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2018年11月 6日 (火)

塾長lecture ⑤

等式のルールより抜粋

〇〈等号は左辺の記号を右辺で定義するために使うことが出来る〉

このルールからみれば「色」は「空」を〈定義〉していることになります。また「空」は「色」を〈定義〉していることになります。

〇〈等式の両辺に同じものを加えたり、両辺から同じものを引いたりすることが許されるのは、そのような操作をした結果の両辺がともに「意味」を持つときのみである〉

逆にかんがえればよくワカリマス。操作の結果、その意味が左辺と右辺とでチガッテしまう場合は、そのような操作は出来ないということです。

〇〈物理単位の異なる量は等号でつなぐことは出来ない〉

これは「色/五蘊」が物理量ならば(というか、あきらかに物理量なのだが)「空」も物理量でなければならないということを示しています。これは単純にみえて、驚愕すべき部分です。「空」は〈物理量〉なのですから。 

これによって、〈空〉を解して空っぽとか空しいとか何も無いとか、ゆめまぼろし幻想に過ぎないなどと述べるインテリや、坊主たちの〈空論〉は、おしなべて「虚偽」であるという証左となり得ます。

〔「空」も物理量として〈存在〉する「存在」である〕

この命題は重要です。

けれども、一休禅師をはじめとして、〈空〉とはなにかの説明になるとどうしてもそのような〈コジツケ〉の感を免れません。

一休禅師は「即」を「そのまま」と訳しています。それはそれでかまわないのですが、その後の解釈がアヤシイのです。 

たいていの〈空〉の解釈は/「色」を在るものとおもいこんでいるが、すべては夢、幻の如しで、それが〈空〉なのだ/という結論を導いています。

すると五蘊は在るものではなく実体の無いものなのだ、ということになります。

では、なぜそれを〈無〉といわずに〈空〉と論じ、自身の肉身もまた実体が無いなどと、三流詩人の「気分的」に過ぎる絵空事にまで貶めたのでしょうか。それではあまりに〈抽象〉に過ぎます。かくしてその解釈、解説も抽象になる傾向が強くなります。/抽象から具象は求められない/というのは数学の常識です。この経典・教説の弱点もそこにあるのです。卑近にいえば、浮世離れし過ぎているものは世間での実生活には何の役にもたちません。 

どうしたってわたしたちの肉身は在ります。ゆえに釈迦仏陀は、まずその思想の最初に「四諦 したい」/生まれること病むこと老いること死ぬことは、どうしても諦めなくてはいけないことだ/と説いたのです。これは後に「四苦 しく」とされてしまいますが、ほんとうは「四つの諦めるべきこと」(一休禅師によると受け入れること)であって、生まれることは肉身を持つということですから、まず、生まれたこと/肉身をもったこと/それを初めとして /病/老い/死/それらは「諦めねばならぬ」という思想が釈迦の思想の原初、原点なのです。(従って、哲学的には〈如何にして諦めるか〉という問題となる)。

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