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2019年6月29日 (土)

港町memory 23(改訂してます)

ここ一週間で三つ、医療機関に行ってきました。もちろん患者としてで、取材に行ったワケではありません。
とはいえ(この「とはいえ」といういい方をするひとには例のアスペルガー(症候群)のひとが多いんだそうです。アスペルガー「とはいえ」だけではなく、その概念もいろいろと便利なのでよく使います)この診療は私自身の命題の確認にもなりました。
まず、その命題を記しましょう。
/医師は三通りしか存在しない。〇そこそこの医者、〇それ以下の医者、〇最低の医者である/
/継いでにいうなら、看護師には、次の三通りがある。〇そこそこの看護師、〇それ以上の看護師、〇最高の看護師である/
以上の命題を哲学的に証明していってもいいんですが、具体的に書いたほうがオモシロイでしょうから、そういたしましょう。
どれがそこそこで、どれがそれ以下なのかは一応、医師の矜持もあるでしょうから、あまり具体的には書きませんが。(例えば、「吹上」の『あほ××準換気科医院』は最低で、患者さんのためにもならないので、いつかドローンで攻撃してやるつもりだ。とか)
その前に、この命題の証明を裏付けるさらに前提命題があります。
/医者の善し悪しは、診察室に入って五秒でワカル/
まず、こいつを証明してみましょう。
待合室に居ると名前が呼ばれます。ここで、町医者(開業医といわないと機嫌を損ねるかも知れませんが)になると、医師自身が自分で顔を出して患者を呼ぶ場合があります。これは良いことです。診察室にドンと待ってらっしゃるエライ御方に会いに行くより、一緒にそこまで行くほうが患者も安心だからです。こういうちょっとした患者さんの心的傾向に99%の医師は無関心です。医大では、医学は教えますが、医の仁(倫理や愛というふうに和訳します)は教えませんから。それに、ドンと待っているといそいそと患者が来る、という構図が好きな方のほうが多いからです。病院規模になると、アナウンスがあります。このアナウンスはあまり役に立ちません。たいてい私のような高齢者には聞き取れません。早口だからです。それに「〇〇へお入り下さい」といわれても、その〇〇が何処にあるのかがワカッタことが半分しかありません。出来れば「北村〇〇さん、診察の準備が出来ました。正面廊下右手に進んだ診察室の番号3番にお入り下さい。Doctorは〇〇センセイです」というのが礼儀です。礼儀というより、アナウンス(案内)というのはほんらいそうあるべきでしょう。
そうして、入室したら「お待たせしました。お疲れになりましたか」と、医師がいうのも礼儀です。ふつう患者は待合室でかなり待たされているからです。そんな礼儀、仁義を尽くしたコトバはついぞ聞いたことはありませんが。礼儀知らずの医者が多いのではなく、医者は礼儀などはのっけから知りません(学んでいません)。
さて、看護師さんが、「荷物を置いて、おかけ下さい」と椅子をすすめます。そうでないところは、こっちで勝手に坐ります。「北村です。よろしくお願いします」と、私、いいます。ときどき、渡世人になるときは「北村です。お預けいたします」と軒下仁義を切るみたいにいうときもあります。
そういうのは殆ど使いませんけど。たとえば、荷物をおく場所がワカラズ、しょうがなく傍らのベッドなどに置くと看護師さんが「そこは荷物を置かないで下さい」といいます。そういう場合は、ちょっと渡世人になります。虫の居所が良くないときは、医師の机上にドカっと置きます。そういうことは滅多にありませんけど。最近ではやっと、荷物を置く場所がつくってあるようになりました。飲食店なんかにある籠ですね。やっと、それなみになってきたワケです。つまり患者というのは一種の[客]だという認識が出てきたということです。
医師は、机上のカルテか、初診の場合は、私が記入した初診質問回答表を観ています。ここまでが五秒だとします。ここまでで、医師が私(の顔や単に方向)を観ていないとき、この医師は〈最低〉に入ります。医師は、まず患者の表情を観るべきなのです。私の書いたメモなど、私が入室する前に読み込んでおいて、そのぶん、治療方針の幾分かをシミュレートしておくべきなのです。
そんなことが出来るのか。出来ます。/そこそこの/、なら出来ます。診察経験が豊富、診療データ、専門の症例に多くあたってきた医師は、それくらいのことはします。(私だって、戯曲なら書き出しを読んだだけで、出来不出来くらいはワカリマス)。
データというものは、いくら24時間心電図や24時間血圧測定をやったとしたとしても、それが何のために行われたのか、測定の目的、的が絞り込まれていない限り、まったく役に立つものではありません(まったく、です)。ただ、単純に時間をかけただけのモノに終わってしまいます。(心電図などは短時間で測定したもので異常値は読めるようになっています)
それに、24時間心電図は24時間それを身につけていなければなりません。(進んだところでは時計バージョンになってますが)、そんなものを身につけて「普通に日常どおりに生活して下さい」といわても、出来るワケがありません。『巨人の星』の大リーガー養成ギプスをつけてるようなもんですから。ここに24時間血圧計なんてのが加われば、コードがぶら下がってテープで貼られた機械に、さらに30分おきに腕が絞られるマシンが付加されるのですから、ふつうの生活など出来ません。ふつう、私たちはそんなモノを付けて生活していません。ふつうでナイ状態でふつうに生活など出来るワケがありません。あきらかにこの測定は矛盾しているのです。こういう類は、もう半世紀前に医学的にだけではなく思想的研究においても「fieldwork paradox (観測矛盾)」として、アメリカでは学術研究の上で否定されているのですが、まだ、日本の医療分野のひとびとは気がついていないようです。てめえら、ほんとうにカンファレンスやってんのかよっ、と半畳入れたくなります。
さて、では、カルテや問診表を観ないで、患者の顔(表情)を観る医師はすべてそこそこなのかというと、そうでもナイのです。患者の容態ではなく、そのひとの生活レベルの「格」のようなものを吟味する医師もいるからです。つまり「上から目線」というものです。若いときにボランティアなどを無償で行った、ブルーシート暮らしの人々なんぞを善意(を冠した研修のつもり)で診ていた、そんな医師にこれが多い。そういう御方には「タダで診てヤってんだからな」が身についています。こういう/の/には、マチガッテも『国境なき医師団』に参加してもらいたくない。若いときに苦労するのはイイことです。しかし、無償はダメです。何かと正当に〔交換〕しないとダメです(でないと/責任/が生じてきません。『国境なき医師団』の医師やスタッフにはそれなりの賃金が支払われています。アタリマエです。
順序としては問診になります。(問診というのは、医師と患者の質疑応答ですが、昨今、これが少ない。というより、ナイに等しい。問題はすべて医師にあります。彼らに問診が出来る能力、コミュニケーションが著しく欠落しているのです~こういうのをコミュニケーション症候群とかいうらしい~)。昨今は初診問診表(初診の患者がまず自分の容態を書くもの)が殆どの医院で用いられますが、これは、私などのプロの物書きで、かつ演劇などヤっているものが読めば、「誘導尋問」だということがすぐにワカリマス。問いに予めこういう疾病に分類出来るように、という魂胆がみてとれます。私なんざ、ついつい悪戯心が起きて、それに上手く乗っかって提出してから、いざ、本診療の場で、その問診表は全部ウソの答えを書きました。そのとおりに辿っていくと、こうなるだろうという予想をたてて書いたので、たぶん、誤診されるとおもいます。でも、一度、その通りでヤってみますか。おそらくこれこれしかじかになるとおもいますが。と、ヤったことが過去に一度きりありましたが(あまりに誘導尋問的だったので)、すぐに診療中止になって帰されたもんで、それ以降は、逆に多少こんがらがるように書きます。わざと矛盾を承知で書きます。医師は腕組みして悩みます。アタリマエです。そういうふうになるようにワザと回答しているんですから。ここでですね、訊けばいいんです、患者に。当人(患者)が目前にいるんだから、とおもうんです。「ここのところ、ちょっとワカンナイんだけど」と訊けばいいだけなのに。そうしないで、考え込んでいらっしゃる。(もちろん、訊く医師もあります。殆ど誘導尋問ですが。~○○はこんなふうではありませんか。いやいや、そうはならないでしょう。たいていが○○になります。気がついてないだけだとおもいます。そらく○○になってるはずです。そうじゃありませんか~てなふうね)。
これが再診の場合「どうですか、何か変わったところはありますか」という医師は/それ以下/になります。変わったところがあるかどうかを診療してもらうために患者は来院しているのですから。しかし、患者は自信など何もナイので、おそるおそる異議めいたことを述べます。それはまだイイほうです。ここで医師の診察に遠慮して「特にはありません」と応えようものなら、医師は治療方針を変えません。関係は悪化の一途を辿るだけです。ここは患者としては、たとえoverな表現だとしても「何処も良くなっていません」と勇気を出していうべきです。よほどのことがナイ限り、良くなっていれば患者は再来院などしません。しかし、医師は心中(シンチュウ)~めんどうくせえなあ~とおもうでしょう。ですが、ね、医療というのは面倒くさいものなんです。ここがタイセツなんですが、医師も患者も、どうしてかそれを忘却しています。医療は生きるということと直結しています。生きるということは面倒くせえんです。

長くなりました。結語めいたことをいってオワリにしておきます。
実は私、頸椎狭窄という疾病で第六頸椎と第七頸椎に神経が圧迫され、ヘルニアではナイのですが、首、肩の痛み、歩行バランスがときどき、慣性重力で後ろに崩れるなどありまして、手術するかどうかということで、日本に五人しかいない(多少古い記録ですが)顕微鏡内視鏡の手術の権威である脳神経外科医の診断をあおぐことになったんですが、診断は五分ちょっとで終わりました。このdoctorはMRI像影写真をみせたり(持っていったんですけど)しません。素人が読影など出来るワケないし、指示してここがどうだ、といったところで、素人にどの程度のものかはワカラナイということは、診察データと経験の豊富さで理解してらっしゃるようです。診療資料の記憶蓄積とでもいうのでしょうか。
まずdoctorの正中線(姿勢)がハッキリしています。これは「使い手だなあ」とすぐワカリマシタ。つまり容易に斬り込めない、一対一の勝負なら、おそらく一太刀で決まる。そんな姿勢で私を観て、「第六頸椎と第七頸椎が、といっても首の骨はどの動物も七本なんですが」と、ここで、ゆるんで微苦笑。おそらく「なんでなんだろうなあ」という、このdoctorの学生時代からの愉快な疑問なんでしょう。私は、進化論を学んだときにキリンの首について読んだことをおもいだしました。そこで、おもわず私も「そうですよね」と微苦笑。この、患者とのコミュニケーションの取り方、緩急の診察への持ち込みが実に上手い。で、「日常生活にすこぶる不便のナイ場合は、メスはなるたけ入れないでおきましょう。どうしようもなくなったら、そのときはそのときで、また検討しましょう」これでオシマイ。カルテも写真もデータもなにも余計なものははさまない。ただ、私と話すだけ。私への質問も殆どナシ。それはすでに紹介状に書かれてあるので。と、いうか質すまでもなくデータでワカルという感じ。よって結論を単刀直入。何故なら「手術の可否」だけが問題なのだから。よって無駄なし。理解了解納得ヨシ。という私の心情も見抜いている。このdoctorは自身の手術法と執刀技術にはなみなみならぬ信頼を持っている。とはいえ、/それが絶対である/とはおもってはいない。まだまだstandardには遠いとさへおもっているフシもある。従って、二日に一度の手術数を背負いながら「メスを入れるのはまだ後でもいいでしょう」と逆に明確に述べることが出来る。
私のようなアスペルガーはこういうシンプルな診療を好みます。「ここはああだねえ、ここはこうだ、さて、ここをこうするとこうなるが、どうするかだなあ。うーん、こうしてああしてみてもいいんだけど」と、医師という職業は/独り言/が多い職業らしい(ハッキリとした統計ではナイが、そんなふうにいわれることは多い)。そんなことは患者のわたしにはどうでもイイことなのでござんす。
手術になったら、2~3ヶ月待ちでしたから、まあ、痛いの痺れるのは、泳いでなんとかするかと、一件落着。「では、そのときになりましたら、よろしく」と、一礼して帰ってきました。


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