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2019年6月20日 (木)

港町memory 18

コルク仏壇が満タンで、なんだか申し訳ナイのだが、ナニに申し訳ナイのかというと、遺影を貼る場所がなくなったからいってんじゃなくて、ですね、生き残らねばならないことに後ろめたさが多少はあるワケですよ。でも、まあ、数十年と差があることじゃナシ、いっぺんに壊れたか、私のように徐々に壊れて壊れきるかのチガイでしょうから、多少はあるが、そんなに多くはありません。
だいたい、私は近頃は〔死〕というものを認めていないので、このコトバは使いもしません。代わりに「ニュートン力学的な存在の終り」と、カッコつけていってます。
で、終わったらどうなるのかを図式してみたんですが、未だ解決がハッキリしていない部分が多々あるので、あまりに断片的(フラグテーション)し過ぎているもんですからお披露目するワケにもいきません。
昨今、コルク仏壇やら、デスクトップの背景画面やら観ながら(いまの画面は/四人~よったり/で旅の途上ですが)、それでも、痛かったろうな。急にきたからビックリしたろうな。長い患いだったね。もう少し存在したかったろうね。悔しいんだろ。俺の腑抜けな生き方を笑っているな。とかなんとかココロの呟き交ぜながら、あのな、俺も壊れているところ多々あれど、悪いところ、壊れているところを悩むより、まだ、ここの部分、この箇所、ここいらあたりは使えると、壊滅していないところにおもいを馳せて、さて、晩飯は何を創ろうかとかんがえていること、これが、いわゆるニュートン力学世界を生きるというコツなんだぜ、と、嘯いているのがイイのです。
卑近なコトバでいうのなら「死にたくて死んだ、死にたくないのに死んだ、生きたいから生きてる、生きたくないけど生きなきゃならないので生きてる」この世を生ききるのも辛いもんなんだ。中井英夫さんふうにいうのなら、つまりは懲役刑、島流し、遠島、流刑、流人、その地が地球ということになっております。

どういうワケだか、鬱疾患の具合はヒドイんですが、再来年の舞台の(だから、上演出来るかどうかもワカンナイだけど)ホンだけは、書けるんです。comicを読む気力もナイのに、せりふの一つ、二つ、頭に浮かぶとpersonal computerのswitchを入れる。
これは作家の業とか執念というより、やはり、〈遊戯〉なんでしょう。遊んでるんですね。一人遊びはオモシロイということです。

じゃあ、まあ、ハートランドでも飲むか。銭の切れ目が命の切れ目とお題目唱えて。

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