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2019年5月

2019年5月22日 (水)

第十一回

 玄十郎の小柄で傷ついたひとりと、いまひとりの南蛮誂えの黒装束は、闇夜の市中を風の如く疾駆していく。逃げ足とは速いものだ。
 ところが、この二人より速い者がいた。羽秤亜十郎と帆裏藤兵衛が、舟つき場の手前で彼らを待っていた。地理のワカラヌところで逃げるなら舟だと、それが亜十郎の鋭い読みだ。
「なかなか面白いものをみせてもらったぜ。とはいえ、てめえらも,思い知ったろ。ところが、ほんとうに思い知るのはこれからなんだなぁ」
 まさか待ち伏せられるとは黒装束の魔法使いも思案にはなかったとみえて、二人の前にたじろいだ。
「強ぇえ剣客はまだまだ、いるんだヨ」
 腕組みをしたままで羽秤亜十郎がいうと、帆裏藤兵衛は足に仕込んだ鬼包丁二刀を抜いた。黒装束のほうも今度は即座に抜刀した。中国製らしく両刃の直刀だ。厚みがあるので重さもあるだろう。斬るというよりは敵手の剣を叩き折るという南蛮刀だ。
 が、そのはずが、彼らがウッという声を発して驚いたのは、その直刀が棍棒に化けていたからだ。
「どうだっ、刀を木の枝にするああいう手妻は、お前さんたちの専売特許じゃねえんだゼ」
 膝を叩いて羽秤亜十郎が笑う。
 笑っているあいだに、小柄で傷ついたほうの黒装束は、帆裏藤兵衛の二本の鬼包丁で瞬時に三つの肉塊となって切断されていた。敵手の刀を叩き折るはずの南蛮刀も逆に折られている。
「どうしたい、また紅蓮の炎でも吹き出させてみるかい」
「オマエたちはっ」
 驚いている。怯えている。声の震えがそれを物語っている。
「オレたちがどうしたって」 
羽秤亜十郎はゆっくりと背の刀を抜くと、刹那に黒装束の頭上を跳び越えて、一閃、実体のほうの頸動脈を斬った。血飛沫が赤い糸のように宙に一筋流れた。それに気付いているのかいないのか、黒装束は身を翻して逆走したが、
「そうそう、急いで帰ったほうがイイ。小半時は血の気はあるだろうからナ」
「血の跡を尾けていくか」
 藤兵衛が地面を嗅ぐように観て、そういうと、
「いやいや、走っているあの黒装束は脱け殻だ。ホンモノはおそらく別の方法で扶けを呼んだにチガイナイ。向こうにだって意地はあるだろう。そのうち現れるさ」
 羽秤亜十郎、いつもの如く不敵な薄ら笑いを崩さない。


2019年5月21日 (火)

第十回

 玄十郎、抜刀すると下段に構えた。柳生新陰流では、初見の相手に対しては正眼はとらない。まず下段に構えて空きだらけの姿をみせる。とはいえ、ここからの後の先はアタリマエのことで、まず、相手の力量を計ろうというのだ。
黒装束が後ずさりした。玄十郎の強さを見抜いたにチガイナイ。このものには、幻術は効かぬかも知れぬ、と、そう感受したのだ。玄十郎の腕前はワカッタらしい。
ならば仕掛けてみるか。玄十郎の刃が切っ先を変えて逆袈裟に黒装束を斬った。が、斬れたのは装束だけ。中身のほうは消えている。すかさず玄十郎の小柄が闇に飛んだ。
「ウッ」という呻き声が聞こえた。本体、実体はそこに潜んでいる。そう心得て玄十郎、さらにその方向に進んだが、ここで、屋敷のほうから主人だか、泊まりの者だかの声がした。
 玄十郎は一間を逆に飛んで、屋敷に向かう。余り人は出番終了とばかりに逃走。
「あの男、すこぶる出来るナ」
 帆裏藤兵衛が今度は玄十郎に感心している。
「柳生だな。しかも、あの剣筋は尾張柳生だ。驚いたな、尾張柳生がいまの時代にも生き残っていたとは」
 羽秤亜十郎は面白そうに顎を撫でる。
 玄十郎が店の主の閨に駆けつけると、互いに抱き合う主夫婦の前に黒装束がひとり立っている。こちらは蔵の鍵を盗もうとしたのかも知れぬ。
 その黒装束、立ったまま動こうとしない。いや、動けないようなのだ。そのワケは玄十郎、すぐに解した。黒装束の前に雇われの余り人がひとり、抜刀して立っている。およそ二尺七寸の太刀はその侍の右上段に構えられている。いわゆるトンボだ。
「ほほう、薩南示現流か」
 と、玄十郎が呟いた。
 余り人の中にも使い手がまだいたらしい。
 おそらく黒装束が微動だに出来ぬのは、動けば、示現流の初太刀が待っているからだ。
「おい、示現流氏、その黒装束、斬っても中身はござらんぞ」
 と、玄十郎、そういったが、
「わかっておりもうす。拙者が斬ろうとしているのは目前の装束に非ず、その実体でごわす」
 薩南示現流の初太刀が振り降ろされたのは、黒装束の後ろの襖だった。
 グェッという声がして両断された襖からのめり倒れてきた者の頭蓋は石榴のごとく砕けていた。
「おみごとっ」
 と、玄十郎。
 そのときだ。外が闇夜だというのに突然真っ赤に輝き出した。
 慌てて障子を開け放つと庭が紅蓮に燃えている。
「かっ、火事だっ」
 と、声をあげたのは、店の主。二人の武士も一歩退いた。
 紅蓮の炎の中に、いまひとり黒装束が立っている。
「少々、ニホンのサムライを侮った。なるほど、明治の世に剣客は在るのだナ」
 いって黒装束の姿は消えた。
 と、紅蓮の炎もすっと消え失せ、みえるのは庭石と池と松の木の普通の日本庭園。玄十郎と示現流、同時に庭に飛び下りたが、もはや賊の気配はナイ。

2019年5月18日 (土)

港町memory 11

Please wait for a little while

都合と事情により(ってアタリマエのことなんですが)、まんず私の場合は心身の故障なんでござんすが、加齢のため、修復に時間を要します。
/エネルギーの第一、第二法則(現在、科学で法則はこの二つしかありません)からイアン・ブリゴジンの「散逸構造論」にすすんで、ヒトは死んだらどうなるかにまで、駄法螺を拡げる/では、〔時間の非在〕についても解説するつもりだったんですが、/時間を要します/、なんて書くのは矛盾しておりますが、現状、私自身のmotivationのenergie不足のため、「書く」作業が滞(トドコオ)ッテおります。(トド=大人のオスは体重1000kg、メスはオスの四分の一くらいで275kgにもなり、アシカの仲間で一番大い。鳴き声も大きく、海の上では数km先まで聞こえる。アメリカの西海岸からアリューシャン列島、カムチャッカ半島、そして日本の北海道にかけて分布し、なんとまあ一夫多妻制の精力絶倫で、初夏に繁殖をする)そのトドですら凍っているワケですので、energieのentropyの高さが知れます。
ですので、Please wait for a little while,暫し待たれよでございます。

2019年5月12日 (日)

第九回

 ところで、この余りに余っていて寄せ集められた元侍の中にあの柳生玄十郎も含まれていたのは運命の悪戯としかいいようがナイのだが、そうすることによって、物語の展開がオモシロクなるだろうという作者の勝手なideaVektorなのはいうまでもナイ。
 手っとり早く夜半。いつの間にか尾張の国まで登場人物たちの歩は進んでいる。
 黒装束とはいえ、日本のものとはあきらかにチガウ風体の者が数名、渡屋の表戸の前に立つと、そのまま闇に溶けるようにして消えた。
 蔵前には余り人たちが十数名、龕灯(がんどう)を手に見回りについていた。他に店の主人の部屋、家族の部屋の前に数名ずつ。
 まず、蔵前に黒装束がひとり現れた。
「何者っ」
 と、いわれて氏素性を名乗る賊はいない。黒装束は余り人などには目もくれず真っ直ぐ蔵の入り口に迫った。
「こやつっ」
 と、余り人のひとりが抜刀、黒装束を背中から斬り下ろした。ところが手応えがナイ。切っ先はどういうことか蔵の錠前を叩き壊していた。
 この音で残りの余り人は黒装束を取り囲んだ。
「なんという不敵なヤツだ」
「成敗、成敗っ」
 余り人、いっせいに刀を抜くと白刃の襖が出来上がった。だが、黒装束に慌てる様子はナイ。
「そんナモノので、ワタシが斬レるのカネ」
 と、ヒトの声というより、なにか虫が鳴いたような声音で、そういった。
 余り人が握った自身の刀を観ると、業物が木の枝になっている。
 他のものも同様これには慌てた。段平が木の枝だ。
「それがニホンの兵法という、戦法か」
 と、また鈴虫の様な声音。
 この様子を羽秤亜十郎と帆裏藤兵衛は、厠から覗いて盗み見していたが、
「いやあ、呆れたナ。あれが南蛮の魔法かい」
 と帆裏藤兵衛が妙に感心した。
「見事なもんだ」
 羽秤亜十郎は別の意味でこれに関心を示した。
 ところで、いまひとり、慌てがさつく余り人を押し退けるようにして、黒装束の前に進み出た侍があった。柳生玄十郎だ。
「拙者なら、柳の枝でも、お主を倒してみるがナ」
こちらは不敵に笑って、閂差しの柄に手をかけた。

2019年5月 9日 (木)

港町memory 10

港町memory 10

さらに、つづきです。
「量子」と、簡単に称していますが、そも「量子」とは何か。(私、戯曲に「りょうこ」と読ませる女性キャラを登場させたこともありますが)。量子とは、energieの最小単位ということになっています。で、これをニュートン力学で現しますと波、波動、つまり(~)こんなのだったり、粒、粒子(・)こんなのだったりするワケです。波とか粒とか、そういう呼称の仕方はニュートン力学から(として)の観方ですから、ほんとの形状はワカリマセン。
実験装置もニュートン力学世界の装置になります。あの有名なダブル・スリットの実験(これは思考実験ではありません)もそうです。スリットの二つ開いた遮蔽物に対して電子銃で電子を一個飛ばす。で、それがスリットの両方を同時に通過して、スクリーンに到達する。と、これだけ書いただけでも、かなりのニュートン力学世界が混在しています。まず、電子を一個ですが、一発でもいいんですけど、ともかく撃たなきゃしょうがないので〔一個〕としか書きようがナイし、実験の場でもそうするしかしょうがない。スリットを同時に通過するから、波だとしか考えられない。ところがスクリーンに到達するときはまた粒子になってる。そんなバカな、そんな不思議な、というのは、あくまで電子をニュートン力学世界のモノとして観ているからで、電子という量子の定義は/なんだかワカラナイモノ/ですから、/波でもあり粒でもある/というよりは/波でもなし粒でもなし/といったほうがイイのかも知れません。スリットまでの距離もニュートン力学世界ですし、スクリーンの材質だってこの世界のものてす。いい換えますと、ハイデガー的な実験をアリストテレスの装置で行っていると、そんなふうにたとえることも出来ます。
ともかくニュートン力学世界に現出するときは、量子は波動、粒子として捉えることは出来るというだけの話です。
「重力」も量子ですので、「重力子(グラビトン)」といわれたり、「重力波」といわれたりしていますが、波だか粒だか、ワカンナイ。
宇宙が開闢したのは、いまから130億年ばかり前ですが、このとき何が起こったのか。現状では、時間も空間も無いところに、粒子(energie)がトンネル効果というもので何処からか出てきた。これがインフレーションを起こしてビッグバン(大爆発)になった。そうしたところ、粒子と反粒子の数がどちらかが一個多かったので、宇宙は爆発のアト、消滅することなく、膨張を開始した。
こんなこと、お伽話より信じ難いのは無理ありません。だいたい/時間も空間も無いところに/って、どんなところだっ、と怒鳴りたくなります。たった一個が膨らんで爆発して、この広大無辺の宇宙に、なるのかよおっ、といいたくもなります。トンネル効果については解説を省きますが、つまり何処からかenergieが出てきたんです。何処からかって何処からよ、出てきたって何処に出てきたのよ時間も空間もナイのに。これはもうimage出来ません。
キリスト教の創世記で神が「光あれっ」といった、のと少しも変わりません。ですからそれでもイイんですが、ただ、この場合「光あれ」というコトバが存在したことになります。
ヒトより先に言語が在ったということです。

さて、調子こいて、この話、エネルギーの第一、第二法則(現在、科学で法則はこの二つしかありません)からイアン・ブリゴジンの「散逸構造論」にすすんで、ヒトは死んだらどうなるかにまで、駄法螺を拡げることにいたします。
つづく。

2019年5月 7日 (火)

港町memory 9

つづきです。
それでおわかりかとおもいますが、光速度の列車のすれ違いも、巨大ハサミの支点近くと刃先の距離のチガイも、どれだけチガイがあっても、どちらも0hour(時間が非在)なもんですから、何㎞動いても速度は光速度より速くなることはアリマセン。
ずいぶんと「ウラシマ効果(ウラシマparadoxとも称されます)」を単純化して解説しました。つまりは加速度重力という量子力学の成せることだという解説でした。ただし、光速に出来るロケットはありません。ここではあくまで解説を単純化するために光速にしましたが、ロケットの速度を0hourにすることはいまのところ不可能です。(これはこれで、理由はありますが、今回は省きます)。
ところで、時間が無い(非在)なんですから/加齢しない/、というのはアタリマエのことです。
ところで、便宜上でも時間の存在するニュートン力学世界の私たちは加齢します。老化します。老齢化します。齢とります。そんでもって死にます。それは何故でしょうか。何故でしょうてなふうに考えることはありません。決まり事ですから。しかし、これってホントウはずいぶんと難儀な問題なんです。
簡単にいってしまえば、ニュートン力学の世界に存在しているのだから、仕方ないじゃないかということになりますが、では、何故、私たちはニュートン力学の世界に存在しているのでしょう。私たちだって、分子、原子、量子と、微細にしていけば、私たちの実体を構成している最小単位は量子です。量子で創られているものが、何故、ニュートン世界に在って、時間という便宜上の概念のママに加齢していくのでしょうか。何故、私たちの構成最小単位が量子であるのに、私たちの世界はニュートン力学に支配されているのでしょうか。
量子力学は、現存の私たちから考えると常識を逸していることばかりです。しかしながら、非常識なのは、このニュートン力学の世界のほうであって、ほんとうの世界(自然界)は量子力学のほうです。つまり、/何故、ニュートン力学の世界が生じてしまったのか/のほうが謎であり、そう問うたほうがほんとうの疑問なのです。
人類は問いかけています。
前衛の物理学者は問いかけています。
〔時間〕に対しての問いかけです。けして物理量ではナイのに、厳として存在しているようにふるまっている、〔時間〕という支配者。この支配者の世界、『時間の国のアリス』そのアリスがおそらく私たちです。
量子もまた生成消滅します。宮澤賢治が綴った『春と修羅』の序ではその辺りの様相が詩的に表現されています。
/わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)/
シュレーディンガーの猫という思考実験で有名なシュレーディンガーは量子の運動を求める〔波動方程式〕を完成させましたが、「確率」という壁に阻まれ、量子力学から手を引きました。現に〔波動方程式〕だけでは、量子の運動は求めることは出来ません。シュレーディンガーもまた、ニュートン力学のひとでしたから、立場としてはアインシュタインと同じです。しかし、シュレーディンガーは将来は量子と生命の探求が必要となるだろうと言及しました。これが分子生物学という分野をうみだしました。
アインシュタインは、コペンハーゲン派のボーアと論争(「確率」というものの存在について議論)して、その時点ではボーアの論理に屈しましたが、現在ではボーアの「相補性(あるときは波であり、あるときは粒である)」という量子の定義は否定されています。もっとも新しい量子の定義は/波動でも粒子でもある、なんだかワカラナイもの/というものです。
ということはですね、私たちの実体は/なんだかワカラナイもの/だということです。

もう少し、つづけたいとおもいます。


2019年5月 6日 (月)

港町memory 8

つづき、です。
ニュートン力学の忍び込み、といっても、アインシュタインの相対性理論はニュートン力学における考察なんですから、忍び込みというのは正確ではありません。ただ、一般相対性理論では〔加速度重力〕を扱いますから、このあたりは量子力学とのborder lineということになります。問題はこの〔重力〕というシロモノ。これはニュートン力学においても量子力学においても扱います。扱い方がチガイマスが。
さてと、勘違いが何処で始まるかといいますてえと、「相対性理論」という命名がまずソウなんです。相対性というものを考えましょう。新幹線なんかに乗車しますと、プラットホームから発車していく場合、プラットホームをじっと観ていますと、プラットホームが動いているように錯覚してしまうことがあります。もちろん動いているのは「のぞみ700系」のほうなんですけど。
地球とロケットなんてことをいわずに原理だけを考えたら、プラットホームとのぞみ700系と、地球とロケットはまったく同じです。片方は止まっている片方は動いている。しかし、相対的にみると、どっちが動いていても止まっていてもかまわない。
けれども「止まっている」ものと「動いている」ものは実際には違います。なので、「相対性」などといわずに「相違性」といったほうが錯覚をうまずにすんだんです。
なにが〔相違〕なのか。ロケットは加速することがありますが、地球は加速しません。いくらプラットホームが動いているようにみえても、加速しているのはのぞみ700系のほうです。ロケット(のぞみ700系)が加速して地球(プラットホーム)を時速100㎞で離れていっても、地球(プラットホーム)は動いてはいません。いちいち駅が動いていたら、何処で乗って降りたらいいのかわからなくなります。
では、地球(プラットホーム)とロケット(のぞみ700系)は「相対的」ではナイのか。はい、ナイんです。
ロケットが加速したとき、加速度重力というものが働きます。地球は加速しませんから加速度重力は働きません。相対的には加速しているようにおもえるかも知れませんが、相対的ではなく相違的なんです。
この〔重力〕が働いたとき、ロケットはどうなるか。ニュートン力学から量子力学に移行します。ロケットは加速を続けていくと〔重力〕が大きくなっていきます。この場合、[重力]という量子力学的な「場」を持ちつつ飛んでいるワケです。
ところで、〔重力(重力波)〕にはニュートン力学における「時間」という便宜上の概念は在りません。量子に時間は〔非在〕なんです。地球のほうじゃ相変わらずニュートン力学における生活が便宜上の「時間」でつづいておりますが、ロケットのほうでは時間は非在ですから、その飛翔中は0hourということになります。ニュートン力学における便宜上の時間はロケットの加速度重力飛翔中には在りません。時間が0(無い)んですから、双子の片割れが加齢することはありません。
この話、もう少しつづきます。


2019年5月 5日 (日)

港町memory 7

/相対性理論とウラシマ効果/~何を勘違いしてしまうのか。

アインシュタインが特殊相対性理論、一般相対性理論、を発表、重力波の存在を予言してから100年余。そのてのガイドブックやら虎の巻本は数多、手を変え品を換え出版されていますが「これならワカル相対性理論」ふうなのを読んでも、たいていが「それでもワカラン」になっちまいますねえ。学問に王道はありませんから、手っとり早くてのは止したほうが宜しい。
とはいえ、今更もうどうでもイイやなら、それはそれでイイんです。そういうのなら黙していればイイだけのことです。
ところが、「これはオカシイではナイか」と相対性理論のマチガイやら矛盾を指摘する方がワリと在るんです。簡単な指摘ならむかしから有名と、いうか、たいてい持ち出される論法が「光速のすれ違い列車」です。
時速100㎞で走っている列車があります。これが上下線ですれ違う時の速度は時速200㎞になります。だったら光速で走っている列車を想定して、これをすれ違わせば、時速は光速の二倍になるんじゃないの、という論理です。
そうならないんですが、なんでそうならないのかが、納得出来ないんですナ。
もう少し凝った理屈に「巨大なハサミ」論法というのがあります。
これは/いま刃の部分を拡げられたハサミを想定して、交差しているところ・・・支点ですね・・・に近い部分に印をつける。光速で閉じていったら、刃先はその印の部分より長い距離を同時に動くので、光速より速く動いていることになる/という論理です。
なるほど理屈はそうです。
では、何故、それがマチガイなのかというと、実に単純なことなんです。
どちらも/[時間]というニュートン力学の概念をごくごく自然に論理に入れ込んでしまっている/、と、ただこれだけのことです。

長い連休でした。三日ほど旅をしました。
で、帰ってきて、ぼおっとするより、早く日常生活に戻りたかったので、いつものごとく思考の世界に閉じ籠もり、と、そうしまして、「相対性理論」について考えたのです。
(ほんとうは逆なんですけどね。ほんとうは/何故ニュートン力学世界が在るのか/について考えたんですけどネ)。

そこで、みなさん、お悩み(だろうとおもうんですけど、私も悩んだ経験があるからいってるだけなんですけど)の「ウラシマ効果」について、の、〔勘違い〕について解説、といいますか理屈をコネコネしてみます。

「ウラシマ効果」というのは/双子の兄弟がいる・・・姉妹でもイイ・・・片方が地球に残り、片方がロケットに乗って光速に近い速度で、ちょいと宇宙を一回りしてくる。地球時間で50年経ったとします。ロケットが帰って来る。地球の双子の片割れは五十歳、齢をとっている。もう頭髪薄く、あるいは老人になっているかも知れない。ところが、帰宅した片割れは光速に近いロケットに乗っていたので、加齢していない。むかしの若いママ。けれども、「相対性理論」なんだから、ロケットが光速で飛んでいるなら、相対的に地球だって、光速と同じ速さでロケットを離れていっているはずだから、片方だけが加齢しているのはオカシイではナイか/であります。はい、これも勘違い。ニュートン力学時間の忍び込みからきている勘違いなんです。
えーと、旅の疲れがとれるまで、ちょっとこのお話をつづけます。
では、また次回まで、つづく。

2019年5月 1日 (水)

港町memory 6

元号が『令和』になったということで、おもいつくことを幾つか述べてみます。
〇「令」も「和」も『万葉集』の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節から採られたものだという政府発表だが、4500首もの歌が全て漢字(その頃は漢字しかありませんでしたので)で記されているのだから、「令」だってなんだって在ったろう。そこをナンダかありがたそうに日本のコトバの中からと理(ことわ)っているところがかえって胡散臭くてなりまへんな。イイワケがましいとでもいいますか。
〇「令」が日本(日本という呼称は未だナカッタのだけど)で正式に歴史的、政治的に登場するのは、そういや教科書にも出てきたなと思いあたるヒトもあるでしょうが、あれですな、〔律令制度〕ですな。「律令」というのは要するに法律の原初形態で、いわゆる国家体制を規定する基本法であります。私の手持ちの資料集では、大化の改新以降、いろいろな「律令」が登場してまいります。(『令義解(りょうのげ)巻』)
〇「律」は/犯罪と刑罰に関する規定を内容にした禁止法。「令(りょう)」は行政法、民法などを含む命令法、になります。お手本は中国の律令制度ですな。
〇『万葉集』についてもちっと、覗いてみましょう。「貧窮問答の歌(山上憶良)」というのがあります。律令の時代の百姓の貧困を歌ったものです。(万葉集巻五)
/風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩着ぬ 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか ながよはわたる
 天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 言えるが如く しもととる 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術なきものか 世の中の道 世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば/

口語に訳すと以下になります。
/風交じりの雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜はどうしようもなく寒いので,塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり,咳をしながら鼻をすする。少しはえているひげをなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが,寒くて仕方ないので,麻のふとんをひっかぶり,麻衣を重ね着しても寒い夜だ。私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ,妻子は泣いているだろうに。こういう時はあなたはどのように暮らしているのか。
 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。ぬえ鳥の様にかぼそい声を出していると,短いもののはしを切るとでも言うように,鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえる。こんなにもどうしようもないものなのか,世の中というものは。この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。/
〇なんだか、貧しく悲惨なんですが、〔百姓〕というのはもともとは階級を示すコトバではありません。網野史観に似てはいますが、かつて私がresearchしたところによると、農民(農業従事者)からの分業、専業の過程にこの〔百姓〕が登場します。つまり、田畑を耕すひとは、当初、鍬や鎌、鋤などの農具、あるいは竹籠なども自作していた。ところが分業でそれだけを造るひとが出てきた。これが専業ですね。『竹取物語』に登場の「竹取の翁」などはその例です。
〇ところで、この頃、田植えや刈り入れ、その他の農業行事の季節になると、笛や太鼓や鳴り物でこの作業を応援する人々が何処からともなくやって来るようになります。これが神事に発展するのですが、「まれびと」・・・/まれに訪れてくる神または聖なる人。日本の古代説話や現行の民俗のなかに,マレビトの来訪をめぐる習俗が認められる。古代人はマレビトを一定の季節に訪れてくる神とし,この世に幸福をもたらすために,海のかなたから訪れるとも,また簑笠で仮装して出現するとも信じていた/。
/まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する[1]折口学の用語。折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される/・・・と称されるこの人々が現在の天皇体系の原初形態だとおもわれます。
〇その発展として、さまざまな芸能が発展してきたという説も成り立ちます。
というワケで、私ども演劇屋もその端くれでありますワケで、そういった意味では「令和」元年を祝(め)でてヨロシイのかも知れません。

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