港町memory 21
印象が確かなあいだに、印象を書いておきますが、これは〈批評・評論〉ではござんせん。私は物書きでして、評論家ではありませんので、その点についてはまったく無責任です。
ひょんなことから『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』(大島真寿美・文藝春秋)を読むことになってしまいまして、(どういう〈ひょん〉なのかは、面倒になりますので省略)読みました。
太宰治老師の名言に「人生は退屈な映画を最後までみる勇気が必要だ」(とかなんとかだったとおもうんですけど、正確ではナイでしょう)というのがあるんですが、この小説を読み出した半分(いわゆる前半とでもいいましょうか)はその〈勇気〉を持たねばならないなという覚悟をしました。ところが、残り半分(いわゆる後半)は、そうでもなくなってくる。あきらかに、前半は下手です。私が編集者なら、かなりsuggestしていたとおもいます。
ずいぶんとベテラン(中堅なのかな)なのに、それに、この作品、今年度後期の直木賞候補ですから、そのようなホンに対してのほほんとこういうことをいえるのも私の特権だとおもって下さい。(どういう特権かというと精神疾患者ですので)。
そのずいぶんと、なのに文章が素人です。amateurさんが書かれるような書き方が多々あります。それと、これはもちろん前半なのですが、「話体」と「文章体」の融合にあきらかに失敗しています。挑んでいることは理解出来ました。これ、うまくいくと読む方もstressが少ないんですけど。どうもチグハグの範疇にあるもんですから、読むのがしんどい。ところがそれが、後半になると、俄然、良くなってます。元は連載小説だったので、そのへんは仕方ないのかも知れませんが。後述しますが、後半ではまたチガウところで良くなってます。
それとこれは作者の資質なのかどうかワカリマセンが、「諄い(くどい・これは〈口説い〉でも正解)です」。何がかはよくワカランののですが(評論家ではアリマセンので)要するに、クドイ。文章自体がなのか、同義反復なのかが判然としないんですけど、よく飲んだらクドクなるひとっているじゃナイですか。そのひとのハナシを聞かされているようにクドイ。あのですね、関西弁というのはただですらクドイんです。関西出身・在住の作家さんではナイようなので、登場人物が関西弁を用いる場合、そこは注意せなアキマセン。ともかく、これは常人には許容範囲なのかも知れませんが、「あんたはアスペルガーね」とよくいわれる私にとっては、ともかくクドイ。(クドイという不平もここまでクドクなってきました)。
それと、これは直木賞候補ですから、芥川賞よりも大衆向けなはずですが、扱っているのが、古典芸能です。これは私のような不勉強には辛い。能狂言、歌舞伎あたりまでならついていける部分はあるんですが、なんとまあ、浄瑠璃ときている。
主人公の半二というのが浄瑠璃の戯作者(狂言作者でもイイのかな)で、その半生を扱っているので、浄瑠璃作品が多々出てきます。浄瑠璃作品と主人公との関係について、あたかもNHK大河を観るかのように虚構は虚構として読んでイイのですが、出てくる作品は実在しますから史実を曲げるワケにはいかないので、こっちは、浄瑠璃の原作の知識が必要になってくる。いまブームらしいですけど(たとえば文楽なんかはチケットとれないらしい)、まともに勉強したことのナイ輩にとってはキビシイ。とはいえ、これは、ヤってみると悪いことではありませんでした。教養程度に知っていたところから、一気に、浄瑠璃とは何かという考察まで進むことができました。これはアリガタイことでした。
後半から登場して、ここで一気にqualityの上がる『妹背山婦女庭訓~いもせがわおんなていきん~』なんてのは、まさに伝奇ロマン、山田風太郎老師の作品がごとき妖気、それでいてstoryは和風Shakespeare、さらには、泉鏡花につらなるがごとき美学の仕掛けが実にオモシロイ。
後半は、ここに至る主人公半二さんの思考と経験の描写が、これはたしかに読ませるのです。さすれば、もう前半はその布石にしか過ぎないので退屈なのも仕方ないかとおもいますが。(いやあ、しかし、十作以上、浄瑠璃の作品にあたらねばならなかったというのは、アスペルガーでしか出来ないことでしょう。これをたった二日でヤったというのもアスペルガー。アスペルガーというのは症候群ではありません。人類進化の能力の段階なのです)
ともかく、そういう意味で、ひさしぶりに勉強になりました。
しかし、小説としては、私は(あくまで私はです。私は直木賞選考とはなんの関係もアリマセン)「何を読めば」いいのか、殆どのところでよくワカリマセンでした。
いい方を変えると、「もっと書かねばならない」とおもわれるところが、かなり端折ってあり、「そんなもん書かんでも、どうでもええやん」とおもわれるところがいっぱいで、「どう読めば」いいのか、後半の盛り上がりを除いては、「読み方」がワカラナクテ、苦労しました。それは、この作品のlevelとは関係のナイことで、私の嗜好性だけの問題ですけど。
さらにいうならば、私、劇作家(狂言作者)ですので、かくなるback stageものはあまりに身近過ぎて、苦手なのかも知れません。「世界がこの小説のように美しければナア」てなことを何度も感じましたですけど。
また、人形浄瑠璃と歌舞伎について、その〈人形〉と〈役者=生身〉のチガイに触れている部分もあるのですが、その辺りの考察は少々薄っぺら過ぎる(というか、まともに思想、研究したことはナイようにおもえましたが、たぶんそうでしょう。理路で攻めねばならないところを感性で逃げているフシがありますから)。
まあ、このブログは読者max150人ですので、こういう印象感想で、オシマイとします。
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