第二十二回
第二十二回
「クワッ」という喉からの呻(うめ)きを発して、只飲理兵はもんどりうった。その間隙を逃さず、一文字左近の刃は、まさに一文字に只飲理兵の仰け反った喉笛に斬りかかった。
キーンッと、金属の弾かれる音がした。左近の刃が只飲理兵の槍の一節に跳ね返されたのだ。それはもはや、反射的な防御だ。さらに、すかさず只飲理兵の八節槍の先端が一文字左近の喉元まで伸びた。これを左近は寸前で交わしたが、間合いをとると刀を収めた。
「無駄な争いと、そう、おもったが、チガウか」
腕前は同等。ならば、相討ちなどという、相互の利益にならぬ事態になることもあり得る。
それを避けたといっていい。
「確かに、狙う相手はお互いに、かの楠木右近。ここで怪我をしても無用のこと」
只飲理兵も槍を懐に収めた。
つまり、かつての近藤勇との戦いと同じことが、ここでも起こったことになる。
「初めての経験をしたが、その槍術、相当のものだな」
「いやいや、それがしも、ヤラれる恐怖を感じたでござるよ」
両者はそういって暫し黙したが、どちらともなく、その場から姿を消した。
かくなる死闘というべき、兵法者、あるいは武芸者どうしの闘いは、人知れずつづいているのだが、徳川幕府からの権力者転換の戦闘において、すでに刀剣の時代は終わっているはずなのだ。
弓矢が戦場に〈飛来する〉武器として登場した折、これ以上の防御に難しい殺傷力を持った武器は今後造られることはナイだろうというのが、当時の戦術家の殆どが持った見解だった。しかし、その後の火気兵器の登場は、次々と新式の兵器の登場を無限の階段を駆け上がるかのように予言していた。
元寇(げんこう)と称される、モンゴル蒙古の鎌倉時代の日本侵略において、武士は初めて〔鉄砲・てつほう〕という火器に遭遇した。蒙古の軍勢の用いた〔鉄砲〕は、いまでいう鉄砲とはまったく関係のナイ手投げ爆弾だ。さらに、この火器兵器は蒙古軍の主力兵器というワケではなく、主には撤退の時の追撃を防ぐために用いられた。よって、この〔鉄砲〕によって日本軍の軍勢に大きな被害が出たワケではナイ。また、広く流布されている「神風」による蒙古船団の壊滅は多くの歴史家のあいだで否定されている。
元寇第一期、文永の役では当時の気象状態は台風にはまったく関係がなく、また、蒙古軍船が被害にあったのは敗退、撤退における海上で、このときの蒙古の敗退は蒙古軍が大陸の軍勢であるところから、海上の戦いには意外に弱く、逆に鎌倉幕府のほうはその前身である源氏が海上戦で平家を破った経験を持っており、その戦い方が伝統的に残っていたのと、陸上戦闘においても蒙古軍は地理がまったくワカラズ、ある程度勝ち進んでも後続部隊や救援部隊との連絡がうまく計画されておらず、途中撤退を余儀なくされたためで、当時の幕府軍は多大な損害を受けながら(これは妻子眷属に及んでいる)も、いまでいう遊撃戦において蒙古軍を拡散させこれを破ることが出来た。
第二期の弘安の役にいたっては、北条時宗の指示により、九州各地に防衛態勢が整っており、このときは、ちょうど台風のシーズンと重なっていたこともあって、海上気象のことについては不慣れな蒙古・高麗連合軍は天候においても窮地に陥り敗退を余儀なくされている。
ちょうど、この頃は、武士にとっては黄金時代だったことが日本に幸いしたのだ。

