第二十八回
左近は、元松阪藩城代、いまは寺の住職に甘んじている北司伊右衛門の庫裏で、その運の無さに遭遇していた。
一文字左近が、北司伊右衛門の住処である古寺をつきとめ、そこに忍び込んだまでは彼の作戦(というか思惑)どおりだったようだ。しかし、
しかし、そこには先客が在った。これが想定外の運の悪さというワケだ。
先客は楠木右近ではナイ。剃髪に作務衣からして、寺社にでも務めている修行僧かのようにみえるが、そうではない証拠に背中に大刀を備えている。つまりは剣客。その剣客が、北司と対峙しているのを左近は観たのだ。
二人は懇談しているワケではなく、北司の額に浮かぶ玉の汗から推し量ると、作務衣のほうが何か難題をふっかけているといったふうにみえた。
左近は庭の灌木に潜んで、耳を尖らせる。
「だから、単純明快なハナシだろ伊右衛門さん。朱鷺姫とやらを斬るか、楠木右近を斬るか、どっちかだといっているのだから」
そう、左近は聴いた。聴いて、~何者~と、眉間に皺を寄せた。右近を斬るとはどういうことだ。あれは、新しい敵なのか。少なくとも卍組にはその顔をみたことはナイ。
「そのようなこと、ここで申されても、拙僧には答えられるワケがナイ」
「じゃあ、何処で申せばイイのだ」
作務衣は立ち上がると、すたすたと、庭が一望出来る縁まで出てきた。
「ここで、あの灌木に隠れている御仁にも聞こえるように申そうか」
左近は、おのれの刀の柄に手を置いた。潜んでいることを見破られている。
「おい、貴公、鍔鳴り剣法を使う、ナンタラとかいう野郎だな。なんなら隠れたままで柄を叩いてみたら、どうだ」
憎たらしいことをいう。挑発にはチガイナイが、小馬鹿にされている。一文字左近ともあろうものが、だ。
「いわれるまでもナイ」
こうなったら、と、左近は灌木から姿を現した。そうして、柄を拳で、
「んんっ」
叩こうとはしたのだが拳が柄に届かない。つまり、片手が動かない。これはどうしたことだ。一文字左近、狼狽す。
「動かねえんだろ。アタリマエだ。動かなくさせているのはおいらだからナ。これがおいら、羽秤亜十郎(はばかり あじゅうろう)の兵法、傾斜流不動術ってヤツさ、おぼえておきナ」
羽秤亜十郎、何者っ、と、思案、憤っている場合ではナイ。一文字左近、一寸も身動きが出来ない。しかしながら、なるほど、こうすれば、右近の鍔鳴りも防げるということか。と、この男らしく、しっかり経験学習はしている。
「斬られるとでもおもってるのかい。冗談じゃねえ、おめえを斬っても一文にもならねえ。そういう割に合わないことには手を染めないのが、羽秤亜十郎さまだぜ、ハハハ」
今度は、笑われている。おのれっ、とはおもうが、カラダが動かない。これはいったい、なんだかワカラン兵法者ばかりが登場し過ぎではないか。左近、今度は、批評まで始めている。