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2018年9月 7日 (金)

第四回

三、旅初赤毛敵(たびははじまるてきはあかげ)

 

何処かの林道とおもっていただければいい。およそ時代劇、あるいは剣戟物語、いわゆるチャンバラの場面は限られている。それは、現代の刑事ドラマも同じ。また、超時空を扱うSFにしても似たようなもので、各々のドラマにそれぞれのお決まりの〈時空-場面〉は、つきものだ。

相変わらずの着流しを関東帯で締めて、巴紋の長羽織、浅い編代笠だけの旅支度。右近は、その何処かの林道に差しかかっている。

林道は急ぎ旅の者が使って歩く裏街道とおもわれる。そんな名もナイ街道を選んだのは、あながち急ぎ旅のせいではナイ。その理由はすぐに判明する。

常人には感じられない、血の臭いに右近は気づいていた。

行く手に、おそらく仕込みの杖であろう、帯刀せずに右手でその柄を下段、斜め前にぶらりと差し出した、赤毛頭にやくざ者が身につけるような朱色の着流しが現れた。頭髪も赤なら、costumeも赤。右近は、このような曲者を待っていた。裏街道の林道は、このような敵を誘い込むには最も適している。いわば右近の策略だ。いずれ闘わねばならぬならば、襲われやすい場所を選んで歩けばよい。それだけのことだ。限りのナイ敵ではナイ。ならば、これ、すべて倒せばよし。大胆不敵ともいえる兵法だ。

 無論、右近は立ち止まる。

「先程から血の臭いがしていたが、お主の、その仕込みのせいだな」

先にその赤毛に声をかけた。

これを聞くと、赤い着流しが、声高に笑った。

「カッカッカ。いや、ご明察、さすが右近さんだ。ここより十数間ばかり行かれると、いやいや、行くことが出来れば、の話だがナ。すると、黒装束の木っ端ものが数人倒れておる。もちろんのこと、わっしが斬ったばかりだ。卍組とかいうくずれ忍びの衆だろうが、おそらく、お主を待ち伏せしていたのであろう。忍びらしい小癪なマネだ。こちらは待ち伏せなど卑怯な真似はせぬ。邪魔者は、わっしが片づけておいたというワケだ。さあて、楠木右近、またの名を鍔鳴り右近っ」

 着流しは仕込みの杖を左手に持ちかえると、そのまま中段、ほぼ水平に上げた。右掌はその柄の部分にふわりと浮いている。

「仕込み居合か」

「これより、お目にかけるは、鬼一法眼より伝わりし古流、京八流の流れを組む居合と心得よ。もうひとつ、断っておくが、これは刀ではなく剣だ」

「ほほう、なるほど、両刃ということか」

 

考古学的にいうと、剣と称するは両刃、片刃のものが刀ということになっている。日本刀は、片刃の鉄剣で反りがあるが、当初、日本に中国から伝来した刀は直刀で、いまでも中国の『武侠映画』に登場するのは主に両刃の直刀だ。これに反りが加わったのは、馬というものが戦場に現れるようになってからだ。馬上からの闘いで、直刀だとスッポ抜けやすいので、少し曲げたワケだ。これを「蕨手刀(わらびてとう)」と称する。

鬼一法眼とは、関東七流と並ぶ大きい剣技の流れ、京八流の創始者だが、『義経記』に剣の達人で陰陽師というふうに名を残しているものの、その実在性は不確定だ。源義経に鞍馬の山奥で剣を教えたとあるが、伝承でしかナイ。

この時代、明治の初め、「居合」と「抜刀術」は同じような使われ方をしていたようだが、もともとは、敵の不意打ちを迎撃するのが「居合」で、〈不意に〉先に抜いて斬りかかってくる相手を如何に倒すかに重点が置かれていた。たとえば映画『座頭市』の場合は、当人が座頭であるため常にこの形態をとらざるを得ない。この剣技は、のちのち、柳生新影流の「後の先」にも通じていくことになる。

「抜刀術」は基本的には、相手に「見切り(身切りともいう)」をさせなくするための工夫の一つで、抜くまでは刀身の長さはワカラズ。先に抜かせて見切りをつけ、斬り込ませ、後で抜く刀で、剣先が見切られる前に相手を倒す。「抜刀術」も、また「後の先」の技が基本だった思われる。

京八流にそういう技があったかどうかは、fictionだが、これらの剣流は、新影流の上泉信綱によって考案、完成し、「無刀取り」から「活人剣(かつにんけん)」として、柳生石舟斎に伝授されていった。「活人剣」といえども、やはり、ひとを斬って殺す技である。この辺りは、現在の時代劇でも誤解されているフシがある。

のちに柳生宗矩が「活人剣」を鼓舞したのは、あくまで剣はひとを殺すものに非ず、天下国家(ガバメント)を守るものと規定したからに過ぎない。大事の多を活かすために禍の少を斬る、というのが「活人剣」といわれるもので、よって、剣の技を競う他流試合を認めなかった。

ところで、柳生新影流の始祖、柳生石舟斎はまだ若い頃(但馬守宗巌の頃)じつは、楠木右近と邂逅したepisodeがある。これは時代が大きくずれるので、妙なハナシにおもわれるが、これは歴史劇ではなく時代劇であり、illusion(伝奇)小説なのだから、そんなことにはかまっていない。(つづく)

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