第三十六回
九 謎帯一寸解(なぞのおび ちょっととく)
「拙者は、もはや、あの楠木右近と剣を交えようとは考えてはおらぬ。どうしても勝ち筋がみえんのでな。従って、いまは敵ではナイとおもってもらってけっこう。ただ、質したい。あの右近とやらは何者なのだ。ただ、それが知りたい」
殊勝にも、己れの剣を右に置き、一文字左近は北司伊右衛門に頭を垂れていた。もちろん、擬態でしかナイ(例えていえばだが)。
「そういわれてものう」
と、北司元城代は、剃髪を撫でた。この嘘つきめと心の中で嘲笑っていたが。
「教えては頂けぬか」
「いや、お教えしようにも、当方にも左程、識り得たことがあるワケではナイのでな」
「しかし、お雇いになったのでござろう」
「それはの、こういうワケでの」
北司は、真庭小四郎のことから語り始めた。それから、楠木右近を野党牢人狩りの用心棒に雇った、とある村の長を訪ねたことを述べた。そうして、右近の風体をしっかりと脳裏に収めて、それらしき武芸者が立ち回ったとおもわれる場所、時刻、を津々浦々に探すこと数ヶ月。楠木右近自身ではナイが、ある托鉢僧からふいに呼び止められた。
「この世の〈隠れたる者〉をお探しの方とは、そなたかな」
日暮れ時の、村ハズレ、苔むした地蔵の傍らに僧は枯れ木のように佇んでいた。
元城代は托鉢僧の顔を舐めるようにみたが、風貌は右近ではナイ。
「いやいや、拙僧は、そなたの探すものではナイ」
「然らば、何故に、呼び止められた」
「無論、拙僧は、そなたのお探しのもののことを存じておるのでな」
北司は息を飲んだ。
「識ってござるのかっ」
「無用な穿鑿は御免蒙るが、そのものとは、いささかワケアリの仲でござっての。あれは、関ヶ原の戦いのときでござったか」
「せき、が、ハラッァ」
北司でなくとも、驚いたにチガイナイ。時代がチガイ過ぎる。
「いやいや、拙僧は未だ生まれてはおらん。生まれてはおらんが拙僧の前世のものがそこにはおったのだ」
奇々怪々のハナシだが、いまは、どんな事柄であれ百聞に値する。
「で、御坊の前世のものとは」
「円学坊唯全という、やはり坊主でな。坊主の身の上でありながら、影の者としての乱破もどき、密偵という仕業も成しておった。おまけに薙刀の名手だったらしい。これが、ふとしたことで敵対したのが、そちらがお探しの楠木右近と名乗る〈隠れたる者〉だったらしい」
「待たれい」
と、ハナシの腰を折ったのは左近だ。
「そも、〈隠れたる者〉とは、如何なる素性の者なのだ」
そこは誰しも知りたいところだ。
北司はまた剃髪された頭を撫でた。適当にいっときゃよかろう。
「その托鉢僧の申すところによるとだが、あの世の終わりからこの世の初まりに現れし者と、まるで禅問答よの。そう説くしか仕方がナイとその坊主も笑うておったが」
北司は、渋い笑いを浮かべた。これはどうやら、ほんとうのことらしい。
「そこまでいわれれば、もはや、その〈隠れたる者〉という者が何者であるのか、そんなことはどうでもよくなった。強いていうならば、我々の想像を超越している者だろう。ならばそれはそれでヨシということにした。その托鉢僧は、楠木右近の所在をあきらかにしてくれた。さて、これだけのハナシでござるよ」
たしかに想像を絶する謂れにはチガイナイ。一文字左近は無言で畳に伸びた己れの影をみつめていた。庫裏の蝋燭の炎がつくった影だったが、それが左近には、近づき難い楠木右近の背姿に感じられたからだ。(こういうのを、それらしい作文という)
しかし、と、一文字は顔をあげた。それは、もしかすると伝説の類なのではないのか。まさか「関ヶ原」に生きていたものが、この明治維新に姿をみせるとは。それでは、あの剣客は不死身だということになる。人魚の肉でも食ろうたか。
「然らば、あの楠木右近に対する戦いは、意味のナイことになるのか」
独り言のようでもあった。
が、北司は、左近のそのコトバに応えた。
「と、いうか、虚しいものだということはいえる」
まさか。一文字左近は同じ武芸者として、未だそれは納得することを許すには早計とおもえた。もし、今一度立ち合うことになったなら、直截、かの男の口から聞いてみたいものだ。貴様は何者だという問いの答を。神仏の類でもあるまいに。
と、何かまた、この剣客らしい名案が浮かんだのか、一文字左近は刀を手にして立ち上がり北司に暇を告げた。
「どうなさった」
不意の挙動を伊右衛門は怪訝におもった。
「拙者に鍔鳴りの太刀を伝授した師匠はまだ健在でな。同じ作法、何かツナガリがあるやも知れぬ」
ほほう、声に出せばそうであったろうが、剃髪の元城代は一文字を黙ってみおくった。少なからず蔑みを含んでいたのは、おそらく甲斐のないことに終わるだろうという予想があったからにチガイナイ。