塾長lecture ⑥
受想行識 亦復如是/じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ/
受、想、行、識は精神活動/心的現象/とかんがえればイイのですが、この四つの精神活動も同じく実体の無いものだということになります。同じくとは〈空〉なのだということです。しかし、ここでも肝腎の〈空〉の概念が未だに不鮮明です。
達磨太子の有名な逸話に、知ったかぶりの禅師が「カラダなんて実体じゃナイんですよね」と達磨にむかって述べた瞬間、その鼻っ柱を拳固で殴ったとあります。そうして「実体ではナイものが殴られて何故それほど痛がるのか」と高笑いしたそうです。
達磨の教示したかったことはおそらくこうです。「カラダはおもいどおりになるような、あんたが思っているような実体ではナイ」あるいは「諸行無常」「諸法無我」に遵守して「痛いも実体ならば、痛くなくなったのも実体、よって常なる実体というものはナイ」かも知れません。
そもそも「実体がナイ」という規定を充てはめれば、このコトバは「述語」ですから「主語」が必要になります。では〈空〉が主語に該当するのでしょうか。するとその文言は〈自同律〉に転じてしまうことになります。「空は実体が無い。何故、空に実体が無いのかというと、実体が無いから空なのだ」は〈自同律〉〈同一性〉「同義反復」です。(同じ意味だが、哲学と科学では用語がチガウ)「あなたは莫迦なのです。何故あなたが莫迦なのかというと、莫迦というのはあなたのことだからです」と同じ意味合いになります。
では副詞でしょうか。「実体のナイ〇〇〇」でしょうか。「実体の無い空。もし空に実体があれば空では無い。何故なら空には実体が無いからだ」それでも、「同義反復」は免れません。「では何故、空に実体が無いのかというと、空だからだ」です。
ここで判明することは、何れにせよ〈空〉をそのように(実体がナイ、物理量ではナイ)と解すれば〈空〉それ自体が無くなってしまうということだけです。そうなると「色/五蘊」も無いものだ、になってしまいます。すると『般若心経』は無いものを記述した教典/教説、ということになります。そうすると当然の帰結として/教典・教説自体の存在(理由)は無くなることになります/たしかにそのような結語をもって『般若心経』は終わるのですが、それはちょっとバカバカしいことです。修業が足りず悟りに至っていないわたくしのような衆生の偽らざる心情です。
それを察してか、仏陀からシャーリープトラに対する説法のトーンが少々変わってきます。
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