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2018年11月 9日 (金)

塾長lecture ⑧

是故空中 無色無受想行識/ぜこくうちゅう むしき むじゅそうぎょうしき/

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法/むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう/無眼界 乃至無意識界/むげんかい ないしむいしきかい/ 

さてここから、関をきったようにこんどは〈無〉のon paradeが始まります。「色、つまり事象、現象、さらに精神世界や感覚の世界も〈無い〉ということになる。なぜならそれらはすべて〈空〉だからだ」という展開なのですが、贔屓目に読んでもこの論理展開、理路はかなり苦しいものでしかアリマセン。なぜなら「あらゆるものは無い」以上のことはなにも述べていないからです。ですから「般若の智恵」における〈空〉とはそういうもの(「あらゆるものは無い」)ということになります。 

そうすると〈空〉を理解するために、わたしたちは〈般若の智恵〉というものを手に入れなければならなくなります。けれども、それは菩薩としての修行が必要という展開になります。つまり/そう簡単にワカルものではナイ 理解するには修行が必要だ/の類になります。

もういちど述べれば「空だからあらゆるものは無い」としかここでは語られてはいません。よって論理の展開を述べると、無いものに「執着/しゅうじゃく」しているから煩悩の虜となるので、その執着を棄てる修行をして煩悩から逃れなさい。それが〈空〉を識るということだという展開になります。

そうすると、その展開に与しないわたしたちは、コトバを変えれば、わたしたちの存在をかけて「あらゆるものは無い なぜならあらゆるものは〈空〉であり〈空〉とはあらゆるものは無いということだ」という同一性、自同律に対して「在るものは在る」という同等の反証を投げかけねばなりません。そうして「在るものが在っても」空という概念は成立するという理路を導き出さねばなりません。

なぜなら〈空〉とはけして〈無〉ではナイからです。「空は〈存在〉スル」ゆえに〈空〉だといいたいのです。

ここでの『般若心経』の最大の誤謬は「在る」と「無い」を「分けて」しまっている」ことだとおもわれます。分けられないものを分けるからマチガッテしまう。ほんらいヤってはイケナイことをヤってはイケナイと述べた自体が誤ってそれをヤってしまっているのです。

ほんらいならここは「〈空〉だから 在るものが無い 無いものが在る」といいきるべきなのです。 

たとえば「永遠というものには終わりが無い」「無限というものは限りが無い」のですが、「永遠」は〈在る〉し「無限」も〈在る〉。かつ、さまざまな「永遠」や「無限」が在る。そうするとこれは「永遠だから終わりの無いものが在る」「無限だから限り無いものが在る」というふうに記述出来ます。だから是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界も、そのごとく読んで理解したほうが正しいとおもわれます。くだいて読めば /事象、現象は空ゆえに無いかのようにみえても存在し、それらが一時的にみえるのは、〈生成/現出〉と消滅を繰り返しからであって、それらはさまざまに限りが無く在り、感覚の世界も精神世界もじっさいに手の上に乗るようなものではナイので無いかのようにおもえても無いワケではナイ。それらは空においては〈生成/現出〉と消滅を繰り返し、終わりが無いかのように在る/になります。

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