黙〉が支配する。という/謎/を追います。
美紀の沈黙も具体的にいうと/取り調べでも否認/なんですけど、美紀にとっては否認というよりも/ほんとうのこと/をボソっといっているに過ぎない。それは自分の人生に自信がナイから、に起因している。善かれとおもってヤッた家事代行で、雇い主が次々と不審死しているんですから。こうなるともう、サマリタン問題にマルキ・ド・サドの『ジュスティーヌ~あるいは美徳の不幸』(ただし渋澤龍彦、訳の初期稿)まで加算されてくる。しかし、ああ、それ、いいですねえ。永作さん主演で。それも観たいナ。
ともかくも視聴者の興味は(と、いうより脳裏の夜霧、いや過りですね、これはもう)「何故、彼女が黙っているのか」だけに収斂されていきます。と、同時にもう一つサマリタン問題としては、「この世間でナニかをスルということは、理由よりもアリバイのほうが必要なのではないか」という不安あるいは恐怖感のようなものがココロの底を這いずり始めます。自らが生きるために他人に何かスルということは、たとえそれが善行であっても、善行として成されるか(作用するか)どうかは〈関係の確率〉に決定される。とすると、/何もシナイ/のがイイのかって、そんなこと現実に出来そうにアリマセンから、私たちの存在というのは、サマリタン問題的に分析しちまうと、生きていくだけで〈悪〉に成ることがある。
と、ここで終わっちまったら、インテリの偽悪、絶望ドラマでしかアリマセン。
さあ、そこで、WOWOWドラマチームは賭けに出ます。美紀に沈黙を破らせるのです。
永作(山本美紀)博美にこういわせます。
「私にもし、罪があるのなら、希望を棄てたことだとおもいます」
こういうせりふは、よほどの勇気、覚悟、決意がナイと書けない。三流ドラマや似非劇作家、疑似脚本家ならともかく、こういうせりふはせりふ自体ではなく、ドラマであれば永作博美さんの演技を心底信頼しないと書けない。
ドラマは山本美紀の無罪で結審、永作(美紀)博美は、市川(弘志)隼人と、船で旅立つhappy endingになりますが、そのあたりは、なんとなく往年の日活アクション映画のラストシーンを彷彿とさせます。胸を撫で下ろすところです。
結語。つまり、サマリタン問題、善きサマリア人のたとえの答とは仁慈と憐みではなく、信仰義認でもなく、ヒジョーに単純ながら、「希望」だったということになります。原作レビューではラストシーンが/物足りなかった/拍子抜けした/呆気なかった/という落胆の傾向が多くみられます。ここも活字と動画の差です。
昨今、何が難しいかというと〈希望〉を語ることです。/希望/を書くことが最もアポリアな課題なのです。パンドラの函は底からぬけて、最後に残るはずだった〈希望〉が真っ先にどっかいっちゃったもんですから。
けれども〈希望〉を書かねばなりません。たとえどんなに絶望に侵されていても。どんなカッコワルイ生活をしていても、平気で希望が書けるようになったら、一流でんな。
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