塾長lecture ②
照見五蘊皆空 度一切苦厄/しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく/
この世界の事象 現象 変容 事物 といった物質的なものから 想念 認識 観念といった心の集まりを五つの「蘊 うん」(集める まとめるの意味)にまとめたのですが、ここでたいせつなのは構成物を五つに分けてそれをまとめ集めたことではアリマセン。
とかく仏教は婆羅門教やヒンドゥー教の影響から、四苦八苦やら八正道やら十二因縁やら 箇条書きを踏襲する傾向にありますが、そのようなものは釈迦の死後、釈迦の教えを弟子たちが持ち寄って編集、編纂しただけで釈迦の思想とは本質的に寄り添うものではアリマセン。これは「阿南/アーナンダ(釈迦とともに托鉢行脚し、その入滅に立ち合った従者)」が明言していることです。
釈迦は、ほんらい待機説法(それぞれのひとびとにそれぞれの方便を持って教義を説く)のひとですから、それを「一つにまとめる」ことを危惧していました。それゆえ、そのようなことが入滅後、行われるであろうことを察知、予知して、阿南には遺言(いごん)として、「自燈明・法燈明」といい遺したのです。
つまり、「法-教義」よりも「自己」のほうを上位に置いたワケです。
「自燈明」とは「自らが燈明となれ」とも解釈できますし、「自らを照らす燈明を求めよ」とも解せます。
たとえば、「四苦八苦」とは「四諦 したい(四つの諦め・・・うけいれ)」に対するマチガッタ解釈でしかなく、「八正道」とは「八つの正しい道」ではなく、「八つ」とは数そのものではなく数の多さをいっているに過ぎず、その何れにも「それぞれの正しい対応がある」と述べているワケですし、「十二因縁」も、「多くの因縁は因果応報などではなく、因縁は覆せるものだ」という解釈が正しいのです。
ここで大事なのは、わたしたちを構成しているモノは、そういった五蘊がすべてだということです。そうしてそれらが苦しみのもとになるということなんですが、いってみれば、ここはアタリマエのことをアタリマエに捉えて述べたというだけで、さして驚くほどのことは説かれていません。
ただ、それら五蘊がすべて〈空〉だといいきったところが玄奘の確信的な訳しどころなのだとおもわれます。しかしそれは、この教説(経典)を難解に導いてしまっているところでもあります。この訳し方どおりにすすめると、一切の苦厄は〈空〉によってとりのぞかれるとあるのですから、依って〈空〉とはなんぞやという難題に挑まねばならないことになるからです。
〔『般若心経』では当然ここから、その〈空〉とはなんぞやが説かれることになります〕
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