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2018年10月29日 (月)

第四十ニ回

 維新の剣客たちは、ともかくも廃刀令によって刀の所持を禁じられているのだから、帯刀を許されているものは特別な資格を有するものか、特定の職種に限る。赤毛結社などもその特定の職種には違いなかったが、毛髪を赤毛に染めることを嫌い、ほんの少し髪の部分を赤くしたものも在った。切場銑十郎などはその部類だ。しかし、そうしないことには、いちいち結社社員証明などを提示しなければならない。密命を受けたものにそんなことが出来るワケがナイ。そのためのいわば黄門さまの印籠のようなものが赤毛だったワケだ。

 そうなると、当然、ニセモノが出現する。

 切場銑十郎は、このニセモノと幾度か闘ったことがあった。ニセモノかどうかは相手の腕次第ですぐにワカル。赤毛結社の強面はさすがにみなさん達人の域だったからだ。とはいえ、凄腕のニセモノもいたことはいた。ほぼ互角くらいの練達の者も在ったのだ。

 そんな中のひとりに小野塚新左衛門という直心影流の使い手があった。直心影流は山田平左衛門が起こした流派だが、この流派が廃刀令になってもなお長持ちしたのは竹刀と防具による稽古を開発したからだ。ここに「剣道」という名称が発明された。

 結社の連中も当初はこのニセモノを「道場剣術」と侮っていたのだが、真剣勝負で絶命はしなかったものの二人までが深手を負うという事態が発生した。

 小野塚新左衛門にしてみれば、いわば新政府の「犬」となっている赤毛結社なる兵法者への挑発だったのだが、従って、命をとるつもりはなく、それゆえによけいにその腕に警戒を要した。

切場銑十郎はそのハナシを聞くに及んで、早速、その小野寺直心影流と立ち合うことにした。立ち合う場所も時刻も秘密だったがこれを観たものが在った。そのもののハナシによると試合の模様はこうだ。

 切場銑十郎は最後まで抜刀しなかったというのだ。ただ、鍔の無い黒い長刀を垂直に構えていただけで、小野寺は抜刀し構えてから数分後に首と胴体が離れてその場に伏した。切場銑十郎は勝負の場を立ち去るさいにひとこと、「これが黒魂斬首刀というものだ」といい残した。

 この噂が広まってから、「抜かずの切場銑十郎、敵の魂を抜く」という囁きまでがあちこちで聞かれるようになった。つまり、刀を脱がずに敵手の首を引き抜くという意味だ。

 

 帆裏藤兵衛の左右の腰に在る二刀が中国伝来のものだということを羽秤亜十郎はよく知っていた。とにもかくにも戦乱と権力闘争しかナイような歴史の国だから、さまざまな武器、武具が発明された。それにともなって、発達したのが中華料理となっていまも伝えられているものだ。なにしろ戦となれば数千数万の野営の兵士は数千数万食の飯を食うことになる。食料は持ち運ばねばしょうがないが、問題は調理料理だ。台所を運ぶワケにはいかない。そこで考案されたのが土を盛り上げてつくった簡易な竈と、丸底のいわゆる中華鍋だ。現在の中華鍋には把手のあるものもあるが、戦場では単純な丸底の柄の無い丸鍋だった。俎(まないた)は近隣の樹木を輪切りにしたものを使う。包丁は(これはもともとは、包・・・料理人のこと・・・の丁という男の名前から名付けられたのだが)戦場で折れて使い物にならなくなった青龍刀を用いる。アトはオタマ一つで、汁物から炒めもの揚げ物までをこれで賄う。

 この合理性は武器においても合理的に確実に相手を倒すことの出来る武具の発明考案に向けられた。帆裏藤兵衛の二刀は長さが一尺ちょっとだが、刃の巾はやや広く日本刀よりも厚い。いうなれば日本料理で用いる出刃包丁の変形のようなものだとおもえばさほどマチガイではナイ。つまり殺傷能力に優れている。

 これに加えるに帆裏藤兵衛は「血風塵」という戦闘法を編み出していた。如何なる工夫が成されるのか、砂塵を巻き起こして立ち会いの場を砂煙にしてしまうらしい。戦闘はその中で行われる。砂塵の中で帆裏藤兵衛が二刀を如何ように用いて相手を倒すのか、これは誰も(羽秤亜十郎でさへも)観たことはナイ。

 

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