港町memory 2
歳をとる、齢を重ねるということは、心身ともに壊れていくことに他ならない。「長寿」というコトバはこの国においては、殆どウソだとおもったほうがヨロシイ。もちろん、このアジアにおいて、下水道がほぼ完備しているのは日本だけなのだから、贅沢はいっていられない。その戒めも含めて、ここ数年は『国境なき医師団』から頂戴した、「少女ほどの年齢の女性が子供を背に薪割りをしている、荒野としかおもえぬ風景(ちょいと向こうにみえるのはホームレスの住居のほうがなんぼかマシといえるような彼女の住居らしいのだが)」を壁紙にしている。
さて、壊れても生きねばしょうがない。
この世は生きるに値するか、と、シッダルータ(釈迦牟尼)はヒッパラの木(後に菩提樹と称される)の下で七年目の修行に入るときに考えた。おそらく、そうだったとおもう。六年間の修行は悟りはおろか、何の役にも立たなかった。彼がまず「生きることは絶望的だ」という前提をもったのは無理もナイことだ。仏教説話にいまものこるような、episodeを思い起こすと、毒矢で打たれたものが、まず考えなければならないのは、誰が毒矢を放ったかではなく、毒矢の読に対する手当てだ。この世界はいったい何なのかと考えるより先に、この世を生きる方法を考えねばならない。かくして、シッダルータ(釈迦牟尼)は瞑想に入る。
「絶望」から始まる思想は西洋にもキェルケゴールの有神論実存哲学が在る。いわゆる「絶望なきものこそ絶望である」だ。シッダルータも私も熱心な信仰はもたないので、キェルケゴールのように絶望から神との邂逅に至るワケにはいかない。
釈迦牟尼の思想はここでは述べないが、ともかく、私自身の壊れ方だけを述べて、それでもしぶとくヤッてますとだけにしておく。
鬱疾患のほうは、ランドセルを一日二錠(朝と夜)服用。このクスリはさほど強い効果はナイが、自殺念慮を防ぐ程度の効果はある、というふうにでもいうておけば足りるだろう。向精神薬や鎮痛剤は、効果のあるものはそれなりの副作用や離脱作用がキビシイことは身に染みて識っているので、この程度でヨロシイ。内科医からは鎮痛剤として、トラムセットをすすめられて数日服用したが、なるほど、痛みのほうはさほどの効果はナイにしても「疲れない」「楽しい」「やる気が出る」。主成分が、オピオイド(ノルアドレナリン・セロトニン)とアセトアミノフェンだから、これは準麻薬だもん、そうなるわなあ。私はセロトニン症候群をやっているので(断薬・離脱終了まで2年かかった)いくら「疲れない」「楽しい」「やる気が出る」気分になっても、クスリが切れればそれまでよ、だ。よって、やっぱりロキソニン。
痛みは、鬱疾患者特有のノルアドレナリンの分泌不足からきているものと、自律神経のバランスの崩れからきている、いわゆるメンタル・ペイン、さらに頸椎の第七関節と第八関節の狭窄による、神経圧迫による両腕の痺れ、だるさ、痛み、これはもう四十年の職業病だから、まだヘルニアに至っていないだけマシてなところですかね。
自律神経のリセットと、血流による沈痛のために、麻酔科で、週に二回星状神経節ブロック注射てのをヤッているが、これはワンセットを70回として(いま64回め)として、経験者によると150回(だいたい2セット)でその、経験者の方は、なんとかなったようですが、私の場合は、もうちょっと気長になるだろう、と踏んでいる。いまのところ副作用はナイので、続行ということにしている。
高血圧の下の数値をコントロールするのに用いているβ-ブロッカーはたしかに当時の医師の優れた判断ではあるとおもうが、如何せんこいつもノルアドレナリンの分泌を抑えるという薬効なので、鬱疾患の痛みとは矛盾はするのだ。とはいえ、数あるβ-ブロッカーの中では、現在のクスリが最も鬱疾患に及ぼす影響が少ないのだから、ある矛盾を抱えながらも、医療というものはそんなものだと考えるしかナイ。(これは精神科主治医と話し合っても結論はそうだった)
一曲、戯曲を書き上げると、1~2週間は気が変になる。心身が壊れ物になる。文筆に加速を使っているのでしょうがナイ。
眼のほうは、奇跡的ともいうべきか「極めて稀なことですが、昨今1年の検査診察から、眼圧の点眼薬はもうささなくてもイイようです。緑内障の心配はナイようです」と、20年ほどの治療の一つは終了し、現在はドライアイの治療だけを受けている。
眼が良くなったぶん、耳がダメになった。難聴からくる耳鳴り(これは現行医療では原因がワカッテいる。脳の過剰な電気信号/聞き取ろうとする必死の努力/が仇になって、耳に音波変換されるので、耳の聞こえないひとにも耳鳴りは在るのだ)が、ひどいときは、耳鳴りではなく後頭部全部ノイズになるのだが、それはなんとかスルー出来ても、聞こえる音がキンキンと反響する(自分の声も含めて)のは、たまらんですな。これは舞台演出のさいの邪魔者になって、前回の舞台は稽古のときは耳栓をして高音部の響きをカットしていた。もちろん、役者のせりふも半分は音量をカットされるので、自分で書いたホンだからこそ出来るという具合だ。
たくさんの盟友、知人、友人、戦友が鬼籍に入った。/相談したいときに友はナシ/が老いて生き残った、死に損なったものの、これからの残りの人生ということになる。
世界、この世がなんなのかワカランが、腹が減るので、飯は食っている。
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