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2019年7月14日 (日)

港町memory 28

気になっている方もいるかも知れませんので、サマリタン問題(今後『善きサマリアンのたとえ』はこのように称することにします)にフリードリッヒ・ニーチェがどうサラっと応えているかを記しておきます。手元にtextがありませんから、これは超訳ならぬ超記憶訳になってしまいますが、ニーチェはだいたい次のようにいっています。「道端にヒトが倒れている。そこに通りかかって、そのヒトにどうしました、大丈夫ですかと声をかけたり、抱き起こしたりするのは人間の人間としての/アタリマエ/の営為であって、その営みには宗教上の信仰や道徳も教義、方針なども一切関与する余地などナイ。それをさも宗教上(キリスト教)の愛だの善意だの信義だの信仰の領域に引っ張り混むなどは狂気の沙汰だ」くらいのことは怒鳴り散らしていたと記憶しています。(あんまりサラっとはしてませんね。上方ぼやき漫才のようです。よって、これには私、大笑いしましたけど。哲学の書を読んで笑ったのはニーチェくらいでしょうか。しかし、ニーチェはここでタイセツなことも述べています。真にキリスト教徒はたったひとりだけだ。イエス・キリストがそうだ。つまりニーチェはキリスト教を全否定してなんかいないのです。ローマン・カトリックを唾棄しているのです)。

私自身は、このサマリタン問題を以前『画学生とパン屋の女子店員』のたとえで、このブログにあげたことがあるので繰り返しはしませんが、そのときの私自身の感想は、「情が仇」「善意の悪意」とでも要約してしまいましょうか、当人の意思とは裏腹に、誠意や思慕、努力や献身がまったく〈負〉の作用としての結果することが世間には数多あり、それは、なんらかの関係のあるものに対して〈関係の確率〉として必ず生じてしまうものだが、確率であるがために関係者の関与は極めて消極的に制限される。という一つの〈絶望〉的な悲哀でした。
しかし、佐々木老師原作のWOWOWドラマ『沈黙法廷』はミステリとは銘打っていますが、まったくミステリではなく、サマリタン問題の〈絶望〉に立ち向かって、〈希望〉を導き出しています。(まあ、多少の無理、コジツケ、力業に傾斜している部分がナイとはいえないんですが、虚構、小説としては私はそれでもヨイとかんがえます。まして、役者の演技がそれを凌駕しています)。

私なりの、あらすじを書いてみます。
従ってここからは、ネット語の「ネタバレ」とかいうものに相当しますから、先に作品を読みたい或いは観たい方はどうぞそうして下さい。けれども、私はこの「(ネタバレ注意)と書かれることもある」という掲示ものものあまり好まぬほうで、手品のタネをバラシても、その手品が出来るかというとそうでないのと同じだから、優れた作品ならば、そんなことは気にしないでイイとおもっています。名人の落語は何度でも聴くでしょう。私にしても、このドラマについてのみいえば、原作小説を先に呼んでいても、観たとおもいます。永作博美さんのファンですし、市原くんとは映画の仕事で親子を演じたことがあるので、というのが理由です。ふつうは、/どっちも/食べることは殆どしません。それについてはそういう機会があれば説明します。
あらすじは、/ドラマ「沈黙法廷」のあらすじ一覧 | ザテレビジョン(0000927957)/をsamplingします。(ネット検索の結果、これが最もうまくまとめてあった)
長くなってきましたね。では、いちおう、〈つづく〉にしておきましょう。

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