塾長lecture ⑦
舎利子 是諸法空相/しゃりし ぜしょくほうくうそう/
不生不滅 不垢不浄 不増不減/ふしょうふめつ ふくふじょうふぞうふげん/
〔シャーリープトラよ 五蘊は一時的にカタチあるものではあるが ほんらいは 空である 生まれもせず 穢れもなく 清らかなものでもなく 増えも減りもしない〕
ほぼ直訳すればこのようになります。五蘊は「生まれもせず 穢れもなく 清らかなものでもなく 増えも減りもしない」ものですが、いっときはカタチ(相)ではあるのです(増えも減りもしないということは物理量だということだ)。何故ならそれらはほんらいは〈空〉だからということなのですが、マスマス〈空〉に困ってしまいます。わたしたちには、そもそもその〈空〉というものがナンなのかが未だにのみこめない状態(状況下)にあります。
何故、五蘊が「一時的にカタチあるもの」なのか、その理由も示されていません。ここは仏教にくわしいものにとっては、あらゆるものはいっときのものだ/「諸行無常」/と合点はいくのでしょうが、しかし、いずれにせよこの場合の〈カタチ〉とはあきらかに〈物理量〉をいっていることは確かです。(カタチである以上は物理量をともなっているのは物理学的にアタリマエのことです。たとえば、私のカラダはカタチですが、物理量を持っています。物理量とは重さや長さなどのことです。そうして、わたくしも五蘊の範疇に在るものです)。
部族の王子として生まれ、歌舞音曲、遊学に親しみ、録を食み嫁をもらって子供もつくったもの(お釈迦様ですが)に「この世はすべて、ゆめまぼろしで〈空〉である」てなことをいわれたところで「ふざけんじゃねえぞっ」というほかアリマセン。この世界がゆめまぼろしなら、わたくしたちは、もちっとマシなゆめまぼろしをみたいものです。たとえそれが〈空〉だとしてもです。
そこで、わたくしは五蘊や空は〈ゆめまぼろし〉だという論理、摂理にはとうてい「与従 くみしたがえ」ない場に立つことにいたします。
/この世界はゆめまぼろしではナイ。確かに〈存在〉スルのだ/
/ゆめまぼろしのようにおもえることがあるのは、現実と虚構が関数として存在しているからだ/
これが、わたくしの立っている場です。
『般若心経』はたしかに智恵の書ですが、〈空〉を論理、理路の破綻の逃げ道、逃走経路として用いることはしてはならなりません。世の中にはそういう類の〈空〉論が多すぎます。
もし、すべてがゆめまぼろしであるならば、前述したように『般若心経』は大きな〈矛盾〉を持つことになります。なぜなら、『般若心経』自体もまた、ゆめまぼろしと化すからです。
それを結語としているこの教典/教説には、衆生のひとりとして、菩薩にケンカを売るつもりで「否/non」を突き付けねばなりません。
五蘊や空の〈存在のしかた〉をこそ問題としなければ、五蘊や空であるわたしたちがナンであるのかはワカラナイままで終わってしまいます。
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