第十六回
一文字左近は、ニッカボッカーに開襟シャツという奇妙な出で立ちで、特別に設えたらしい太いベルトに大小を帯刀しながら赤毛結社agitpunkt を出た。奇妙な出で立ちと書いたが、この時代、このような風体の何者ともワカラヌ人々はけっこうな数で闊歩していた。維新の自由さというより、むしろ、無秩序な出鱈目さといったほうがイイ。或いは、その後の明治時代の文化的な展開を俯瞰すれば、この時代はある意味で〈可能性〉がゴロゴロ転がっていたといっても過言ではナイ。
ただし、一文字左近のcostume styleが、そうだったといっているワケでもナイ。
左近の足の向く先は千眼通から脳髄に直截みせられた岩礁のある海の漁師町だ。いくら〈隠れたるもの〉といえど、現時点の所在地を探るくらいは出来るだろう、そうしてくれぬか、という左近のmissionに千眼通が応えたワケだ。
海は心なしか荒れている。岩礁を眺めていると、「東映」の三角マークが浮かび上がってきそうな気配さへする。どうやらその辺りに右近が潜んでいるらしいのだ。このオトコの魂は未だに兵法者らしく、右近と刀を交えることの悦びに武者震いすら感じていた。
ところで、岩礁を眺める付近に右近は潜んでなどいなかった。しかし、残念ながらということではナイ。波飛沫から遠ざかって、しばし松林の辺りに進んだ一文字の足の動きが、ピタリと止まったのも無理はナイ。さきほど千眼通の術で観た、あの右近が、目の前に姿をみせたのだ。
「〈隠れたるもの〉にしては、えらく都合良く現れたナ」
いってはみたが、左近、もちろん驚いている。
右近は無言、無表情で左近をみつめている。
述べたとおり、海鳴りが聞こえるところからは些か離れている松林の砂地だ。おらくその辺りは新しく開墾されてやがては家並みになるらしく、伐採され製材された木材が無造作に積み上げられている。
その木材の上に、空気を泳ぐようにふわりと一文字左近は飛び上がって着地した。飛んだというより浮遊したという感触だが、それはこの剣士の技量のひとつかも知れない。
しかし、すでに右近もそこに、左近の眼前に在った。
「なるほど、拙者ほど身軽というワケでもなさそうだな。瞬間的に動ける俊足の術でも心得ているのかも知れぬが、そんな体術はこの一文字左近には、何の意味もナイと知れ」
不敵な眼差しで、左近が右近を見据える。右近は未だ表情ひとつ変えない。
何の合図もなく、両者は互いの柄を軽く拳で打った。何れかの兵法/鍔鳴り/が、何れかを倒すことにマチガイはナイ。
と、またsceneが変わる。
ちょっと試しにとでもいうふうに、そんな「ノリ」とでもいうべきなのだろうか、赤星と南郷霧丸は最寄りの剣術道場に飛び込むと、サーベルを腰にぶら下げた制服警邏の観ている前で、片っ端に門弟たちを薙ぎ倒した。いうれば江戸時代によくあった道場破りというところだ。もちろん、二人一組の秘技を門弟たちに披露したワケではナイ。
それを使ったのは、まったくの試しとばかりに師範らしき者にのみだ。
徳川の時代、兵法者にもっとも恐れられたのは柳生の三位一体の攻撃で、いかに達人といえどもこれに対峙することは不可能とされていた。三位一体は何もキリスト教の特許ではなかったのだ。(ただし、東方正教会ではローマカトリック/西方教会/の用いる「三位一体」をそのママ認めているワケではナイ)
具体的には、三位だから攻撃は三人で、一体、つまり同時に行われる。一人は飛んで頭上から、一人はそのままの位置から胴を払い(突きの場合もある)、一人はかがみ込んで足を斬る。伝説の剣豪、宮本武蔵も、ものの本によってはこの攻撃を受けたことがあるが、武蔵は飛び上がった者と同時に飛び、そのまま一太刀浴びせて、逃げた。これは跳躍力が並外れてあった武蔵だからこそ出来たことで、三位一体が何組もあって、次々と襲いかかられては武蔵とてやがては倒されただろう。
では、赤星と南郷霧丸による、二人同時の戦法とは如何なるものなのか。